自身にとっての「価値」を知る――毒親育ちが若い人に教えたい人生の基本

「何が君の幸せ 何を見て喜ぶ わからないまま終わる そんなのは嫌だ」というのは、児童向けアニメのテーマソング「アンパンマンのマーチ」の歌い出しですが、これは人生の基本でもあると思います。

自分の場合の「いい大学からいい就職先で将来安泰」論や「何歳になったからぬいぐるみやゲームは卒業」の押し付けに翻弄され、自分が何を「価値」と感じるか見るに見れない日々が続いていました。ただ、関わる人間は親だけでなく兄弟や親戚、近所や教師、同級生等多くの人がいます。原因も大小も人によって違うかもしれませんが、皆さん様々なところから影響し合ってされ合って生きているのです。

この「影響し合ってされ合って」いる中だと、どうしても自分にとっての「価値」は見えなくなりがちなものです。今でこそ自分は「ゲームに興じたりぬいぐるみや動物に引っ付いたり」というところが「価値」であると見出せていますが、若い頃は「価値」という意識もありませんでした。ただ「大人になると毎日苦しい仕事をし続けないといけない、そしてその必死に稼いだ金を欲しくもない妻子を養うために費やさないといけない」という漠然とした将来像だけがあり(これは高校入試よりも前から)、このため「大人になる」というのが不幸なことにしか思えなくなっていました。性に関する授業も「大人になる」こととの地続きと捉え、忌避していました。また、恋愛に関してはそもそも感情が全く動かず、もう若くないこの歳でも未だに初恋を経験していません。中学の頃「好きな子はいない」と言ったところ同級生から異常だと言われたので、仕方なしに「転校前の学校にいたとする好きな子を存在しないのに捏造する」ということまでしました。

流石に自分のような経歴はそうは無いと思います。多くの方の場合結婚して子供を育てることを幸せと心から感じるみたいですし、恋愛も自然と気持ちが高ぶるものだと思います。が、人間というのは工場で量産された製品ではありません。こういったところであっても「自身が心から望むもの」なのか「周りの影響で思わされているだけ」なのかを一度振り返るのは大事なことだと思います。その結果「自身が心から望むもの」であると再認識できたならそれで良し、後者だったら「じゃあ何が自分にとって」と探してみることが大事なのです。

そして「自身が心から望むもの」「価値」を見極めたら、次はその「価値」にどの程度の「対価」が要求されるかを考えるのです。極端な話「価値」がただ生きていれば不自由であってもいいという方であれば、今の日本だと生活保護で十分ということになり「対価」はほぼ不要ということになるでしょう。自分のようにゲームに興じたりぬいぐるみに引っ付いたりするのが「価値」であれば、そういったものを持てる生活を維持するだけの「対価」が必要です。これが結婚して家庭を築いてというところまでいくなら、求められる「対価」は自分より大きいことでしょう。

その「対価」がどの程度のものかを見極めたら、次はその「対価」のために「自分にできること」を探します。肉体労働でもいいかもしれませんし事務仕事でもいいでしょう、人との対話もいいでしょうしそれこそ性を売ることだってありです。大事なのは「自身が『対価』のための『成果』を出せるか」「『成果』に対する『対価』が同じなら自身にとってどちらの方が楽か」です。子供の頃の自分は「毎日苦しい仕事をし続けないといけない」という印象を持っており、それは勿論「成果」に対する責任としてある程度のものは要求されるとは今でも思っていますが。それでも「苦しさの方向性は選ぶことができる」点は忘れてはいけません。繰り返しますが人間というのは工場で量産された製品ではありません。同じ行為であっても苦痛の度合いは人によって違います。例で思いついたのはスポーツ観戦です。ファンの方は高い金を自ら払ってでも会場で試合を見たいものでしょうけど、ファンでもない自分は時給でも出してもらえなければチケットを貰えた程度では見に行く価値もない、会場の喧騒が苦手な人は時給を貰えても行きたくないことでしょう。同じことです。自身にとってどうしてもできないだけの苦痛をもたらすものは避ける、それだけで「対価」のための「成果」はハードルが下がるものです。わざわざハードルを上げる必要など全く無いのです。

自分の場合は大学卒業後の職場体験でこの考えが少しずつ出来上がり、仕事をするという事にも前向きになれそうでした。本当であればその後は様々な体験をして自分のやっていけることを見つけていく段階だったのですが、それを母に破壊されたのは前述のとおりです。自分の経験からの明確な答えを書いておくことで、同じような事態に直面した人が絶望を味わわないで済むと良いと思っています。

余談ながら、自分は最終的に「価値」という言葉に行きつきました。これは漫画「メイドインアビス」の「成れ果て村」の影響によるものです。登場する「成れ果て」たちは「欲に応じた姿」をしており、主人公のリコに「みんなそれっぽい姿」と言われます。現実で生きている我々は「成れ果て」たちほど「欲に応じた姿」はしていませんが、それぞれに異なるものを「価値」としている点では案外「成れ果て」たちと似たようなものなのかもしれません。そういう目で見ると「慣れ果て村」にも違った印象を抱けるのではと感じます。

自分も今書けるものを書くに限られている身、不勉強があるかも知れません。何かございましたら遠慮なく下のコメント欄から送っていただければと思います。日常用の趣味も交えたごった煮のツイッターの方でも構いません。忌憚なく意見をいただければと思います。

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