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同じ日本語をつかっているからといって、話が通じるわけではない


2024年4月5日(金)朝の6:00になりました。

言語が違えば、世界も違って見えるかも。

どうも、高倉大希です。




アメリカ人には、日本語が通じません。

なぜなら、言語という前提が異なっているからです。


じゃあ、同じ言語をつかっていれば話が通じるのかというと、そんなこともありません。

同じ言語をつかっていても、前提が異なれば話はまったく通じません。


たとえば、話が通じない人は冒頭の一文に対してこんなことを言います。

「アメリカ人にだって日本語が通じる人はいるでしょう」


具体レベルのみでとらえる人は、それに対する例外事項をあげはじめて「反論」します。これはまったくレベルがかみ合っていない議論といえます。

細谷巧(2014)「具体と抽象 世界がわかって見える知性の仕組み」dZERO


アメリカ人には、日本語が通じません。

言わずもがな、ここでいう「アメリカ人」には「一般的な」という修飾語がついています。


「異なる言語をつかう人」の象徴として、「アメリカ人」が用いられているわけです。

「アメリカ人にだって日本語が通じる人はいるでしょう」と言う人には、その前提がありません。


そんな話が通じない人も、同じ日本語をつかってはいます。

同じ日本語をつかっていても、前提が違えば話は通じないのです。


「マインド」や「エスプリ」のような概念は、「鳥」や「バラ」の概念と同様の意味で自然ではありえない。自然でないからこそ、言語によって概念領域に違いが生じるのだ。

ガイ・ドイッチャー(2022)「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」早川書房


「猫の手も借りたい」に対して、「いや、猫は力にならないでしょ」という人には話が通じません。

「一寸先は闇」に対して、「え、昼だから明るいじゃん」という人には話が通じません。


何も、そのような人を悪く言おうというわけではありません。

貶しているわけでも、バカにしているわけでもありません。


同じ日本語をつかっているから、話が通じるはずだ。

単純に、この前提に立ってしまうのはかなり危ういのではないかという話です。


相手のことがわからないのは、なにもあなたの理解力が足りないからじゃありません。たいていの場合、前提が違うからです。前提が違う人にいくら言葉を投げても、相手に刺さるはずがない。前提の違う話をされると、人は当惑します。

養老孟司(2023)「ものがわかるということ」祥伝社


前提が違うままに、その先の話をしてもまったく前には進みません。

前提が違うままに、衝突したって消耗しておしまいです。


SNSは、このようなやりとりで溢れています。

前提が異なるままに言い合って、顔を赤くしています。


同じ日本語をつかっているからといって、話が通じるわけではない。

あらゆるコミュニケーションは、ここからスタートするはずです。






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