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我々は、誰もがストレス回避のみを行動原理として虫のように生きる未来、を目指している

何が正しいか、何が妥当かについて、司法に委ねるか科学実験を行うかして決着をつける以外にコミュニケーションの方法が存在しない、ということになるとなかなかこの社会は困難である。

あとは民主選挙による代議制。それと金銭的、非金銭的取引。さらには倫理規範。ただし倫理規範はそれ以外と比較すると相対的に普遍性(を形成する予期)が足りない。ゆえに法制化して司法に委ねることへの誘因が絶えず働いている。

まとめると「法化」「科学化」「民主的代議化」「市場化」「規範化」。これらは端的には「良いこと」であるのは大前提。しかし「これらによって社会が全て覆い尽くされていくこと」は果たして良いことか。被覆度が高まれば高まるほど依存度が高まり、「これら以外」に向き合う能力と動機が減退する。

善し悪しは別としてもこれらを突き詰めていくと、例えば友人関係、恋愛、結婚、家族といったものはこれらとはかなり相性が悪いことに気づく。こういった営みは善し悪しは別としてやがて絶滅するしか無いのか、とも思う。

と考えていたところに「アルゴリズム」という思わぬ伏兵が現れた。つまりマッチングアプリだ。

「法化」「科学化」「民主的代議化」「市場化」「規範化」「(これらの奪人称化としての)アルゴリズム化」。繰り返すが、これらの亢進は端的には「善きこと」である。しかし一方でこれらに正当性と動機を与えているのは、社会の、そして心的活動のうち他ならぬ、「これらが被覆していない部分」である。

よってこれらの被覆度が高まれば、逆説的にこれらの正当性と動機が減退する。法化を進めれば進めるほど法化の根拠が無くなり、市場化を進めれば進めるほど市場化の根拠が無くなる。残るのは単に、「被覆されていないことに対して生じるストレスを反射的に回避しようとする傾向」のみである。

究極的には我々は、誰もがストレス回避のみを行動原理として虫のように生きる未来、を目指していることになる。

私はそれでもなお、殺し合う人間より殺し合わない虫がつくる社会のほうがマシだと思うが、そうなると今度は、人生は虫になってまで生きるに値するのかという問題が生じる。ただしこれは、他人に要求できることではない。一人で静かに思うしかない。

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