見出し画像

本の虫12カ月 6月



 会社を定年退職したら、
と夢想するサラリーマンみたいに、
ゆっくり本が読めるようになったら、
と思っている、毎月々々。
時間がないとかいう訳ではなくて、
世界が読みたい本で溢れていすぎるから、
いつも早足で読み飛ばして、
もっと、もっといろんな本を、
と欲張ってしまう。

それでも、
ヨセフを知る一族の本たちが、
だんだんわかるようになってきた。
もうこれ以上本が手に入らなくなったなら、
手元にはこの本たちを残しておきたい、
という本たちが。

でも耽溺しない読書、
わたしの世界を拡げる読書、
というのもたいせつだと思っていて、
だからやっぱりまだ読み漁ってしまう。
どうか図書館とくまざわ書店が、
これからもわたしと共にいてくれますように。


↓前の月



「母を失うこと
大西洋奴隷航路をたどる旅」
サイディヤ・ハートマン

これは図書館の紀行文のコーナーに
おいてあったが、
合っているとは思えない、歴史のとこに
置き換えるほうがよい。

気になっていた。
ブレイディみかこさんの推薦文がついていたが
わたしが思い出したのは、藤本和子さんであった。
彼女の本の世界のほうがつながっている。

アメリカ南部の、完全に断絶された世界を、
わたしは知っている。
黒と白が交わることのない世界を。
そこに誰でもないひととして存在していた。
わたしの知っている世界は、
ほとんど白かった。
真っ白といってもよかった。
黒人のひとと交わることは、
ほとんどなかった。
ときどきその深い淵をのぞいては、
たったひとりの日本人少女は
じぶんの属している社会、
歴史を共にしているひとびと、
じぶんが白紙ではない土地、
日本語の本が容易く手に入る国に、
わたしは帰るべきなのだと思った。
わたしから図書館と本屋を奪っていけない。

なにかが、見つかる?
むなしい問い。
「この仮の宿にて、わたしは
主の掟をうたいます」
いるべき場所を示され、そこで
与えられた役割を果たしているわたしが
問うのは傲慢だけれど。
この仮の、宿にて、わたし、は。


「ワイルド・スワン」中
ユン・チアン

なんて、いう、地獄。
「それでもわたしは魂を売らない」
という父親。
こんなふうに、全体的にこの狂気を捉えられた
ひとはきっと少ないのだろう。
まわりにいる中国のひとたちを想う。
彼女たちの言葉の端々にある
「あのころは大変だったから」だとか
聞き逃してしまいそうな言葉には
こんな地獄が隠れていたのかしら。
きっと、そう。
把握することができなければ、
工場で働いていたヴェイユが語るみたいに
ただ考えることを放棄して、
なにか茫漠とした闇のように、
苦しみは、貧しさは、押し潰してくる
大きな物体みたいに、なる。
だから、ことばの端に、
耳を澄まさなければ、聞き取れない。
なんて、いう、地獄。


「ワイルド・スワン」下
ユンチアン

読み終わった。
まあ、もう、なんていうか。
同時期に読んでいる天安門事件の本でもおもったが、
あれだけ人口の多い国では、ある程度強権的な政府
でないと治まらないのでは、とロシアや中国。
ミンシュシュギ、は比較的に良いものだ。
神として奉るほどではないけれど、
わたしはこの自由を感謝している。
ほんとうに、ほんとうに。
空気みたいな、自由を。


「八九六四」
安田峰俊

天安門事件。
ワイルド・スワンと、いまの中国をつなぐ本を
読みたかった。これはまさにそういう本だった。
中国という国、中国人というひとたち。
わたしは身の回りにいるひとたちを思いながら、
彼らをもうすこしよく理解できるようになるかも
しれないと読んでいる。文革について読みながら、
あら、あのおばあちゃんはもしかしたら、
この時代を生きたんじゃないかしら、とか。
あのひとたちを白紙にしないためには、
こちらが理解しようと、学ぼうとしないと
いけないのだとおもう。
それに、それってとても楽しいことじゃない?
彼らを愛しているから、
それは楽しいし、苦にならない。


「ある奴隷少女に起こった出来事」
ハリエット アン ジェイコブズ

黒人のひとたちの、持続する意思、について
藤本和子さんが書いていた。
もっとちゃんと正確に引用しよう、
「苦難のなかに、人間らしさを失わずに生き延びるには、持続する意思がなければならない」
「わたしはその世界のことをおしえてもらいたいと思った。苦境にあって人間らしさを手放さずに生きのびることの意味を」
それからまた、夜と霧のことばをも思い出す。
「おおよそ生きることに意味があるのなら、
苦しむことにも意味があるはずだ」
社会がどれだけ良くなろうと、
(良くなってはいないだろうが)
どこかに、こういう苦しみをするひとは、
いつでも存在するだろう。
社会を問うべきだ、それは確かだけれど、
この世界において、悪の存在は絶えることがないのだから、わたしたちは、苦しみの意味を問うべきではなかろうか。安逸の生や、行動的な生のみに、
意味があるのではない、とアウシュビッツの医師が言っていたように。苦しみの、意味を。


「塩を食う女たち」
藤本和子

このながれで、再読。
こういう、強い女性たち。
特にトニ・ケイド・バンバーラと
そのお母さんみたいなひとたち。
一年半前に読んで、わたしのしたい子育てって、
こういうことだったんじゃないかしら、と思った。
母の子育てに、似ていた。
母のやり方は、にほんの一般的なものから、
かけ離れていて、母自身も批判されたし、
わたしも半分理解できなかった。
でも実際子供を育ててみて、
わたしのなかにあったのは、母のやり方だった。
精神が、自由であること。
閉じ込められないこと。
手さぐりと本能で、その道を進もうとするわたしに
くだらないことを言うひともいるけど、
わたしは母が成功しているのを、
それぞれの子どもたちをみて知っている。
わたしは60才くらいの年齢の女性たちのなかで、
母をいちばん尊敬している。
あのひとがいなかったら、大人の女性になることに、
失望してしまったかもしれない。
それにしても、母はどうして
アメリカの黒人女性にも似たような
魂を得たのかしら。
わたし自身はもう少し生真面目で、
四角張った性格をしている。


「リチャード三世」
ウィリアム・シェイクスピア

なんどめかに読み返す。
薔薇戦争についての動画をみたから、
ヘンリー6世やマーガレット王妃etcが
だれなのかわかるようになったので、
読み返してみた。
“Now is the winter of our discontent
Made glorious summer by this son of York“
「馬をくれ! 代わりに王国をやるぞ!」


「大司教に死来る」
ウィラ・ギャザー
須賀敦子訳

図書館に返す前に、
半分まで読んでたんだから、
と読み終わらせた。
あまりにカトリック的すぎて、
わたしには、無理だった。
「カトリック小説という枠を越えている」
と須賀さんはいうけれど。
たぶん仏教小説を読んでいたら、
こんな気持ちになるだろう、
という気持ちだった。
さういう本はあるのですか?


「女たちのシベリア抑留」
小柳ちひろ

BSのドキュメンタリーから書き下ろした本。
歴史を聞くこと、ほんとうのことを聞くことは、
相手を傷つけてしまいそうで、怖い。
そこまで相手に踏み込むことは。
信頼関係がなくてはいけないのだとおもう。
それに、生きてゆくのに忘れないといけないことと、
歴史に残さないといけないこととは、相容れない。
わたしにだって、語らなくてよい、
と思うことがあるだろう。
父方の祖父が東京大空襲のあとを旅して
みた光景を語ってくれたとき、
こころが剥き出しにされたみたいな、
魂の裸をみせられたような、
どきりとさせられるものがあった。
もう一方の祖父は、ほんもののシベリア帰りである。
けれど彼にも語れないことがあったんじゃないかしら。
語ったって、甘やかされた孫娘には理解されない、
と思うようなことは、通じないと思ったんじゃないかしら。わたしの聞く態度がいつだって悪かった。
いまは、もっとなんでも聞こうとできるようになったのに、踏み込むのが怖いような気がする。


「恋と伯爵と大正デモクラシー
有馬頼寧日記1919」
山本一生

井深八重がでてくると知って、
アマゾンで取り寄せた。
 八重さんは曾祖父の従姉妹にあたるひとで
ハンセン病患者の看護をしたことで知られている。
かのじょの親友が、有馬頼寧の愛人だった。
このふたりに繋がりがあったことは、
この本を読むまで知らなかった。
御殿場にいたるまでの八重さんのこと、
引用される日記でほのめかされる
彼女自身の恋について。
八重さんをそういうふうに、
まな板の上で解剖することは
彼女の意志に反するだろうと思う。
彼女が人生をもって残したメッセージは、
どこぞの伯爵と違って、
そんなものではないだろうから。

「‭数日の後、フェリクス総督はユダヤ人である
妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、
キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。
 しかし、パウロが正義や節制や
来るべき裁きについて話すと、
フェリクスは恐ろしくなり、
「今回はこれで帰ってよろしい。
また適当な機会に呼び出すことにする」と言った。」
使徒行伝24章

伯爵みたいなひとに思うのは、
上の聖書のシーンである。
以上。


 「母の母、その彼方に」
四方田犬彦

面白かったよなあ、と
おもって何年かぶりに借りてきた。
須賀敦子さんの実家とおなじ世界。
わたしは、どちらにも、
お、細雪、と思ってた。
四方田柳子さん、
ちょっと片山廣子さんを思い出すような
抑制のきいた知的な御婦人。
平塚らいてうや伊藤野枝みたいな過激派に
踊らされないひと、すき。


「枕草子」
角川文庫

あちゃあ、ダイジェストだったか、
と買ってから気づく。
源氏物語のほうは、小学生だったかしら、
中学生のときだったかしら、
真ん中くらいまで読んで、それで
挫折したので、いまさらねえ、
と思って、枕草子のほうを読むことにした。
奥の細道、更級日記に、枕草子、
ちょっとずつ、現代語訳でだけれど、
古典を読んでいくのはいいなあ。
じぶんの国のことばに、こんなすばらしい
文学の地層があるなんて、ほんとに
恵まれたことよねえ、と
フィリピン人の友だちと話してたとき思った。
 夏空に入道雲が湧いている日に、
奥の細道のはなしを母としながら、
ああ、こんなにうつくしいことばが
あるなんて、なんてしわせなんだろう、
と思った。日本人です。


「他者の靴を履く」
ブレイディみかこ

ヨーロッパコーリングリターンズからの二冊目。
こういうあたらしい言葉、
(ルッキズムだのジェンダーなんたらだの、
そしてブルシット・ジョブという
もう既に賞味期限の切れた言葉とか)
からは、そうっと身を遠ざけている方では
あるのだけれど。こういう言葉は、
長持ちするような気がしなくって。
でもときどき、彼女くらい地べたのひとの
ことばなら、読んで、すこし世界を
拡げるのも、悪くない、とおもう。
なんだか少しなにかが重なっているような、
藤本和子さんには、鷹揚な品のよさ、
みたいなのがあるけれど、
もっとあたらしい彼女は、
もっとパンクなかんじがする。
鷹揚さというのは、文章のかんじかな?
文章というのは、人柄なのかもしれない、
と最近おもう。怒りが消えたあとの
円熟みたいなものが、
文章にはうつくしい。

おもしろい、とおもったことば。
「フェミニズムとは、わたしがわたしであるために、男の承認なんていらない、と主張してきた思想」
by 上野千鶴子
わたしは、これを読みながら、
神にだけ承認されれば、というじぶんが達した
承認欲求についての考えを思っていた。
男とか、女とかを、越えた次元のはなしを。
わたしは、神の課した制約を、
へりくだって受け入れる。
それは、わたしが知っているからだ。
わたしのほんとうの部分、魂とか、霊とかの
永遠に繋がっている部分には、男女かかわりなく、
神との関係において、男女はまったく平等であるどころか、性別などなんの関わりもないことを。
わたしとフェミニズムに近いものがあるなら、 
その部分。精神が自立して、
みずからの頭で考えることのできる
女性になりたい、と思っている。
わたしは、自由で、精神の強い女性たちを
みて育ってきたので、それはべつに、
戦うまでのこともない、自然なことにかんじる。
(ほんとうに恵まれているのだ)
へりくだることが出来るのは、
真の強さである、とわたしは知っている。
だから、この地上で課された制約、役目は、
わたしの魂を縛ることはない。
わたしは、キリストの囚人だから。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?