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第八十八話 花火大会 その三~水上スターマイン/田辺の場合

もくじ

 橋を渡って道なりに歩いていくと、運良くコンビニが見つかり、酒と煙草を買って、真一はトイレにも寄った。店を出て、歩道を少し戻ったところに無人のベンチを見つけ、腰を下ろす。ここまで来ると、背後の道路を歩いている人は少ない。歩行者天国の終わりに近く、右側の奥のほうで、赤い棒を持った警官が車を誘導している。

「えーと、どっちが俺のだったっけ?」

 真一はベンチに置いたコンビニ袋を覗き込む。中には岡崎が買った煙草と小さなビンが二本。

「カンパリオレンジです」
「そうだ。ど忘れしちまった」

 真一たちが買ったのは、「愛だろ、愛っ」 のCMでお馴染みのサントリー 「ザ・カクテルバー」。真一の 「カンパリオレンジ」 と岡崎の 「バナナダイキリ」 はどちらもシリーズ最新作だ。

「かんぱーい」

 チン、とビンを突き合わせると、岡崎の背後の空を裸電球色の火の玉が昇っていった。パッと開いた同色の花が真一の目には映ったが、岡崎には見えず、遅れて響いた爆音に、うひっ、と肩をすぼめる。それで何かのスイッチが入ったのか、景気づけのように酒をぐびりとやると、岡崎は歩道を突っ切って、目の前の防波堤に飛び乗った。

「ヒューッ!」

 ゆっくりと夜空に緒を引いている枝垂れ柳に向かって絶叫する。夕食のとき、ほかの仲間たちより飲んでいた岡崎のテンションは高めだ。

「おい、危ないぞ」

 歩道から見れば、防波堤の高さはそれほどではない。だが、反対側は、下の砂浜まで二メートルくらいあるはずだ。

「落ちやしませんって」

 岡崎は、大丈夫、と示すようにビンを掲げて、防波堤の上を歩き出す。視線は枝垂れ柳の光跡を見つめたままで、足元の注意がおろそかだったので、真一はもう一度注意しようとする。

「よっ」

 だが、その前に、自ら歩道に飛び降りた。

 しかし、ちょうど通りかかった人がいた。うわっ、と若者らしき人影が悲鳴を上げる。

「あ、すんません」

 ぶつかりそうになったことを謝った岡崎だったが、すぐに、あーっ、と声を張り上げて、目の前の人影を指さした。

「田辺先輩じゃないですかっ。どうしてこんな所にいるんですか」
「お、岡崎……?」

 驚いて固まっていた人影が、恐る恐る訊き返す。黒いポロシャツとカーキ色のハーフパンツ。顔も手足もよく日焼けし、右手に白いリストバンド、足首に複雑な模様のミサンガを巻いている。

「ご無沙汰してます。もしかして、合宿ですか」
「そ、そうだよ。お前こそ、何でこんな所にいるんだよ」
「俺はバイトの仲間と遊びに来たんですよ」

 岡崎がベンチに顔を向け、田辺という若者も釣られてこっちを見る。目が合ったので、一応会釈しておいた。二人の会話によれば、田辺はコンビニまで買い出しに行く途中だという。サークルの仲間数人と砂浜で花火を見ていたのだが、酒とつまみが切れて、じゃんけんで負けた田辺が買いに行くことになったようだ。

「先輩、よく日焼けしてますね。就職決まって遊びまくってるんじゃないですか」
「学生時代最後の夏だからな」
「おー、いいですねえ。色んな所に行ったんでしょ」
「何言ってんだよ、来年からサラリーマンだぞ。また下っ端に戻ってこき使われるんだ。お前がうらやましいよ」
「うっひっひ。ご愁傷さまです」
「このっ、憎らしい奴だな」

 岡崎に回し蹴りを食らわすふりをする。

「大学二年なんて、いちばんいい時期だぞ。せいぜい、今のうちに楽しんでおけ」
「言われなくても、そのつもりです」

 わざとらしく敬礼した後輩に、田辺は苦いものでも食べたように顔をしかめた。

 防波堤の向こうで、水上スターマインが始まった。花火大会の目玉だ。民宿のポスターにも写真が載っていた。田辺と岡崎は会話を止め、真一も立ち上がって、砂浜の先に横たわる黒い海に目を瞠る。沖合に向かって次々と火の玉が発射され、赤や緑の花を咲かせていく。十全な丸い花ではない。半分に切られたドーム型の花だ。眩い火を散らす海に向かって、砂浜でいくつものグループが、叫んだり腕を突き上げたりしている。あの中に、田辺のグループもいるのだろうか。明るみに浮かび上がった人のシルエットは、思いのほか多い。

 豪勢な光の競演は、しばらく続いた。海上に立ち込める花火の煙で視界が悪くなった頃、山々に木霊を残して終了した。闇に包まれた砂浜では、まだ人の騒ぎ声が聞こえる。

「そういや、今年もやったんですか、坂道ラン」

 真一がベンチに座ると、岡崎も会話を再開した。

「恒例行事だからな」
「いいかげん、やめたらどうです? 去年なんて、ベソかきながら走ってた女の子がいましたよ」
「伝統だから無理だな。俺たちの代でやめたら、先輩に何言われるかわかんねえ」
「事なかれ主義ですか。これもニッポンの伝統ですね」
「何とでも言え」

 二人が話題にしているのは、海岸通りを歩きながら岡崎が話していたサークルの行事だろう。合宿中、山の上のスポーツ公園まで走って上る日があるらしい。一年生だった去年は抜き打ちで通告され、準備も何もできていなくてまいった、と岡崎は言っていた。出発点は町外れにある波切不動尊――津波の際はここまで逃げろという目安らしい――下の広場。そこから緑深い山道をぐねぐねと駆け上がっていく。ゴールまでの高低差は三百メートル以上あり、素人が完走することは難しい。森の中は蒸し暑く、坂が急な箇所もたくさんあって汗だくになる。岡崎も途中で挫折したそうだ。

 合宿の思い出話が続く。夜空を焦がす花火が、時々田辺の顔を明るく照らす。四年生らしいから、もしかしたら真一と同い年かもしれない。懐かしそうに笑うところを見て、いい顔だ、と思った。田辺がどんな学生時代を送ってきたのかは知る由もない。岡崎みたいに時間を共有したわけではないから。それでも、話しぶりや表情から、それなりに中身のある日々を過ごしてきたことは何となく想像できる。

 田辺は岡崎のことを 「うらやましい」 と言った。しかし、その言い方は爽やかで、何かを引きずっているようには感じられなかった。

 実は、昼間かき氷を食べたあと、少し気になっていたのだ。
 もうすぐ 「若者の世界」 に別れを告げる。
 つまり、「青春」 が終わる。

 だが、実際にその時を迎えてどう思うかまでは考えていなかった。

 実際、どう思うのだろう?
 元の世界――「日常」 へうまく戻れるだろうか。

 宿に戻る途中、いくらか不安を感じながら考えていた。

 だが、田辺の顔が答えを示していると思う。
 田辺は過去を振り返ったりしないだろう。
 
 「うらやましい」 という言葉も、過去に一線を引いた上での言葉だと思った。

 もちろん、時々振り返ることならあるかもしれない。まったく振り返らないと言ったら、それはそれで嘘くさい。
 ただ、基本的には前を向いて歩いていくはずだ。
 そういう顔をしている。

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