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嫌われる勇気。。。ずっとありませんでした。

皆さん、こんばんは。

おとといは大学病院に、子宮がんの定期検査に行ってきたのですが、超、痛かったです。
前回(3回目)が比較的、楽だったので、油断してました💦
それにしても、今回は待ち時間がひどかった、2時間半です。
なんで、あんなに時間かかるんでしょうねぇ、主治医もさすがに今回は、「遅くなってごめんなさいね」と謝ってましたが。

ちなみに、今日は、父の面会に行ってきました。
連日の用事で忙しかったです。
父は、相変わらず痩せていましたが、高カロリーゼリーを1日3回、8割方、食べられるようになっていました。
病院側では、リハビリ病院への転院を打診する方向で動いてくれているようです。
正直言って、そんな話が出るとは思ってなかったので、少しでも回復傾向にあることに安堵しました。
引き続き、見守っていきたいと思います。

さて、そろそろ、タイトルに関連したことを😅
今回のタイトルは、

嫌われる勇気。。。ずっとありませんでした。

です。
もう、そのまんまです、私は過去も今も、嫌われる勇気がないのです。
嫌われることが、怖くて怖くて仕方がないのです。
自分を全否定されてしまったように感じるからかもしれないですね。

なぜ、そこまで極端に感じるかというと、何回か記事の中で言ってきてますが、やはり毒親気質の母親からの影響が大きかったのだと思います。
私は、実父とは幼い時に生き別れをし、兄弟もいないので、血のつながりのある家族は母しかいませんでした。
その母が、大変な教育ママで、私の自由を尊重してくれる人ではありませんでした。
だから、常に母の顔色を伺ってばかりでした。
そんな習慣から、いまだに人の顔色を伺ってしまう癖が抜けないのだと思います。

他者から嫌われたとしても、それは、私自身を全否定されたわけではないのに、自分の存在意義を考えてしまうぐらい、私は他者からの評価に囚われてしまうのです。
実は今も、嫌われたであろう人間関係のことで、自分の心の中での整理が付かずにいます。
大人になると、他者から嫌われても、他者を嫌いになっても、建て前的関係が続く場合があります。(特に、共通の知人・友人がいる場合)
そんな関係は長くは続きませんから、いずれは完全崩壊するのでしょうが、私は、その建て前的関係時に、ものすごく悩んでしまうのです。

完全崩壊するまで、本当に嫌われてるのか?いや、絶対に嫌われている、の考えを、行ったり来たりしてしまうのですね。
結局、他者との関係性の主導権を、他者に委ねすぎてしまってるからなのでしょうね。

もし、私が(気のせいではなく)嫌われていたとしても、相手にも私を嫌う権利(自由)があるわけですから、それは受け止める(割り切る)しかないわけです。
そして、私にも、相手をどう思うかの権利(自由)があるわけです。
ある意味、お互い様ということなのでしょう。
だから、嫌われたとしても自分を全否定する必要もないし、誰かを嫌ってしまったとしても、自分を責める必要もないのかもしれませんね。

しかし、本当に、私は、建て前的関係時(嫌われたであろう人間関係時)が苦手です。
自然にフェイドアウト。。。そういうことをあまり経験してきてないからだと思います。
というか、自分から人を切る(絶縁・疎遠にする)ことが、ほとんどできなかったのです。
自分が人から切られた(絶縁・疎遠にされた)時、大きく傷付いてしまうので、人に対して切る(絶縁・疎遠にする)ことができませんでした。

嫌われる勇気って、人を嫌いになる勇気とも言えるのではないかと感じました。
嫌われる勇気も辛いけど、人を嫌いになる勇気も、相当、辛いです。
私は、いつまで経っても、甘ちゃんの人間のようです。



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