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水晶の夜 (短編)

 


*この小説は作り話であって、実際の団体や人物とはなんら関わりはありません*


 
 
 《the night of broken glass》

 
 あの夜に漂っていたのはなあに。なにかがはじける前の、ガラスみたいな緊張感。遠くにいても感じていた。なにかが起こるに違いない、って。

 淡い闇が街を覆いはじめた。ひとだかりのする方角から、夏祭りのうたが聴こえてくる。ぼんぼん、ぼんぼんぼん、と陽気な歌が流れてきて、あふれんばかりの群衆が、踊っているひとびとを眺めていた。

 突然、何かが砕け散った。八枝は城下町の外にある古い屋敷で、夫の帰りを待っていた。何てこともないのに、手を滑らせて、ボヘミアガラスのカップがひとつ割れてしまった。

 あーあ、と思ったけれど、あまり好きでもない器だった。会ったこともない姑の、バブルの頃の高そうな食器。すこし固まってから、破片をひとつひとつ拾い集めていたら、いつのまにか指が血だらけになっていた。

 それにしても、真木はいつ帰ってくるのかしら。夕食の時間はとっくに過ぎている。まさかお祭りを観に行っているはずもないでしょうに。今朝の地方紙に出ていた。今夜だれかがなにか物騒なことをすると、ネットに書き込んだんだって。

 ラップに包まれたひとり分の食事を後ろ目に、読みかけの本を開いた。ダロウェイ夫人が花を買いに行く、戦争から帰ってきたセプティマス、飛行機が空に舞い上がり、イー アム ファー アム ソーと気のふれた女がふしぎな歌をうたう、そしてクラリッサのひらく華やかなパーティー......

 「八枝ちゃん」

 はっと本から顔を上げると、近所の家作に住む牧師のパウロが立っていた。赤に近いようなブロンドの、大柄なひと。いつもはやさしげな笑みの浮かぶ、髭の生えた顔には表情が無かった。パウロは無言で、付いてくるように、と八枝に指図した。

 なにを言われているのか、あまりよくわからなかった。牧師先生の赤い車に乗せられて、混雑する街を迂回しながら、川沿いの病院へ向かった。街の空気が張り詰めているのが、閉じたガラス越しに伝わってきた。

 拾い忘れちゃったのかしら、と八枝は錯覚した。お義母さんのボヘミアガラスを。アスファルトの道路に、砕けたガラスが散らばっているみたい。この夏の夜、ちいさなうつくしい城下町に、提灯の光がゆれている。その灯りは親しげなようでいて、なぜかうすら寒かった。

 「覚悟した方がいいかもしれない」

 病院の玄関で、牧師先生がそう囁いた。覚悟ってなんですか? わたしは何に会いに連れてこられたんです? そう思ったけれど、口のなかが乾いて言葉にならなかった。

 いつのまにか待合室のベンチに座っていた。ふわふわと宙に浮いていた八枝は、難しい話はすべてパウロに任せた。ご家族ですか、と病院のひとは、どう見ても白人の彼を訝しげに見ていたけれど、パウロは自信たっぷりに、家族ですと答えていた。神さまの家族だから、と小声で呟いていたけれど、実際パウロは義兄も同然のひとだった。

 落ちついて聞けるかい、と戻ってきたパウロは、八枝の隣に腰をかけて、淡々と濾すようにして、英語で事件を語った。

  お祭りのさなか、人混みの通りに、ナイフを持った男が現れた。まだはっきりはしていないけれど、「ぼんぼんでたくさん殺します」という殺害予告を出した男かもしれない。男はナイフを逆手に握って、群衆に襲いかかろうとした。

 その場になぜか、真木が居合わせた。襲いかかってくるその男の正面に、しずかに立ちはだかり、真木はみずからの腹部にその刃を受けた。そして全身の重みをかけ、引き摺り下ろすように、男もろとも地面に倒れた。警察はすぐに来た。逮捕されたとき、その男は命を投げ出した、たったひとりの男の血にまみれて、真っ赤になっていたー。

 そう聞き終えて、あのひとらしいわね、と呟いた八枝は、けれどそれが何を意味するのか、重さを一切感じられなかった。それが街に渦巻いていた混乱の理由だったらしい。だけれど心を打つものがなにもなかった。厚い皮に包まれているかのように、八枝の心は無感動なままだった。

 どうぞ、と言われてふたりは病室に通された。ナースセンターの真横の、ガラス張りの白い部屋に。不安は感じなかった。まず目に入ったのは、きれいに布団の上に揃えられた、痩せて骨ばった手。顔は青白く、目はやすらかに閉じられている。

 「まるで生きてるみたいじゃない?」

 と呟くと、後ろで医師が、まだ生きてらっしゃいますよ、と慌てて言った。なにか安らかなものが、横たわっている夫の傍から、八枝の方へとやってきた。白い大きな、目に見えぬ手が。きっとこの部屋には、天使たちが詰まっているに違いない。耳を澄ませば、天使たちの羽根が擦れあう音が聞こえてきそうだった。

 


 「キリストと恋に落ちたら」というテーマのシリーズ


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