【パッチワーク書評】大岡信著『百人一首』第73首 前中納言匡房

―稀代の俊英が詠めば、戯れも見事な和歌となる

昨日のnoteでは、大江匡房の言葉を取り上げた。彼が詠んだ歌は、藤原定家により『百人一首』にも選ばれる。

詩人で評論家の大岡信さんが、『百人一首』について一首ごとに、独自の訳および、和歌が詠まれた背景や文法、人物などについてバランスよく記載した解説が付されている。新聞記者出身の大岡さんらしく、その解説はわかりやすく簡潔である。

友人宅で酒盛りをしながら、この和歌は詠まれたそうである。

高砂の尾の上の 桜咲きにけり
外山の霞 立たずもあらなむ

大岡さん独自訳

春たけなわ はるかを望めば 高い山の峰にまで桜が咲いて……
おお 手前の山の霞よ 立たずにいておくれ
ようやく遅れて咲きはじめた あの山の桜がおまえにまぎれてしまう

大江匡房とは―
4歳で書を読み、8歳で中国の歴史書『史記』のほか漢書に通じて、11歳にもなると詩作を行っていたという。16歳で文章得業生(成績優秀者から選ばれる特待生身分)になると、正式な試験を経て朝廷入りに及び、三条天皇・白河天皇・堀河天皇の3代にわたり侍読(文章の先生)を勤めた。

大岡さんはこんなエピソードを語っている。

関白藤原頼通(道長嫡男)が宇治に平等院を建立する時、四脚の大門を北向きに建てる前例を匡房に尋ねたところ即座に、「天竺(インド)の那蘭陀寺、震旦(中国)の西明寺、本朝の六波羅蜜寺」と答えて頼通を感歎させたという。

これほど漢学に通じた大江匡房であったからこそ、源義家に『孫子』を教えることができたのである。

よって、大岡さんは漢詩こそが本文であって、彼にとって「和歌はむしろ余技」とまで喝破している。その余技が藤原定家の目にとまるのであるから、その才気が走っていたと言えるだろう。

『百人一首』は和歌の入門書となっているようだが、正直なところ筆者は和歌の特別な愛好者ではない。しかしながら、『百人一首』には実に様々な人物が登場する。その人物に着目するというのも、『百人一首』の楽しみ方なのかも知れない。

―人物に着目した『百人一首』の話はさらに明日へ続く。

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