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【司馬さんとの旅日記】『この国のかたち』「2.朱子学の作用」

―日本人はなぜ道をあやまることになったのか その思想を辿る旅路

司馬さんの旅に勝手ながら随伴して、その世界にひたすら耽ることを目論む【司馬さんとの旅日記】

スローガンは、尊王攘夷でしかないのである。外圧に対するいわば悲鳴のようなもので、フランス革命のように、人類のすべてに通ずる理想のようなものはない。

幕末の尊王攘夷運動と明治維新を司馬さんは、バッサリと切り捨てる。次第にナショナリズムの話に展開していく。

社会が広域化するにつれて、この土俗的な感情は、軽度の場合はユーモアになる。しかし重度の場合は血なまぐさくて、みぐるしい。ついでながら、単なるナショナリズムは愛国という高度の倫理とは別のものである。

軽度・重度と例えるその巧みさに、司馬さんらしさがよく現れている。そして、尊王攘夷は、中国の宋王朝で生まれた輸入思想であったことを指摘する。

 この思想は、中国史のある特殊事情下でうまれた。
 宋(九六〇~一二七九)という、対異民族問題のために終始悪戦苦闘した漢民族王朝下での所産で、思えば、宋ほど政権としてあわれな統一王朝はなかった。~(中略)~
 つまりは、宋という特殊な状況下で 醸し出された一種の危機思想で、本来、普遍性はもたないものなのである。
 それが、新思想として十三世紀の日本にきた。

宋というのは、非常に真面目な王朝であった。文官による統治を目指し、ある意味では清潔な国家を夢見たために、サロン化してしまった。そのことが、弱体化に繋がったと、習った覚えがある。

大陸というダイナミズムに飲み込まれてしまったとも言える。その意味では、日本という国家規模と宋学は上手くマッチしていたのだろう。ここで、司馬さんは少し違う角度から、面白い指摘をする。

中国・朝鮮、それに日本における尊王攘夷思想の成立と展開という研究を、左右に偏せずに、社会科学的にやってもらいたいと思うのだが、そういう本は昔もいまもないらしい。

まるで、この指摘に応えたような本がある。

『朱子学と陽明学 (ちくま学芸文庫) 』は、放送大学のテキストを底本とされているようなので、非常に読みやすい上に内容も濃い。また、筆者の小島毅さんは、その筆致やシニカルな表現も、どこか司馬さんを彷彿とさせるところがある。

中国史においても、日本史においても、儒教は不可避のテーマである。しかしながら、歴史の一側面として紹介されることはあっても、なかなか儒教だけにフォーカスされることは少ない。

ずっと気になっていたことに、ズバリと回答してくれるような本である。司馬さんの指摘に対する、アンサーソングならぬ、アンサーブックといったところだろうか。さて、話を戻す。

ここから、司馬さんは尊王攘夷思想の起源や、思想が日本へ入ってくる経緯について触れる。その後に続くのは、『この国のかたち』においては珍しいとさえ言える讃える言葉となる。

 これとはべつに、日本の十三世紀は、すばらしい時代だった。
 仏教に、日本的な新仏教がうまれ、彫刻においてもつよいリアリズムが打ち出された。  それ以上に強烈だったのは、開拓農民の政権(鎌倉幕府)が、関東に成立したことである。~(中略)~ 
 日本史が、中国や朝鮮の歴史とまったく似ない歴史をたどりはじめるのは、鎌倉幕府という、素朴なリアリズムをよりどころにする〝百姓〟の政権が誕生してからである。私どもは、これを誇りにしたい。

さらに、讃辞は続く。

「名こそ惜しけれ」
 はずかしいことをするな、という坂東武者の精神は、その後の日本の非貴族階級につよい影響をあたえ、いまも一部のすがすがしい日本人の中で生きている。

“いまも一部のすがすがしい日本人の中で生きている”といった書きぶりは、いかにも司馬さんの真骨頂という感がある。

いよいよ、本項の主題である朱子学に展開して、水戸学へと話が及ぶ。

 が、日本でも一カ所だけ、おそるべき朱子学的幻想が沈澱して行った土地がある。水戸だった。  
 水戸黄門といわれた徳川光圀は、早くから日本史編纂の大事業を企てていたが、たまたま明の遺臣朱舜水が異民族王朝である清からのがれて亡命してきたのを手厚く保護した。~(中略)~
 その修史態度は史料あつめや、史籍の校訂、考証においてすぐれていたが、しかし記述にあたっては〝義理名分〟をあきらかにし、忠臣叛臣の区別を正すという徹底的な宋学価値観の上に立ったために、後世への価値はほとんどない。光圀も雄大なむだをやったものである。

「雄大なむだをやったものである」と、いつにも増して、司馬さんの容赦ない言葉が綴られる。明治維新を改めて評価した後、結びとなる言葉が記される。

 明治維新は、思想的器量という点では決して自讃に耐えるようなものではない。~(中略)~
 過去は動かしようのないものである。
 ただ、これに、深浅いずれにしても苦味を感ずる感覚が大切なのではないか。

歴史好きがファン投票をすれば、戦国時代と幕末維新期に票が二分することになるだろう。そのような状況となった背景に、司馬さんの作品群が与えた影響は少なくない。ある意味では、自らの作品の愛読者に対する警鐘とも言えるのではなかろうか。

特に、今回の「2.朱子学の作用」と前項「1.この国のかたち」は、『この国のかたち』を読む際に、そのベースとなる部分だと感じられたため、丁寧に取り上げることとした。

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