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オートメーションの上でダンスを

人々の努力はできるだけ報われて欲しいと思う一方、報われるかどうかはその時々の社会制度、市場動向、立ち位置、コミュニティの価値観等に依存せざるを得ない。残念ながら全く的外れの努力、というものもあって、2つのバケツの間で水を移し替える作業をいくら繰り返してもそれに報いよとはならない。 究極的には、努力が報われるためには「努力そのものが報いであるような種類の努力をする」しかない。つまり自己充足的であれ、ということである。しかしその場合、果たして社会は成り立つのか。外部から報われる

    • 学問・教育、行政官僚機構、政治、公共性

      例の文科省課長の発言、上から目線とかそういう話は一旦置いておいて、ここでは行政官僚の行動性向に注目したい。 1.価値や感情からのデタッチメント 2.形式や手続きへの固執 3.俯瞰への欲望 3は1ゆえに優先順位や実現への意志を欠く単なる羅列となり、いわゆる「ポンチ絵」に結実する。2は1を支える防壁となる。 シェアしたXは上記性向の典型的な表現型。さて、何故行政官僚はこのような行動性向を持つのか。官僚組織がそのようなパーソナリティを引き寄せるのか、採用人事の問題か、それとも省

      • TwitterのコミュニティノートをBing AIに自動生成させてみた

        広義のコミュニティノート的な検証機能自体はあって然るべきだが、現状、コミュニティノートのフォーマット自体がそれを信じることをアフォードしている点は興味深い。 コミュニティノートのコミュニティノートがあればよいのかもしれないが、さて・・・。 例えば、このtweet。 これに否定的なコミュニティノート(っぽい文章)をbing AIに生成させてみると次のようになる。 何やらもっともらしい検証コメントが生成された。 検証は重要だが、一見検証っぽいものは簡単に生成できる。従って

        • 『かつてそのゲームの世界に住んでいたという記憶はどこから来るのか』(郡司ペギオ幸夫)第1章について

          郡司さんの意図するところを説明するとするとどうなるかというと、これは正直、わかりやすくパラフレーズするのが非常に難しい。なぜなら、カニッツァ図形の認識メカニズムの説明に通常は図地反転は使われず(不必要であるばかりかむしろミスリーディングなので)、郡司さんの意図はそもそもそこにはないと推測されるからである。郡司さんはカニッツァ図形を説明しようとしているのではなく、それを導入として順次天然知能概念についての議論を深めようとしているのである。 その観点から図1-1を捉えるならば、図

        オートメーションの上でダンスを

        • 学問・教育、行政官僚機構、政治、公共性

        • TwitterのコミュニティノートをBing AIに自動生成させてみた

        • 『かつてそのゲームの世界に住んでいたという記憶はどこから来るのか』(郡司ペギオ幸夫)第1章について

          社会における価値と労働 ー労働時間と生産性の観点からー

          社会における、我々が生活を維持していくために不可欠な、あるいはそうでなくとも人生を豊かにする「価値」と、それを生み出す「労働」との基本的な関係を、自分の頭の整理のために図式化してみた(あくまで大雑把に全体像を把握するためのもので、個別には考慮しきれていないところが多々残っている)。 ちなみにこの図で言う「生産性」とはもちろんいわゆる労働強化のことではなく、むしろ成熟した近代産業社会においては企業のビジネスモデルやワークフローのイノベーションや改革、政府の金融・財政・産業政策

          社会における価値と労働 ー労働時間と生産性の観点からー

          生成系AIについての現時点での雑感

          (主としてChatGPT3.5を使用。何度かBingAIを使用。) ユーザーと生成系AIとのインタラクションの基本は、「(a)ユーザーが指示してAIにアウトプットさせる」というもの。このバリエーションとして「(b)ユーザーが指示してAIに「ユーザーへの指示を」アウトプットさせる」「(c)ユーザーが指示してAIに「AIへのアウトプットに対する反応を」アウトプットさせる」というものがある。これらの組み合わせによって、ユーザーが新たな知識を得たり、AIの支援によってユーザーが経験

          生成系AIについての現時点での雑感

          社会における切実な問題解決の全体像を考えるために ~『お金のむこうに人がいる』(田内学著)をもとに~

          自分自身の、自力では解決できない問題を解決するには、それを解決してくれる誰か別の人間が存在しなければならない。自力を鍛えればよいではないか、と言うかもしれないが、自力では鍛えられない自力、という問題を解決するにはやはり、それを解決してくれる誰か別の人間が存在しなければならない。 この社会に生きる全ての人間にとって、自力では解決できない自分自身の、(とりわけ放置し得ない)問題を解決してくれる他者が存在する社会が、自分が生きていく、あるいは善く生きていくための必須条件だとすると

          社会における切実な問題解決の全体像を考えるために ~『お金のむこうに人がいる』(田内学著)をもとに~

          我々は、誰もがストレス回避のみを行動原理として虫のように生きる未来、を目指している

          何が正しいか、何が妥当かについて、司法に委ねるか科学実験を行うかして決着をつける以外にコミュニケーションの方法が存在しない、ということになるとなかなかこの社会は困難である。 あとは民主選挙による代議制。それと金銭的、非金銭的取引。さらには倫理規範。ただし倫理規範はそれ以外と比較すると相対的に普遍性(を形成する予期)が足りない。ゆえに法制化して司法に委ねることへの誘因が絶えず働いている。 まとめると「法化」「科学化」「民主的代議化」「市場化」「規範化」。これらは端的には「良

          我々は、誰もがストレス回避のみを行動原理として虫のように生きる未来、を目指している

          『ドント・ルック・アップ』評

          【ネタバレ注意】 『ドント・ルック・アップ』は「科学者」と「政治家・メディア関係者・テック企業経営者」との対比を軸に展開されるが、「事実に基づいた議論を理性的に行う」はずの科学者が、どうしても自分の主張が受け入れられないときに誰よりも「感情的」になるのが印象的である。果ては「メディアトレーニングが足りない」と言われ、異常者扱いされて「オフ」にされてしまう。 (ちなみにメディア・トレーニングというのは私はこれまで「メディアにいいように使われないように、逆にメディアを使いこな

          『ドント・ルック・アップ』評

          他者の成功と準拠集団

          (2017年10月6日) 日本人がノーベル賞を受賞しようが金メダルを取ろうが、日本企業がその業界でシェア世界一になろうが、日本の特定の技術が世界最高になろうが、戦後の復興期や高度成長期のようにそれが「その他大勢の日本人」の幸福度向上に結びつく(=社会が発展して間接的に恩恵を被る、あるいは国民全体の豊かさの指標となる)という連関はとうに失われていて、実際には「成功するものは成功するがそうでないものは置いていかれる」状況が益々鮮明になっているだけである。 同じように、日本の大

          他者の成功と準拠集団

          分かりやすく説明すること

          「分かりやすく説明すること」の意義は誤解されていて、殆どの場合「(1)相手に情報が適切に伝わり、理解されることによってそれに基づいて判断や行動を行ってもらうこと」「(2)相手の満足度を向上させること」にフォーカスされているが、実は「(3)相手から適切な批判を受けられるような形式の情報を提供すること」が極めて重要である。 しかし(3)はプレゼン本やトレーニングなどではほとんど全く言及されていない。 そのため、(1)(2)のみ(とりわけ(2))を目的とするプレゼンテーションが

          分かりやすく説明すること

          3周遅れの「教育の質保証」

          昨今各大学とも血道を上げている(上げさせられている)「教育の質保証」と、これから脱工業化社会が必要とする独自性と創造性、自律性を持った人材育成理念との整合性がどうも理解できない。前者はむしろ、かつての工業化社会型の品質保証大量生産モデルではないのか。 というよりむしろ、かつての学校教育は「品質保証」を義務付けられた工業社会型の大量生産モデル「でさえなかった」のであり、言うなれば「態度保証」とでも言うべきものだったのだと思う。 要するに「命令を素直に聞いてひたすら努力する」

          3周遅れの「教育の質保証」

          プロジェクトの創造性の条件と、クライアントを「選ぶ」ということ

          プロジェクトに関与する主たるプレイヤーとして、ディレクター、クリエイター、プロデューサー、クライアント、ステークホルダーが挙げられる。 プロジェクトの規模、予算、対象範囲、リソース等が大きくなればなるほど、より多くの、そして多様なステークホルダーがそこに関与することになる。つまり、クライアントのみならずこれらのステークホルダーの意向を無視してはプロジェクトを遂行できなくなる。 クライアントやステークホルダーはプロジェクトの創造性の価値や実現プロセスを必ずしも理解しない(だ

          プロジェクトの創造性の条件と、クライアントを「選ぶ」ということ

          事前の判断が適切であったかを検証するということ

          事前の判断が適切であったかを検証する際、一般に最も重視されるのは「その判断の結果実際に何が起こったか」ということだが、これは適切か。結果は知りようがないから「事前」なのであって、結果だけに基づいて遡って事前の判断を断罪、評価するのは後知恵に過ぎない。 本来は結果が未定の段階でなお利用し得た情報を見落としていた、適切に評価できていなかった、といったあくまで「事前の瑕疵」を、結果情報を手がかりに新たに発見し得たときのみ、事前の判断の適否を問い直すことができるのではないか。そうで

          事前の判断が適切であったかを検証するということ

          実際に50であるものが50であると言われることの困難さについて

          実際には50であるものを「50も100も同じだから100」という人間がいる一方で、「100は事実に反する」と言いながらその勢いで0に持っていこうとする人間がいて、100か0の間で振動していて一向に50にならない、みたいな状況なんだと思う。 50であることを認識していても「その勢いで0に持っていこうとする人間」の魂胆を食い止めようとすると結果として「100は事実に反する」という指摘もろともはねつけることになり、事実を認めない人間認定されて「0に持っていこうとする人間」を勢いづ

          実際に50であるものが50であると言われることの困難さについて

          どんな理由があろうがルールを守れ、クレームをするな

          近年「どんな理由があろうがルールを守れ、クレームをするな」という規範が無限定に拡大して民主主義を毀損しているように思われるが、これは人びとが「他人がルールを守らない」「他人からクレームを受ける」ことによって大きなストレスを受けるような環境に晒されていることの反映なのかもしれない。 サービス業、とりわけ直接接客する職種は典型だろう。コンビニや居酒屋でのバイトを経験する人は多いが、仕事の中で日々そういう思いをしているのではないか。すると、とにかくルールを守ってくれ、クレーマーは

          どんな理由があろうがルールを守れ、クレームをするな