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「こどもの国」 #2 -徳島

徳島


徳島といえば、お盆の頃に行われる阿波踊りで全国的に知られる。鉦と太鼓で独特の2拍子のリズムが刻まれ、それにあわせ三味線と横笛が情熱的なメロディを奏でる。男は手ぬぐいでほっかむりをし、浴衣を腰までからげて腰を大きく下ろした滑稽な格好で手足を大きく動かして踊り、女は反対に着物に編み笠を深くかぶり、顔を半分以上隠し、艶っぽく上品に踊る。徳島の夏は暑い。しかし、それ以上に街は蒸れたような熱気にあふれている。女たちも熱をはらみ、編み笠の後ろから見えるうなじからは女の香りを含んだ蒸気が立ち上っている。男たちは皆、この艶やかさに酔うようにその回りを、まるで女を誘うようにひょうきんに舞うのである。
8月のこの期間だけは徳島は熱病に侵されたように街中が鉦と太鼓の音に包まれ、若者は恋人を求め夜の街を徘徊する。大人たちもこの日だけは多めにみてやろうとうるさいことは言わない。商売人たちは、阿波踊りを目当てにやってくる県外の客に対して、ここぞとばかりに商売をするため、宿はこの期間ばかりは普段閑散としている古びた宿までもが満室になり、普段の2倍ほどにも宿泊費が増える。徳島の商売人にとってお盆は休むものではなく、年に1度の稼ぎどきと嫁に尻をたたかれる日なのである。

言ってみれば、徳島という“くに”は、阿波踊りの期間だけは別人のように様変わりする。人も街も心の中のタガが外れたような状態になるのだが、逆にそれ以外の時期は、のんびりとしていて、ゆるやかな空気が漂っている。それは言葉遣いにも表れていて、イントネーションなどは関西の言葉に近いのだが、聞こえてくる印象は正反対なほどのんびりとしていて、どうも喧嘩などには向きそうもない。印象的なのは「そ」ではじまる指示語が全て「ほ」に置き換わってしまい、語尾が妙に伸びる。関西弁の「それや!」が「ほれじゃ!」、「そうやろ?」は「ほおだあ?」となる。丁寧語的な概念もあり、その際には最後に「で?」をつけたりする。「ほないくで」は関西弁では「じゃあいくぞ」と勇ましいが、徳島では語尾を少し上げて「じゃあ、いきましょうか?」という丁寧な言葉遣いになる。そのせいでもないだろうが、古来、徳島からはあまり激越な人物は出していない。上古の時代から政治の中心になってきた畿内に近いこともあり、政治も経済も畿内と密接な関係をもっていながらも、政治の実権を握るような動きは戦国時代、三好長慶を出し、足利将軍を傀儡にして四国から畿内にかけて9カ国をその配下に置いたことがあるくらいで、幕末に隣の土佐が異常なほどの熱の高まりを見せたときも阿波はまるで沈黙していた。
元々阿波の国は裕福な国で米の他にも藍が特産品であり、その他、塩、たばこなど含めて産物には不自由がなかった。江戸時代を通じて蜂須賀家のもと25万石という四国では最大の石高を誇っていたが、それら、藍、塩、たばこなど阿波商品が稼ぐ外貨を含めれば倍ほどの経済力があったと思われる。
つまり、阿波の国は古来、裕福であり、気候も温暖で大きな自然災害からも縁が遠いことから、自然、そこに住む人間も穏やかに育てていったらしく、時に他人を蹴落としてでも自らの利益を死守しなければならないといった政治の世界には元来不向きな人種だったのかもしれない。

この「地方分邦」が行われた時期、徳島県を預かっていたのが知事の細井守(ほそいまもる)であった。
「徳島は関西邦へ入る方向で調整しております。」
会議で細井が発言したとき、議員連中からは少しの驚きと、多くの称賛で迎えいれられた。「道州制」の議論が進んでいた際から今日まで、徳島県はある意味当然のようにも思えるが、四国4県で四国州を形成することが既定路線になっていた。当然、県民もそう考えていた。
徳島は淡路島を挟んで近畿地方に対峙している。古くから経済的な交流は四国の中の他県よりも、海を渡って大阪や兵庫、和歌山といった地域の方が圧倒的に高かった。当然、大阪はずっと経済の中心地だったため江戸時代まで藩で取れる特産品は全部大阪(大坂)へ集積されたため、どの藩も大坂との経済的交流は多かったが、徳島は地理的にも紀伊水道を一跨ぎといった場所にあり、淡路、つまり阿波路というように、淡路島を渡ってのルートが古くから確立されていたために、政治的にも京、大坂の出先のような位置づけになることが多かった。また逆に四国に目を向けると峻険な四国山脈が人々の交流を阻みつづけており、まだ徒歩中心の交通しかなかった時代には舟を利用できる近畿ルートの方を経済的にも地理的にも重宝したのは当然の流れかもしれない。
言葉にもこのことは濃厚に反映されており、四国の方言をみてみると、徳島は圧倒的に近畿の影響を受けていることがわかる。同じ四国でも、瀬戸内海を挟み中国地方と近い関係のある、香川や愛媛はやはり岡山や広島などの言葉に近く、どことも接していない高知は独自の言葉という印象である。
「もう、ある程度、多仁さんとは話はできとうけん」
多仁さんとは、大阪府知事である多仁博信(たにひろのぶ)である。

細井は多仁とは浅からぬ縁がある。細井は、徳島県立城南高校を卒業した後、大学から東京に出て、大手電機会社に勤めていた。入社以来一環して、原子力関連事業に携わり、退職時には40人の部下を抱える担当課長であった。元々思い込むと一途に突き進む猪型の性格であったが、約20年という期間を原子力発電に携わることで一種の原子力信仰のようなものが彼の中には出来上がっており、また当時は環境立国を目指す日本にとって、火力発電に比べ、二酸化炭素や窒素酸化物の排出が少ない原子力発電を推進する方向でもあり、細井は風を得た鳥のようにあちこちを飛び回っていた。細井の信念には火力発電を全て原子力か他の自然エネルギー発電に切り替えることで、地球温暖化の原因と言われる温室効果ガスを排出しないエネルギー技術分野で世界をリードするというものがあった。この細井が最後に携わったプロジェクトが、細井と多仁を結び付けた。そのプロジェクトが鳴門原発プロジェクトである。

鳴門に原発を造る。問題は単にそれにとどまらなかった。なぜ、細井と多仁が結びついたのか。それは、この原発が関西電力へ属すからであった。
関西電力は近畿2府4県の他にも、福井、三重、岐阜の一部に独占的に電力を供給する電力会社で、日本の電力会社の中でも最も原子力発電の割合が高い。当然ながら細井の所属していた電機会社の一番のお得意さまでもあった。この関西電力と当時の大阪府の間に少し奇妙なプロジェクト案が立てられた。大阪府はこの時期、多仁府知事を中心にした関西州という広域の行政体の設置構想があり、近畿2府6県(大阪、京都、兵庫、滋賀、奈良、和歌山、三重、福井)に四国の徳島を加えた巨大な行政体を作ることで東京を中心とした経済圏に対抗しようとしていた。その動きに関西電力も同調し、大きなエネルギー施策として、福井の原発に加え、淡路島を挟んだ向こう岸にあたる徳島県鳴門市に新たに原発を設置することで巨大な経済圏の電力を賄うプランを提出し主要な知事の賛同を得ていた。関西電力はこれにより、いわゆる関西圏ではないところに2つの巨大なエネルギー源を持つことになる。多仁とすれば自分の選挙民から反対されることなくエネルギー問題を解決するという魔術のような策であった。奇妙なというのは、この議論には肝心な徳島の知事が参加していないというところにあった。
実は多仁は水面下ながら当時の徳島県知事には打診をしていた。が、話にならないと一蹴されている。多仁はあきらめるというようなタイプではなく、この知事には期待せず、自分の構想にあう知事を新たにおいてやろうと考えた。多仁は細井に白羽の矢を立てた。

「細井さん、徳島県知事やったらどうです?」
鳴門原発プロジェクトチームの会合のあと、ふと多仁が口にした。細井はこの時政治には全く関心はなく、ただ、鳴門に原発をおき、関西州のエネルギー源の中心になることで、徳島を発展させようという地元愛に燃えてはいた。
「知事、ですか?」
「細井さんのように地元を愛する人間が知事をやるほうがいいんですよ。しかも、東京にでて、巨大企業につとめている経験があるから物事を大きく見る目もあるじゃないですか。当然、私も含めてプロジェクトチームは応援しますよ。」
「やりましょう。」
とは細井は言わない。あまりに話が唐突すぎるし、多仁には多分に物事を大きく言って人を振り回すようなところがあることをプロジェクトを通して知っていた。返答に困っていると、
「私は本気ですよ。徳島は来年知事選だ。考えといてください。」
と笑いながら去って行った。


「こどもの国」 -日本分邦|爾今 晴 (note.com)
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「こどもの国」 ‐関西エネルギー振興連|爾今 晴 (note.com)

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