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【パッチワーク書評】大岡信著『百人一首』第11首 参議篁

―野と称された異能の官吏、哀切を高らかに詠み上げる

『応天の門』というマンガ作品をまだ読めていない。しかしながら、道真公の描かれ方がなかなかに強烈だとは、聞いたことがある。

それを、まさしく地で行く人がいる。小野篁(おのの・たかむら)である。

随の煬帝に「日出づる処の天子、日没する処の天子に書を致す」との国書で大いに啖呵を切った、遣隋使・小野妹子の子孫と言われる。その性質がしっかりと受け継がれたのであろうか。

辞書的な通称としては野相公や野宰相。ただ、最も親しまれている通り名は“野狂”である。この二文字を持って、その人柄が伝わりすぎるほどに伝わってくる。眉目秀麗で当時にして身長が188cmほどもあったという。マッカーサーを叱りつけた白洲次郎さんともどこか重なるところがある。

逸話に事欠かない歴史上の人物は煌星のごとくいるが、内容がまた強烈なものばかりである。『今昔物語』『宇治拾遺物語』をはじめ、様々な説話集にエピソードが残されている。

天皇や上役を皮肉るものからオカルトに到るまで、その内容は多岐にわたる。最もインパクトがあるのは、官吏の能力を認められ、冥府で閻魔大王の手伝いをしていたという話である。京都市東山区にある六道珍皇寺には、現在も小野篁が使用したとされる「冥土通いの井戸」が残っている。

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これは、六道珍皇寺で撮影させて頂いた小野篁の立像である。井戸で冥府へ落ちていく姿であるため、衣が大いに翻っている。

とても印象に残っているのが、お地蔵さんのお話。京都を歩くと、街のあらゆるところにお地蔵さんが安置されていることを実感する。

その京都の地蔵信仰に、小野篁が関わっているという伝承がある。ある日、いつもの通り小野篁が冥府へ趣いた。すると、地獄行きが決まり、落ちてくる亡者を手で掬っては、上(浄土)へ放り投げている存在を見る。たまらず、「あなたのお名前をお聞かせ頂けますか」と聞くと、「地蔵菩薩」と答えたというのである。冥府から戻った篁はすぐに地蔵菩薩像を彫り上げ、それが京都へ広まっていったのだという。

もちろん伝説ではある。ただ、お地蔵さんに対して、どことなく怖い感覚を持っていた筆者としては、心にジーンと染みるような感覚と、申し訳ないような気持ちに包まれたことをよく覚えている。

また、父母にはよく孝行したと伝えられる。父親が亡くなった際には、喪に服すること尋常ではなく、容貌が変わってしまうほどであったという。

“自ら恃むところすこぶる厚く”と見られがちではあるが、何に対しても正直すぎるということだったのであろう。

それが悪いカタチとなって現れてしまった事件がある。

遣唐副使に任命されたとき、大使の藤原常嗣から篁の船を求められたことに憤慨。病気と偽って乗船を拒否した上、『西道謡』という詩までしたためて、遣唐使の制度そのものを痛烈に諷刺した。篁の才能を買っていた嵯峨上皇の逆鱗に触れ、隠岐へ流罪となった。

その際、難波浦から発つときの哀切を詠んだ。

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
人には告げよ あまのつり舟

大岡さん独自訳

大海原に横たわるあまたの島を経めぐって
はてに配流の身を横たえるため この篁は舟に乗り揺られて去ったと
告げてくれ漁夫の釣り舟よ 都に残るあの人にだけは

大岡さんは、篁の心境をこのように解説する。

島から島をめぐって瀬戸内海を通り抜け、さいはての隠岐へ下るのである。当時の船旅の危うさからすれば、流罪という傷心に加えて、心細さも想像を絶するものがあっただろう。つり糸を垂れる見知らぬ漁夫は、その無心な姿ゆえに一層流離の悲しみをかきたてた。

流罪となって2年後、その才能を惜しまれたため、赦免され再び朝廷入りすることとなる。

このように、人物本位で見ていくと、また違った味わいをもって百人一首の和歌が感じられるのではないだろうか。

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