憧れと距離

1

 僕がジャズをやり始めたのは、とあるビッグバンドに加入したのがきっかけだった。
 いや、厳密には、この言い方は適切ではない。それまでオーケストラでクラシックしかやったことがなかった僕が、参加できそうなオケが身近になくて、だったらそれまでやったことないジャズをやってみようと思ったのだった。そう思うようになった細かい理由だの経緯だのは忘れたけれど。それで、ジャズの演奏を学ぶ上で、とりあえず集団に参加して色々教えてもらおうと思って、ビッグバンドに入れてもらうことにしたのだった。
 だから、ビッグバンドに加入したからジャズを始めたのではない。ジャズをやる上でのとっかかりがビッグバンドだったわけだ。

 実のところ、ビッグバンドがすごく好きなわけではなかった。むしろ、あまり聞いたことはなかったいうべきだろう。ジャズといえばモダンジャズのイメージで、ワンホーン(当然トランペット)のカルテット、ブラウニーだのウィントンだのチェットだのばかり聴いていた。
 本当は、やりたいのもそっちだった。アンサンブルよりインプロビゼーションが学びたかった。だから、ビッグバンドは本当に目的というより手段、ジャズを学ぶとっかかりに過ぎなかった。ビッグバンド好きな人には申し訳ないけれども。


2

 でも、ビッグバンドをやっていたおかげで、いくつかのバンドからお誘いをいただける機会が生まれた。ありがたいことだ。僕などが同じ土俵に立っていいとはいえない場に立つこともできた。一応共演歴でいえば、プロの方々とも共演したことになる。ありがたいことだ。申し訳ない気分にもなる。
 今でも、一年に数回、複数のビッグバンドの一員としてステージに立たせてもらったりしている。けれども、どれもいわば「単発イベント」的なバンドであり、恒常的に活動しているバンドではない。
 僕は、長年継続して活動しているような固定バンドの正規メンバーには、もうなれない。集団の一員であることができないからだ。

 それでも、知り合いが出ているバンドの演奏を聴きに行くことはある。そして、聴きにいくと思うのだ。舞台上の知人たち(中には知らない人もいるのだけど)を見ると思うのだ。仲間と一緒に演奏するのはいいなあ、と。

 でも、わかっている。僕はそういう場所にいられる人種じゃない。
 集団の一員として役割を果たし、多くの人と適切な距離感を保ち、それで何かをうまく作り上げることは、僕にはできないことなのだ。これまでに、そうしようとして何度も痛い目にあってきた。だから、もう十分にわかっていることなのだ。
 どんなに楽しそうに見えても、僕はそこに行こうとしてはいけない。憧れる対象は、手が届かないからこそ憧れるものになる。だから、手に入れようとしてはいけない。
 
 自分がそうであることは、確かに淋しいことではある。けれども、同時にそれでいいのだとも思う。
 だって、元々やりたかったのは、ビッグバンドじゃなかったのだから。コンボできれば十分なのだから。それができているなら、もう十分ありがたいことなのだから。
 だから、それでいいのだ。


3

 ただ、それとは別に。やはり知り合いの演奏を聴くのは楽しい。
 以前もあったことだけれど、気分が優れないときに素晴らしい演奏を聴いて、もやもやした気分が一気に晴れたことがある。素晴らしい演奏を生で聴いたときは、そういうことが起きる。著名な演奏家の演奏でももちろんあるけど、個人的には案外自分の身近な人の演奏でこそ起きたりするものだ。

 今回もそうだった。
 いい演奏を聴けた。素直に感動した。ごく自然に拍手が出た。
 僕の演奏をよく聴いてくれている人の演奏だった。こんな素晴らしい演奏をする人に、僕の音を聴いてもらっていたなんて、申し訳ないやらありがたいやら。こういう感情を抱くことができて、本当に感謝しかない。
 そして、直前に少し悪くなっていた気分が、すっかり晴れてしまった。まさかそんなことになるとは思ってもいなかった。ありがたいことこの上ない。
 大切な体験だったと思う。忘れてはいけない。

 

p.s.
 でも、気分の悪くなる思いはしたくない。ほんとにもう、現れないでほしい。
 そんなことは無理なのだろうと思うけれど、そう思わずにはいられない。


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