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本の虫12カ月 5月


↓先月



じぶん用に、
一月のあいだに読んだ本を
記録する。
コメントは
とても私的。
めちゃくちゃ。



「夜と霧の隅で」
北杜夫

北杜夫は、楡家だとか、
母親についてや、マンボウ青春記や、
自伝的なものばかりしか読んだことが
なかったのだが、こういう彼をはじめて知る。
振れ幅がおかしいよ……先生……
精神病院で育ち、精神科医になり、
みずからも精神病患者であった彼にしか
書きえないような、名作。
(そんなひとっているか?)
これ書いたひと、松本の縄手通りで棺担いで、
なんまだあなんまいだあ、キョエーッとか
叫んでたのと同じひとか?
マンボウの狂気は、椎名誠の「哀愁の町」と
似ているなあ、いま思うと。
そういう系が好きなのだなあ、わたしも。


「死の貝 日本住吸血虫症との闘い」
小林照幸

おおおお、
これはすごいドキュメンタリーだった。
著者が長野県出身だと書いてあって、
あの「野麦峠」の著者を思い出す。
 信州のひとって、大量の資料と格闘し、
 歩きまわって情報を聞き出す系の本に、
才能があるきがする。まじめで、理屈っぽくて、
向いているんだと思う。
(誉めことばです、悪しからず)

わたしの母の実家が甲府盆地なのである。
けれど地方病を知ったのはWikipediaであって、
口伝ではなかった。親戚には
果樹農家も多いのに。
たしかに水路はコンクリートになっている。
甲府盆地の歴史って、
水との闘いなのだなあ。
地方の歴史に潜んでいる
こういったファクターを掬っていくことで、
その土地を織り成すものが分かるきがする。
でも、だれもこんなはなししてくれなかったなあ。
覚えてなかったのかなあ、
話したくなかったのかなあ。
かなり風化しているとおもう、
地方病の歴史は。


「物語 イタリアの歴史」
藤沢道郎

これこそ、物語○○の歴史だ!
中公新書のこのシリーズは、
フィリピン、ナイジェリアに続いて三冊目だが
これこそ物語であった。
ストーリーに身を浸しながら、
歴史の流れを辿れる、
こういう本を求めていたのよ。
もちろん、こんなクオリティの本を、
すべての依頼者に求める訳にもいくまい。
これはほとんど小説であり、作品だ。
新書の域を越えている。
(とはいえまだ三冊目なので、このシリーズで
良いのがあれば教えてください)

いや、もしかしたらイタリアだからなのかも。
歴史の厚さが違うのかも。
これを読みながら、ペストや宗教改革や
三十年戦争やウェストファリア条約やら、
世界史への理解を、あたらしい視野から
補強していた。 
歴史って足から見ると、
分かるようなこともあるのね

須賀敦子、ナタリア・ギンズブルグと
イタリアが続いていた。
歴史ってこういうふうに楽しむものだとおもう。
いろいろな糸を辿っていくと、
おおきなタペストリーがぼんやりと見えてくる。

そういえば、こないだMETの
ライブビューイングの、ナブッコを見に行ったよ。
母を拝み倒して、子どもを預かってもらって。
ばぁ、ぺんしぇーろで泣いた。
オペラを見に行くのが夢だったので、
映画館でも叶えられてよかった。


「ルネサンスを書く イギリスの女たち」
青山誠子

シェイクスピアに妹がいたら……
という想像をウルフがしていた、
そのシェイクスピアの妹たち、
女性に声が与えられていなかった時代に、
書くことを選んだ女たちについての研究。
よく読むひとたち(オースティン、ブロンテ姉妹)
の前に存在したひとたち。
なかなか面白かった。


「平安ガールフレンズ」
酒井順子

酒井順子の軽いノリで、
いま話題の平安版「書く女たち」を
さらっと習う。
清少納言、紫式部、藤原道綱母、
菅原孝標女、和泉式部。
後半の三人が楽しかった。
赤染衛門はないのねえ。
もう何年も、百人一首を覚えようとしている。
まだ半分くらいしか覚えられていない。
恋の歌辺りが区別が付かなくて……
女流歌人たちの辺りを覚えるのに
役に立つかも。


「おだまり、ローズ」
ロジーナ・ハリソン

八年ぶりくらいに再読。
これを読みながら、「日の名残り」を思う。
「日の名残り」を読みながら、
この本を思っていたように。

疲れていたのか、お屋敷や英国貴族が出てくるような本を読みたくなった。けれどわたしは不器用なので、なにを読めばいいのかわからない。宝石だとかドレスだとかがわんさか出てきて、カントリー・ハウスが出てくるような、現実離れした本を。
それでいて、サスペンスでもホラーでもない本…
ラノベだのは読まないので、図書館の棚をたがめすがめつしながら、この本を思い出した。
これ、さいしょ読んだときは爆笑したよねえ。

わたしはなぜか頭が疲れていると、Wikipediaでヴィクトリア女王の子孫たちを検索する癖がある(なぜこんなことを書いているのだろう)。前に読んでから、いままでのあいだに、そのせいでより王族貴族に詳しくなっていた。ほほう、ああ、このひとね、という楽しみかたをする。


「トリエステの坂道」
須賀敦子

とても好き。
エッセイ選集で既読のものもあったけれど、
知っているひとたちを読むような気持ちになる。
貧しさと豊かさの二重性、と解説が言う。
その貧しさの部分が綴られている。
じわじわと彼女自身をも蝕んでいた、
という言葉にすこしびっくりした。
彼女はオヴザーバーとして、
いろんな世界にそっといる。
それでもときどき彼女自身の感情が
見え隠れして、そこが好きだった。

いろんな世界に住むことは、
本を読むことににている。
この本を通して、須賀さんを覗き見て、
須賀さんはナタリアギンズブルグを覗き見ていて
という何重もの構造。
でもみんな、たくさんの本を心に秘めている、
すこしシャイな、わたしの思っていることを
言葉にしたって分かってもらえるかしら、
とちょっと戸惑っている少女なのに。
剥き出しになった本を読んでいるから
お互いそれを分かっているのに、
だからこそあまり踏み込まない。


「吾妻鏡 現代語訳 8」

「もういっそね、図書館に行くたびに、吾妻鏡を一冊ずつ借りてきて、わたし、吾妻鏡をぜんぶ読んだひとになってみようと思うの!」
「はあ……がんばって (引き気味)」
という夫との会話の手前、
頑張っています、吾妻鏡制覇。
7から始めて、いま8。
目的の源実朝が死んでしまい、ここから1に戻るべきか? それとも宮将軍時代を突き進むか?

将軍家(実朝)が海辺の月を見るため
三浦へ渡られた、という記述。
政治的に無力化されて、
宋に渡ろうとした船も浜辺で朽ちている。
そんなころの彼の行動。
うつくしいような、
哀しいような、
退廃的なかんじのする記述。

わたしが(不本意にせよ)朝敵の子孫だからかいや、現代人だからか、べつにこちらに軍勢を向けようとしてきた後鳥羽上皇を返り討ちにすることに、まったく抵抗感はない。鎌倉武士なんだもの。それに反乱の芽は摘んで、島流しにするなんて生ぬいくらいで、正当な政治的処置だとおもうのだけど、太宰治のを読んで、ひたすらに承久の乱を恐れているのに、ほほう、となった。あれは戦中に書いている、という時代背景のせいでしょうね。天皇陛下に畏れ多かったのよね。吾妻鏡の筆者も、畏れ多いと鎌倉幕府万歳のあいだを揺れているかんじが面白い。


「ワイルドスワン」

ユン・チアン

小学生のときに出会って、繰り返し繰り返し
読み返していた本だった。
 わたしの近代中国は、「大地」とこれである。
革命に人生を捧げる父親が、
妻や家族を傷つける姿がこころに残った。
真木さんの中にそうなりかねない部分が
あったから……
それはバランスが取れてはいない、
と思う。そしてブルジョアのお嬢さんは、
革命家の農婦とは違う。
ひとはそれぞれ違うのだから、
誰もを画一的に型に嵌めようとする力には、
とても違和感がある。
それは聖霊にみちびかれていない、
なにか違うものだ、なんて言って、
こんな場所で亡くなった真木さんを
批判したりしてごめんなさい。
ゆるしてね。


「謎解き 風と共に去りぬ」
鴻巣友季子

まただよ。今度は新潮の新訳を出したひとの
「読み」本だ。やめておくれ、
岩波の新訳を去年の誕生日、お義母さんに
買ってもらったところだというのに、
新潮版も読みたくなってしまうじゃないか。

文体への読み、面白かった。
風と共に去りぬの読み、に惹かれるのは、
わたしがどうしようもなくこの本が好きで、
なんどもなんども読み返し、 
嫌うこともできないくらい、細部に渡り
記憶しているからだ。だから大衆小説だ、
といわれれば、みずからを否定されたような、
「アハ、そうですよね、へへ」という気分になり、再評価されれば、「やっぱり? 
そうよね、あの複雑さには、なにか
読み解ききれないものが潜んでいたわよね」
と嬉しくなる。

アラバマに行くのは、いつも
アトランタ空港からだった。 
アトランタからアラバマの片田舎への
高速道路の標識には、アトランタ攻防戦の
地名が散らばっている。
新潮の大久保訳の、もう茶色くなった
文庫本のページに、その名前を
辿るのが好きだった。
アラバマはあまりに遠くて、
わたしはこの本以外に、
あの世界を共有する本をしらなかった。


「日吉台地下壕 大学と戦争」

日吉って、たしかに掘りやすそうだものねえ。
なんだか聞いたことはあったけど、
そこまで興味を持たなかった歴史。
身近な横須賀とかも、ぼこぼこだものね。
そういえば、川崎の空襲について、
ふらりと訪れた平和館でみたっけ。
日吉も空襲されていたのね。
そこまで古い家はないなあ、と思ってはいた。

「明日は自由主義者がひとり、
この世から去っていきます」
という遺書を遺して特攻に散った上原良司。
安曇野のひとで、松本中学卒、慶應義塾。
松本平らしいひとだ、とおもう。
自由民権運動の盛んだった、あの地らしい。
そこに臼井吉見の安曇野で読んだ
ひとたちの面影をみる。


「ヴェイユの言葉」
シモーヌ・ヴェイユ

nrちゃんの誕生日プレゼントを選ぼうと
蔦屋を散策していたらだね、
まちがえて文芸コーナーに足を
踏み入れてしまったのだよ。
そしたらこの本を見つけちゃって、
わたしはnrちゃんの誕生日祝いに、
じぶんにヴェイユを買うことに決めて、
そのことを彼女に報告したのだよ。
そしてらnrちゃんは、ほんとにやさしいね、
「すてきな誕生日プレゼントをありがとう」
と言ってくれたよ。
たいせつなひとを思いながら、
良い本を読むことができるなんて、
わたしはしあわせだなあ、とおもいつつ。

おなじことを見ている、と思う部分。
それは理解ができない、又は、
それは行き過ぎだ、聖書を通りすぎている、
と思う部分もある。
 「神を待ち望みながら」は神父のコメントと
ともに読まされていたのだった。
けれどわたしは、彼女が洗礼を受けようと
しなかったのが、読み進めながら
とても理解できるようなきがしていた。
カトリックという、組織の一部になるための
洗礼を、拒んだこと。
そして拒むことによって、
みずからを完全にキリストとひとつにできない
 気持ちになったこと、(カトリックという
文化のなかでは仕方あるまい)
ああ、あなたがもっと透き通った、
まっすぐな福音を聞けていたらよかったのにねえ!
あなたはみずからの力で、
真理に、それも苦しみの道をとおる、
ひとびとが忌み嫌う十字架の道に、
辿りついていたのにねえ!
あちらで会うことがあったら、
そっとその手を握りしめたい、
彼女はキリストを、カトリックでも、
プロテスタントでも、宗教でもない、
キリストというひとを、
掴んでいたとおもうから。

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