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学問・教育、行政官僚機構、政治、公共性

例の文科省課長の発言、上から目線とかそういう話は一旦置いておいて、ここでは行政官僚の行動性向に注目したい。

1.価値や感情からのデタッチメント
2.形式や手続きへの固執
3.俯瞰への欲望

3は1ゆえに優先順位や実現への意志を欠く単なる羅列となり、いわゆる「ポンチ絵」に結実する。2は1を支える防壁となる。
シェアしたXは上記性向の典型的な表現型。さて、何故行政官僚はこのような行動性向を持つのか。官僚組織がそのようなパーソナリティを引き寄せるのか、採用人事の問題か、それとも省内でのインセンティブ構造がそのような適応を迫るのか。
いずれにしても彼ら彼女らの脳内ではこのような行動性向を強化する報酬回路が駆動していると考えられる。あくまで現状の統治機構を前提とするならば、前述の行動性向を単に批判するのではなく、このような報酬回路にいかにアクセスすれば望ましいアウトプットを得られるかを計算しなければならない。
こういった捉え方は行政官僚に対して礼を失するかというとそうではない。実際投稿者本人も「欲しいのはそういった議論ではなくこういった議論である」と、「適切なアクセス形式」を求めている。自らはすでに瑕疵のない状態で準備ができているのであり、適切なアウトプットが得られるかどうかはインプット次第、ということなのである。
さらに言えば、1は批判すべき対象というよりは行政官僚の必須条件ですらある。複雑な近代社会においては特定のものごとに関する価値や感情は極めて多様であり、それらに個別にコミットしていては行政組織としての機能を果たすことができないからである。社会の構成員が合意可能なものごとの最大公約数に焦点を当てれば当てるほど、マックス・ヴェーバーの鉄の檻が出現することは避けられない。
ゆえに近代社会に生きる我々市民は、かくなる行政官僚組織を前提とした上で、いかに価値や感情を貫徹しうるかに挑戦し続けなければならない。

いずれにしても私を含めて例の人に釣られすぎで、便乗して自説を開陳するのは良いが、あの人を論破したり非難したりしても状況は一ミリも変わらない。むしろ典型的な行動性向を展示してくれていると捉えて、どのボタンを押せばどのアウトプットが出てくるのかという作戦を立てるための教材にしたほうがよい。
そういう意味ではXは極めて公共的で学習効果の高い博物館であると言える。ぜひ健全な形で維持したい。

ここで事態を俯瞰するならば、大学や博物館というのはそれ自体は公共財あなのであり、本来社会がそれをどの程度のコストを掛けて維持するかについて決めるべき問題である。そこで働いている人間は単にその公共財を直接的に支える役割を担っているだけで、公共財そのものではない。
しかし昨今の議論は、公共財とそれに関わる労働者が同一視されていて、労働者のパーソナリティに対する好悪がそのまま公共財の維持についての賛否に反映されているように思われる。

そういう意味ではこれらの公共財の担い手、大学の教職員や博物館の職員自身もまた、自分たちの仕事が公共的であるためにはどのようにあるべきか、という意識をあまり持っていないようにも思う。
自分たちが自分たちの仕事をすればそれは定義上すでに公共的なものなのであり、自明のことである、という意識で仕事をしているのではないだろうか。そういうところが、彼ら彼女らが単に私的関心に基づいた要求をしているように一部の人々から見えてしまい、今ひとつ強い支持を得られない原因の一つなのかもしれない。
これは単にアウトリーチをすれば良いとか、学生や来館者の満足度を高めれば良いといったものではない。自分たちの仕事を根本から、公共への奉仕、を最上位目的として組み替えるということである。そう言うとすぐさま、何かの外的目的のために行う研究だけになってはいけない、という反論が生じる。
この反論に応答するにはまず、義務や制約、目的合理性から開放されることと創造性との関係を考えなければならない。そして、古代ギリシャの暇と哲学、奴隷制、リベラルアーツ、テクネー、キリスト教と学問・科学との関係、さらには最近の「役に立つ学問」論争、といったものが全て本質的に関連する。これら全てについて適切に論じることは私の力量を超える。とはいえ、本来学問とは何であり、その観点から現代の学問はどのように位置付けられるべきなのか、といったことに関する議論は避けられない。
良くも悪くも、われわれはある種の創造性を断念することと引き換えに、近代社会のさまざまな果実を手に入れてきたとも言える。話は飛躍するが、結局我々は、徹頭徹尾「学問は役に立つ」と言い続けなければならないのだと思う。そしてどのように役に立つかという点については、単なる即物的、実利的なものだけではなく、まさに先に述べた公共性の観点からも論じる必要がある。そしてそれらについて、ある種の「量的」な議論、コストベネフィット的な議論にも一定程度耐えうるようなロジックを組み立てなければならない。その上でなお、「創造性」の居場所を探していかなければならない。

話を戻す。
そもそも今回のように、霞が関vs大学&公共施設という構図になっていること自体錯誤なのであって、前者こそ後者の担う価値が実現しないことを最も危惧しなければならない。
有限のリソースを異なる価値実現に分配する際の制約が発生するのは当然だが、それは各価値の代理人のコミュニケーションの巧拙に帰責すれば事足れリということではない。むしろ価値実現の不備を深刻に憂うべき主体のはず。
しかしそのようなマインドセットを少なくとも行政官僚のみに求められるかというと実際的には困難であり、有限のリソースを前提とした複数の価値実現のための配分問題を解くのは、本質的には政治の役割。従って、つまるところ政治家へのインプットが最重要となる。
しかるに現実には行政官僚の振る舞いのみが前景化され、かつそれらは多分に予算配分先に対する「性悪説」に駆動されている。監視していなければ予算を「不正」「無駄」に使うはず、「過大」に要求するはず、という観念が、先日話題になった「ミスのトリプルチェック」のような倒錯を生む。
たしかに不正は防止、無駄は改善、過大要求は抑制されなければならない。研究設備の共同利用などの取り組みには大いに価値がある。しかし研究や教育のように成果の短期的評価が困難な対象においては「そもそも何が合理化なのか」は自明ではなく、合理化しうる部分は限定的。過剰な合理化要求は逆にコストと化す。
そして繰り返しになるが、そもそもの目的は公共的な価値の実現であり、帰責はその手段として適切である限りにおいて正当化されるに過ぎない。価値が実現されなければ元も子もない。
ちなみに論理的には、「各価値実現の担い手」「価値の代理人」「その価値の重要性を最もよく理解し希求する者」が同一である必然性はない。アスリートでない人間がスポーツの価値を最も情熱的に訴えてもおかしくない。もちろん実際にはこれらの間には強い相関があるが、必然でもなければ義務でもない。
これは先程の「政治の役割」という点と関連する。責任回避や他責ではない。むしろ複数の価値実現のためのリソース配分に、特定の価値の担い手が介入することには謙抑的でなければならない、ということ。配分のための検討材料は提供できるが、意思決定そのものはあくまで政治の役割である。

さて、現在の競争的資金制度はざっくり例えると、橋を作るときに杭、土台、橋脚、橋桁、道路、手すりといった各部をそれぞれ担当する会社に対して一律施工費を減額した上で競争させ、新しいアイディアの施工方法を提案した会社には増額するようなものである。
減額された会社は、コストを抑えるために不十分な、あるいはリスクの高い方法を採用せざるを得なくなるし、最悪の場合その業務を放棄することになる。増額された会社も、本来行うべき質的向上とは異なるキャッチーな手法を導入するために、それ以外の部分に様々なしわ寄せを生じさせることになる。我々は、そのようにして建設された橋を安心して通行できるか。
予算が限られているのも、より質の高い施工が求められるのも、非効率を改善する必要があるのも当然。しかしそれらを実現する手段としてこれが適切か。問題の根本は、研究、教育分野の質的改善と効率化の手段が予算の出し入れとルールの厳格化しか存在しないという前近代的ローテクぶりにある。誰の責任というより本質的に困難であるがゆえに未成熟と考えるべきだが、放置して良いものではない。映りの悪いテレビの角を叩いて治すような粗暴な手段は、テレビの構造についての知識と修理技術の欠如がなぜる技であり、いくら異を唱えても知識と技術がなければ繰り返されるだけである。
研究、教育分野のような、成果の短期的評価が困難な(かつプレイヤーの自律性が高く組織化し難い)領域における質的向上と効率化を実現するためのマネジメント、とりわけインセンティブ設計を明らかにする研究の進展が強く期待される所以である。
冒頭の橋の例えに戻ると、この場合は「そんな橋はごめんだ」と誰もが口を揃えて言うだろう。当事者意識を持ちやすいし公共性も明らか。研究、教育も本来かくあるべきだが、ここで責任の所在を問いたいわけではない。単に我々はどのように橋が作られる社会を選ぶかという選択の問題である。



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