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「こどもの国」 #10 ‐関西エネルギー振興連

関西エネルギー振興連

 
大兵和連合は少し歪な形ながら成立した。兵庫県についてはやはり佐古知事は国民党の手前もあり、この連合には参加しなかった。ただ、神戸市と淡路島の淡路市、洲本市、南あわじ市が賛同する形となった。佐古の「賛成はし兼ねる」という言葉は邪魔はしないという意味での協力であり、多仁にとってはありがたかった。
「さすが、狸先生だよ。この後、どちらに転ぼうとも悪いようにはならない」
と多仁は笑った。案外頼れる人かもしれないと佐古の事を思ったりもした。
 
和歌山に関しては念願の紀淡海峡大橋を進める話でもあり、連合自体はスムーズに話が運んだが、一つ懸念は残った。どうしても和歌山県内の原発誘致は難しいという。和歌山は、様々に場所を変えながらも40年に渡り原発建設について推進派と反対派に住民を分裂させてきた歴史を持っていた。それはそれまで平和に暮らしていた小さな町内の人間関係を切れ味の鈍い刃物で少しずつ繊維を断つように割いてゆき、それは治癒することなく今もじゅくじゅくとした傷跡となって残り、今も膿み続けている。和歌山県は原発に対して闘ったように言われるが、その歴史は決してどちらかが勝ったというようなものではなく、自らで自らを傷つけあい、どちらも幸せになれない哀しみを残すだけのものである。特に県南の方では今でも原発は触れてはいけない祟り神のような心持ちを持ち続けている。それは県知事のチカラではどうしようもないものであると説明した。
「なぜ和歌山ばかりに原発を持ち込もうとされるのですか?」
という和歌山県知事の問いに、多仁はきちんとした返答はできなかった。
「どこかがその役割を担わないといけません。」
そう答えたものの、それが答えになっていないことは十分わかっている。
結局、原発の件は不承知という形ではあるが、関西州、環大阪湾経済圏構想には和歌山県として参加するということになった。多仁としてもまずは大兵和連合発足を優先する必要があった。
 
この頃の多仁は忙しい。大兵和連合をまとめる一方で経済界にも環大阪湾経済圏構想について話をしている。その反応は非常によかった。中でも大きくこの構想に賛意を示してきたのが関西電力である。関西電力は管轄内に大きく安定した出力を発生する電源を持つことを、ここ数年来、喉から手が出るほどに欲している。
2001年以降、稼働開始から長い年月を経た発電効率の低い小容量火力発電所の廃止を進めているが、その一方で期待していた高出力の原子力発電の開発計画は次々と中止になってしまっていた。そのひとつが、和歌山県の日高原子力発電所であった。和歌山県知事が話したように政治的にも推進派の候補者をいれ、何億という資金をつぎ込んで住民に対しても陰に陽に様々な懐柔策を施してきたものの原発に対する根強い反対運動には勝てずにこの何年かを過ごしてきた。関西電力にとって原発は利益の源泉である。全国の主要電力会社でも最も原発による発電比率が高い。その比率は50%を超え、原発が稼働すれば主要電力会社の中で最もコストを低く発電することができる。2011年の東日本大震災の後、全ての原発を停止せざるを得なくなり、関西電力の経営は一気に赤字となってしまった。電気料金も値上げせざるを得なくなり、その影響は関西電力エリア全体におよんだほどに、海外からの化石燃料を買い付けて発電する火力発電にくらべて原子力による発電のコストメリットは大きい。原発の再稼働に向けての動きも積極的というよりは経営に大きく関わるだけに必死で相当なお金が様々な形でばらまかれていった。それは、関西電力という関西を支える巨大企業が生きていくための必要経費ともいえた。

当時、その“必要経費”を多く握り、東へ西へと奔走したのが原子力発電部門をまとめる担当部長にまで上り詰めた武谷である。
武谷は所謂切れ者ではない。ただし、与えられた職務には忠実であり、愚直なほどに仕事を、というよりも上からの命令をこなしてきた。その性格は小心であり争いを好まない。できるだけ穏便に日々を過ごしたいためには、仕事上のミスや失敗をしないことが一番であり、そのためにその全てのエネルギーを注げる人だった。出世には本来興味のない人であり、できれば日の当たらない場所で一生誰の目にも止まらず、安全に穏やかに暮らしていきたかった。その武谷が当時の上司にあたる現在の常務取締役である、岡部の目に留まった。岡部は武谷に特別な任務を与えた。原発再稼働のための下工作である。下した命令はごく単純なものだった。
「一日も早く、原発の再稼働ができるようにしなければいけない。1日原発の稼働が伸びれば我が関西電力は数十億の損失がでる。このままでは会社がダメになる。少々手荒い方法も使うが、うまく帳尻を合わせてくれ。ある程度の画はこっちで既に進めてある。結構な金が動くが、いつものように頼む。」
というものだった。そして、いくつかの関係会社を紹介し、それぞれのミッションを大まかに説明した。細かいことは知らなくていいということだった。紹介された会社は、それぞれ曰くつき会社ばかりで、地場の従業員のほとんどいないような小さな会社が多く、何とか企画とか、何々観光というような、およそ大手電力会社と付き合いのないような会社も多い。武谷の役割はそれらの会社へ、上層部の意向に沿うような発注を行うことである。それは、原発建設用地の買収であったり、国会議員や、その他関係者の視察旅行の手配など多岐にわたっていたが、それについての疑問や不満を一切漏らすことなく、発注業務とその進捗報告、そして清算業務までを黙々とこなしてきた。武谷が決済する金額は数十億に上っている。そしてそれは、それら地場の小さな企業へと流れていくのであった。武谷が面白いのはそれらの巨額のお金自体には一切興味を持たないことかもしれず、そのためにこの仕事が与えられているかもしれない。当初、武谷にはそれらの会社から相当な接待の誘いがあったが、全て愛想もなく断った。武谷は正義感からそれを断ったのではなく、その人間関係全てが煩わしく、面倒で仕方がなかった。仕事はできれば19時には終わらせて家に帰りたかったし、膨大な名刺の数にもうんざりしていた。とにかく、発注した仕事をきちんとこなしてくれればそれでよかった。それ以上のことを持ち込んで欲しくなかったというのが本音であり、それ以上でも以下でもない。
「武谷さんは堅物だから。」
そういう風に社内でも社外でも言われていたが、堅物とはどういうものか武谷には理解ができない。それが誉め言葉なのか貶されているのかも興味がない。とにかく、自分に関わってくるものを極力そぎ落としていく、それが行動原理と言えた。
武谷は京都大学を卒業して関西電力へ入社するという所謂エリートコースを歩んできた。ただ、それは武谷自身が望んだものではない。全ては親から勉強するように言われ、元々優秀な脳を持っていたため、学校での成績が上がると担任から進められるがままに京大を受験し難なく受かってしまった。関西電力もたまたまゼミで隣の席の人間が受けるというので受けてみたら受かったというだけの理由でしかなかった。小学校から友達と呼べる人間はおらず、常に嫉妬の中で生きてきた。たまに同じように勉強ができる子がいて、初めのうちは同じ匂いのようなものを感じたのか「一緒に勉強をがんばろうね」と声をかけられ、その子の家で勉強を一緒にやったりもしたし、それは武谷にとっても心地のよい時間だったのだが、徐々に成績でその子を圧倒しはじめると、次第に疎遠になっていった。武谷は子供心に自分が成績で勝ってしまったせいだと思い、一度わざとテストで間違いを書き成績が一気に15位に落ちたことがある。これで仲直りができると思っって、その子の顔を見た時に、彼女は武谷を睨みつけながら泣いていた。それ以降一切口をきいていない。武谷には理由がわからなかったが、そういうものなのだろうと、深く考えることはやめてしまった。運動ができる方ではなかったが、それは親から運動をがんばるようには言われなかったせいであり、そこそこの体格を持っていたので、いじめられるという経験ももっていない。ただ黙々と一日を過ごして、周りはあまり触れることをしなくなっていったが、問題を起こすこともなく、勉強はでき、学校行事にもきちんと参加していたので担任からの評価はすごぶるよかった。ただ、一度担任から学級委員に推薦された時には気が狂ってしまったかと思うほどに拒否反応を示した。

そんな風であったため、仕事を始めてからも当初は苦労をした。といっても仕事内容ではなく、人間関係を作ろうとする周りの圧力に対してである。同期はやたらと飲み会に連れて行こうとするし、上司には食事に誘われ、断る度にこっぴどく怒られた。その怒られる時間の方が無駄だと判断して、上司の誘いには応じるようにはしたが、常に当たり障りのない返事しかしないため次第に呼ばれることはなくなった。それでも仕事はきちんとこなすし、挨拶もちゃんとした。仕事先との連絡も卒なくこなすため、会社でも評価は悪くはなかった。ただ本人が望まなかったこともあり、出世は遅かったが今の上司にあたる岡部の下に配属されてからは岡部の右腕のような立場になり、岡部が出世するごとに武谷を連れていき、それに伴って同期の誰よりも出世してしまった。岡部にとっては面倒事や汚れ仕事は全て武谷に振れば卒なくこなしてくれるため非常に使い勝手がよかったし、それに対するフォローも全く不要であった。要は19時には仕事を終わらせてやればそれでよかったのだ。
東日本大震災のあと、原子力発電部門というやっかいな仕事を誰に任せるかということが人事の課題になった時、岡部は真っ先に手を挙げた。もちろん、右腕というべき武谷も引き連れて原子力発電部門の担当となった岡部は様々な人脈を駆使して原発再稼働への道筋の画を書き、その画に従って武谷はよく働いた。その成功をもって岡部は取締役となり、原子力発電部門は武谷に引き継いだ。

この時期、武谷達の工作もあり福井の関西電力が持つ原発については全国に先駆けて稼働再開が実現している。ただ、それらの原発は稼働から40年以上が経過しようとしており原子炉の寿命も近い。再稼働はどうにかなったものの、本来であれば新型の原発に建て替える必要性に迫られている。当然ながら太陽光や風力など再生可能エネルギーにも力をいれ、電力の買い入れなどの手を打ってはいるが、安定的で、比較的安価に電力供給をできる原子力か比較的容易に出力コントロールができる火力や水力をベースにしないことには管轄内の大きな電力需要に対応できなくなる可能性が高くなってきている。どうしても自然に頼る再生可能エネルギーは必要な時に必要な分を供給するということが難しい。作って貯めておくということが難しい電力というものの特性のため、こればかりはどうしようもない。当然ながら国へも各都道府県へも電源開発の必要性はさんざん申し入れているのだが、国民の原子力に対するあまりにも高すぎる反発に政治家達は沈黙した。誰かが貧乏くじを引いてくれるのをじっと待っているのだ。そこへ、新しい原発を作るという知事が現れた。関西電力が飛びつくのも当然ではあったのだ。関西電力が音頭をとり、関西エネルギー振興連という団体が急遽結成された。関西電力は関西財界を構成する主要企業の一つであり、社長・会長はたびたび関西経済連合会会長に就任している。この時期の関西経済連合会会長も関西電力の社長が務めていたが、関西エネルギー振興連の会長も兼任することとなった。多仁は関西経済界の支援をも取り付けたこととなる。

早速第1回の会合が開かれ、多仁はここでも詳しく環大阪湾経済圏構想を説明した。
課題として残されたのはやはり、新原発をどこに建設するかという問題であったが、この日はほとんどがそれぞれメンバーの紹介と挨拶で終わってしまった。そこには関西を基盤とする錚々たる企業の面々が顔を揃えていたが、関西電力の代表として社長と共に出席したのが岡部と武谷だった。そしてこの時期、細井の会社は関西電力と「革新軽水炉」と呼ばれる新型原子炉を共同開発することが決定しており、当然ながら細井もこの会合には担当取締役と共に出席している。多仁と細井が出会ったのはこの会合からである。



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