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「なくてもよい」の強み


2023年8月3日(木)朝の6:00になりました。

バケツ持たされて廊下に立ってた、あいつはきっと分かってた。

どうも、高倉大希です。




戦場カメラマン、予備校講師、ラッパー、元アイドル、大学助教授。

近年のテレビ番組では、タレントではない人が引っ張りだこになっています。


彼らにとって、テレビ出ることは「なくてもよい」お仕事です。

もちろん、認知度が高まることによる恩恵は、多少なりともあるのでしょう。


テレビに出ることで、ほかの仕事に繋がったり。

テレビに出ることで、プロダクトの売れ行きがよくなったり。


ただ、あくまでも「なくてもよい」ことに変わりはありません。

肩の力を抜いて出演することができるという事実は、とても大きな強みです。


それはぼくにとって、クリエイティブの喪失なんです。「本業じゃないこと」を辞めてしまったら、自分がこれまでやってきたことの根幹がブレてしまう。

糸井重里、古賀史健(2018)「古賀史健がまとめた糸井重里のこと」ほぼ日


製作サイドにとっても、これらの人物はつかい勝手のよい存在です。

彼らには本業があるので、食いっぱぐれることはありません。


「つぎも呼ばなければ失礼なのではないか」とか。

「その人の今後のためにもよく見せなければならないな」とか。


余計なことを、考える必要がありません。

出演者にとっても、制作サイドにとっても、よいことしかないのです。


ぼく自身の仕事のうえでは、「自分はこういう方向で行くんだ」というように決めつけるとあぶない、という気がしています。

吉本隆明、糸井重里(2004)「悪人正機」新潮社


決して彼らが、手を抜いたり中途半端にこなしたりしているわけではありません。

「なくてもよい」が前提にあるからこそ出せる、その人の魅力があるのです。


戦場カメラマンも、予備校講師も、ラッパーも、元アイドルも、大学助教授も。

みんなどこか肩の力が抜けていて、こちらも気軽に観ることができます。

「爪痕を残してやるぞ」と前のめりになっている人は、観ているこちらが気疲れしてしまうのです。


ぼくがもっと大事だなと思うのは「うまくいくかどうかまったくわからない。むしろたぶん失敗するという中でも、とりあえず無理やり足を踏み出してしまう意味不明な勇気というものをどうもつか」ということじゃないかと思うんです。

令和4年度 バンタン卒業式」成田悠輔さんの祝辞より


毎朝6:00に投稿しているこの note も、自分にとってはべつに「なくてもよい」存在です。


もちろん、書いていなければ出会っていなかったであろう人はたくさんいます。

読んでくださる人がいるという事実も、とてもうれしく思っています。


それでもやはり、「なくてもよい」存在であることには変わりありません。

もし、この note が「なくてはならない」存在だったとしたら、毎朝投稿なんて怖くてできていなかったでしょう。


「なくてはならない」ものなんて、案外ないのかもしれません。






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