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他者の成功と準拠集団

(2017年10月6日)

日本人がノーベル賞を受賞しようが金メダルを取ろうが、日本企業がその業界でシェア世界一になろうが、日本の特定の技術が世界最高になろうが、戦後の復興期や高度成長期のようにそれが「その他大勢の日本人」の幸福度向上に結びつく(=社会が発展して間接的に恩恵を被る、あるいは国民全体の豊かさの指標となる)という連関はとうに失われていて、実際には「成功するものは成功するがそうでないものは置いていかれる」状況が益々鮮明になっているだけである。

同じように、日本の大学が世界ランキングで高い順位を得たとしても、そこで学んだり研究したりした者が高い公共的意識を持っていないのであれば成果はプライベートなものとして囲い込まれるだけであり、実際、実態はますますそのような色彩を強めている。

本来ならばこのような連関の消失によって、「その他大勢の日本人」にとっての「連関への期待値」も激減するはずなのだが、未だに「連関が高いことになっているかのごとき振る舞い」が社会の少なからぬ部分、特にメディアや政策立案の領域を覆っているのは不思議なことである。

当然「いや、日本人がノーベル賞を受賞したり金メダルを取ったり、日本企業がその業界でシェア世界一になったり、日本の特定の技術が世界最高になったり、日本の大学が世界ランキングで高い順位を得たりすると日本人が元気になるじゃないか、勇気づけられるじゃないか」という反論があるだろう。

その通り。しかしその神通力は年々縮小してきている。なぜか。キーワードは「選択と集中」である。

何も考えずにリソースが大雑把にばらまかれていた時代、準拠集団の中で誰かが成功すると、自分も成功できるのではないか、との期待を持つことができた。その成功者と自分では、条件はさして変わらないからだ。

しかし「選択と集中」の時代においてはそうはいかない。成功者は第三者から見れば、選択され、リソースを集中投下されたから成功したのだ、と因果帰属される。また、リソースを提供した側も、自らの判断が正しかったのだとの確信を強め、その後は更にその選択肢にリソースを集中させるようになる。

その結果、「その他大勢」の人々が準拠集団における他者の成功を根拠に自らに希望を持つことは以前よりずっと難しくなってきている。

準拠集団の構成メンバーの同質性、相関がある程度保たれている(少なくともそのように予期されている)条件では、準拠集団内の他のメンバーの成功や評価は、一定程度、自分自身の過去の肯定をも意味し、かつ、自分自身の未来の成功、評価の推定材料にもなりえる。選択と集中はそういった同質性や相関を断ち切るがゆえに、「準拠集団内の他者の成功=自らの過去の肯定、未来の成功・評価」という図式を破壊していくのである。

もちろんそのことが悪いと言っているのではない。選択と集中は、現代社会に置ける限られた資源を特定の対象に必要十分な量投下することを可能にする。また、資源配分に関する意思決定の妥当性をより適切に検証することを可能にする。つまり総じて、<構成メンバーに対する>マネジメントの合理性を高めるのであり、一般的には推奨されるべきことである。

しかしそのことの代償として、先に述べたように、準拠集団の構成メンバー間における肯定・成功・評価の相互連関を破壊してしまうということは念頭においておかなければならない。

それが一体準拠集団のいかなる機能を失わせることになるのか、それがどの程度vitalなのか、その程度に依ってはどのような補完的措置が必要となるのかということに対して自覚的でないと、たとえ「<構成メンバーに対する>マネジメントの合理性」を手に入れたとしても、<準拠集団に対する>マネジメントの観点から、非常に危ういのではないか(ここに、左翼と保守主義の一致点を見出すことができるであろう)。

もちろん、端的に「頑張って成果を出した人間が評価される」社会システムはフェアである。それは多くの人々に支持されるであろう。しかしそれは社会システムのフェアネスに対する支持であって、準拠集団に対する支持ではない。実のところ、論理階層が異なる心的態度である。

更に言えば、頑張れば必ず成果に結びつくのか、なぜ「頑張れた」のか、「頑張った」とはどういうことなのか、「頑張った」り「成果を出した」りすることは果たして構成メンバー個人に帰属することがらなのか、と突き詰めていくと、先に述べたフェアネスもまた、決して自明のものではないことに気づくであろう。

個人にとって、準拠集団の他の構成メンバーの成功とは何なのか、という問題は極めて現代的であり、その自明性は急速に崩れてきていると言えよう。

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