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実際に50であるものが50であると言われることの困難さについて

実際には50であるものを「50も100も同じだから100」という人間がいる一方で、「100は事実に反する」と言いながらその勢いで0に持っていこうとする人間がいて、100か0の間で振動していて一向に50にならない、みたいな状況なんだと思う。

50であることを認識していても「その勢いで0に持っていこうとする人間」の魂胆を食い止めようとすると結果として「100は事実に反する」という指摘もろともはねつけることになり、事実を認めない人間認定されて「0に持っていこうとする人間」を勢いづかせることになり、際限がなくなる。

当初一定割合で「50派」が存在していたとしても、「0派」からは「100派」の事実誤認を見過ごす人間とされ、「100派」からは「0派」の魂胆を見過ごす人間とされるため居場所がなくなっていずれかに宗派替えするか、議論から退却するかしかなくなる。

これはよく言われている単純なネット世論の二極化ではなく、「目的のためには手段を選ばない」行為と、「手段を選んでいるフリをして目的を潰す」行為によってそれが更にドライブされている現象であると言える。

その上世論は個人や組織による評価・賞罰と異なり制御不能なので、最終的に妥当な値に帰着させる、ということができない。たとえ多数の人々が50が妥当だと思っていてもこういったダイナミクスによって、先に述べた振動状態が続くか、それを抜け出しても0か100のいずれかにしか落ち着かない。

ではそもそも50を100と言わなければ良いではないかと思うだろうが、実は当事者になってみるとこれがほとんど不可能であることがわかる。正確には、「50も100も同じ」というよりは「50であることを伝えるためには100と言わざるを得ない」というようなことが多々生じる。自分でもまだ正解はわからない。

かつては素朴に、実際に50であるものがきちんと50であると言われるようにすれば社会はもっと良くなると信じていたが、その後「その勢いで0に持っていこうとする魂胆」が想像以上に蔓延していることを知り、一方で「50であることを伝えるためには100と言わざるを得ない」現実にも気づき頭を抱えている。

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