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『ドント・ルック・アップ』評

【ネタバレ注意】

『ドント・ルック・アップ』は「科学者」と「政治家・メディア関係者・テック企業経営者」との対比を軸に展開されるが、「事実に基づいた議論を理性的に行う」はずの科学者が、どうしても自分の主張が受け入れられないときに誰よりも「感情的」になるのが印象的である。果ては「メディアトレーニングが足りない」と言われ、異常者扱いされて「オフ」にされてしまう。

(ちなみにメディア・トレーニングというのは私はこれまで「メディアにいいように使われないように、逆にメディアを使いこなすための「武装」という意味で捉えてきたが、この作品では「メディアに恭順するための「調教」と位置づけられているところが興味深い。)

それに対して政治家・メディア関係者・テック企業経営者は「事実に基づいた議論を理性的に行わない」というよりはどちらかというと「安心と快楽を最優先する」と描写したほうが良い構えである。万事「フィールグッドソサエティ」の実現と維持のために行動する。ある意味ではむしろ「冷静」ですらある。

はたから見れば後者のほうが狂っているのだが、まるで前者のほうが狂っているかのように扱われてしまう。

ITコンサルタントのG・M・ワインバーグが、以下のように書いている。

私がこの業界にとどまるためには、選択の余地は次の二つしかないように思われた。
一、合理的でありつづけ、発狂する。
二、非合理的になって、気違いと呼ばれる。
長年にわたって私は、このみじめな両極の間を行きつ戻りつしていた。だがついに私は、第三の道があることに思い当たった。それは、
三、非合理性に対して合理的になること
だった。

『コンサルタントの秘密』(G・M・ワインバーグ)

科学者であるミンディとケイトは1の道をたどり、政治家、メディア関係者、IT起業家は2の道をたどっているように思えた。これは視聴者に、3の道はありうるか、と問う作品だと受け止めた。

テック企業BASH経営者のピーターはアメリカのイケイケのベンチャー経営者というイメージからは遠く、滑舌も悪く言葉が弱々しくて聞き取りにくいのだが、「没人格的な巨大システム」を象徴しているかのような気味悪さがある。

ピーターは結局彗星を爆破して鉱物資源を獲得するという方向を目指すが、ここはむしろ「彗星に対する不安を煽り、それを購買動機にしてBASHの不安解消サービスの販売促進をするようなシナリオでも面白かったと思う。

彼らは最終的には別の惑星に降り立つがそこで異形の生物に捕食されてしまう。印象的なのは、彼らが全裸だというところである。テックの衣を脱ぎ去れば醜悪で無力な個体がむき出しになることさえ忘れてしまった人々の末路。それに対してミンディとケイトは「信頼できる仲間」と心を通わせながら最後の瞬間を迎える。

ピーターらを愚か、あるいはハリウッド的過剰キャラクター設定の産物と断じるのは簡単だが、むしろ彼らのほうが人間の知性を過信した存在であり、ミンディとケイトは科学者でありながら逆説的に(ホフスタッターの原義の意味での、良い意味での)反知性主義を象徴しているように見えた。

つまりこの作品は、陰謀論&トランプ対科学&理性ではなく(そう見せかけてはいるが)、むしろ人間の知性(=賢しらな浅知恵)への過信対保守主義と捉えたほうが実りがあるのではないかと考える。

ちなみに個人的には、ミンディがBASHの科学者の研究成果に対して「査読は通ったのか?!」と連呼するところが日本の作品では見られにくい科学者コミュニティの常識を表していて興味深かった。また、彗星がいよいよ肉眼で見えるようになった時にみんなで空を見上げる「共同性」は心にしみるものがあった。

この映画にもし「主人公」が存在するとしたら、それはもしかしてミンディではなく、この彗星(あるいは宇宙の法則そのもの)なのかもしれない。何十億年か前に太陽系に生まれた彗星が宇宙の法則に従って空間を移動し、時を経てたまたま地球の軌道と交差して衝突しようとしている。地球上に棲息するヒトという生物種がそれを巡って右往左往し、彗星はヒトによって爆破されかかる(=危機!)が、最終的には宇宙の法則通り地球に衝突する(=ハッピーエンド!)、という話なのかなと。

そのような視点で記憶をたどると、たしかにドローンが彗星に群がって爆破しようとしたとき、「痛そうだな」「かわいそうだな」と、自分が彗星側の立場に立ってしまっていたことを思い出す。



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