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「こどもの国」 #3 -細井守

細井守

 
少し細井という男について考えてみる。
細井は徳島県に石井町という、徳島の中心からは少し外れた田舎町に生まれ中学までをそこで過ごした。そして高校から徳島市内の城南高校に進むのだが、この頃から中央への志向が強く早くから進学は早稲田大学と決めて譲らなかった。城南高校は旧制中学時代には徳島中学といい徳島では一番の歴史を誇る高校であったが、昭和47年に徳島市内の5校とともに総合選抜制を実施するにあたり、その独自性が失われつつあった。総合選抜制とは、各学校を受験するのではなく、総合選抜校全体として受験をし、その合格者から希望をとり各学校へ振り分けるという制度で優秀な学生を均等に各学校へ振り分ける役目を果たしたと同時に、それぞれの個性をなくしていく結果も残した。各学校には応用クラスと呼ばれる進学クラスがあり、学年ごとに成績優秀者だけが選抜されたクラス構成になっていた。
細井は1年、2年とこの応用クラスに下位ながら滑り込んだが、3年次には外れてしまった。進路相談では担任からもっと身の丈にあった大学を受験するように勧められもしたが、頑なに早稲田大学にこだわり、結果、浪人した。浪人後、ただちに上京し、早稲田大学にほど近い高田馬場に下宿を借り、早稲田大学だけを目指し勉強に打ち込んだ。
このころの細井は単純に日本の文化の中心は東京であるとし、その文化の中心で自らも文化を生み出す側になりたいという野心だけに燃えていた。そのためには数々の文化人を生み出し、それらの生み出されたものが、どこか草の匂いがするような細井にとって身近に感じられる早稲田大学に自らの身を置くこと以外には考えがつかなかった。1年の浪人後に無事早稲田大学に入学した細井は、思う存分東京の文化を味わった。それらは自分が生まれ育った徳島では味わうことのできないものばかりで自分が信じて歩んできた道が間違っていないことを痛感したが、一方で自分は文化を作る側の人間にはなれないという、劣等感とはまた別の、なんというか、上がっている土俵の差のようなものも感じていた。それはなぜか悔しいという思いよりは寧ろ、そのレベルの差を知ることができたという満足感と、東京に生まれ育った人間は幼いころからこのようなあふれるような文化の浸って育ってきている、俺にはできなかったが、文化を生み出すには相当量の文化に触れ、それに飽きるような環境に人間を置く必要があるという考えを生んだ。そしてそれは、郷土愛と結びつき、徳島をそういう場所にしたいという漠然とした理想の芽を生んでいた。
細井は文化を生み出すことをあきらめた以上、すっぱりと大手電機会社への就職を決めた。自分は生み出す側ではなく、それを消費し正しく評価していくことで、その発展に尽くす、そのためには金がいる。細井の思考は明快だった。この後は前に述べたとおり原子力畑で仕事に邁進していく。そして、鳴門原発というプランが多仁大阪府知事から持ち上げられるにあたり、長年の思いが爆発するようにこれこそが天の使命のように前のめりでプロジェクトのリーダーとして実現に向けて奮迅していくのである。

多仁府知事がぶちあげた関西州構想についてもう少し触れてみる。関西州が、近畿2府6県(大阪、京都、兵庫、滋賀、和歌山、三重、福井)に四国の徳島を加えた巨大な行政体だということは既に触れた。ただし、当初徳島はその構想から外れていた。この枠組みをみるときれいに関西電力の電力共有エリアに一致することがわかる。多仁の構想にとってエネルギー供給はその経済政策を考えるうえで最も重要な課題であり、エネルギーを握ることがこの大きな経済圏を握るもっとも重要なファクターだと認識していた。経済や文化を動かしていくエネルギーがほぼ電力へとシフトしていくなかで、現在の発電設備では近い将来、不足がでるであろうことは容易に想像ができた。東京を中心とする経済文化圏に対抗するうえでも強力なエネルギー源の確保は最重要である。多仁は福井県に置かれている原発を凌ぐ超大型の原子力発電施設を関西州の中に新たに設置する方策を探していたが、大阪府はもちろんのこと、関西州プロジェクトに入っている各県ともに自県に原発を設置するにあたっては二の足を踏んでいた。一方で徳島県が、関西州への参加を希望しているということが多仁の耳に入ってきた。徳島にとっては、明石大橋、鳴門大橋という大きな架け橋を作って関西経済圏と結ばれた以上、今後もこの大きな経済圏に属して一緒に発展していきたいという腹積もりがある。

余談ながら、徳島県がその命運をかけていたこの二つの大橋は徳島にとって、関西圏への交通の便をよくしたという結果以上には想像した果実をもたらせなかった。それどころか、なまじ交通の便がよくなったがために、徳島県民が関西圏へでて様々な消費活動を行うことになり県内の経済を冷え込ませる要因になったりもした。小さな池を大きな湖につなぐ水路を作ったところ池は大きくならずに水は大きな方に吸い込まれていったというところだが、これが自然の摂理なのだろう。

この徳島の欲を知った多仁と関西電力は一計を案じ、徳島の関西との玄関口にあたる鳴門へ大規模な原発を建設し、引き換えに徳島を関西州へ入れるという構想をたてた。この構想は既に当時の知事からは話にならない傲慢な案だとして一蹴されている。しかし、細井はこの構想に徳島を発展させる希望を抱いていた。エネルギーが経済の命だとすれば、エネルギー源を握ることは関西経済の命を握ることに等しい。さらには当然ながら徳島にはこの大きな発電装置を置くための借地料に加え、安全に管理運営するための莫大なランニングコストが発生し、大きな雇用を徳島に生むことになるだろう。大きな産業がない徳島にとって経済を大きく改善させるにはこれ以外にないのではないかとさえ思える。「文化を生むには金がいる。逆に言えば金が文化を生む唯一の装置である。」というのは細井が東京で過ごして以来、信念のようになっている。
「細井さんが徳島県知事をやればいい。」
と多仁が持ちかけたのはそのような背景がある。細井はそれまでまったく自身の中に見出していなかった政治というものへの意識をその一言によって、その精神の片隅に隠れているものを発見してしまった自分に驚いていた。
「私にはなんの実績も地盤もありませんが。」
としり込みをする細井に対して
「細井さんが、県知事に立候補するなら、私が自ら応援に行きましょう。」
という、多仁の言葉にはかなりの迫力があった。当時、多仁は関西州構想を公にしてマスコミからはその発言ひとつひとつが注目されていたし、彼をもって新時代のリーダーと仰ぐひとも数多くいた。実際に彼が応援についた候補は各地で当選を果たしていた。
「もちろん、細井さんが当選した暁には鳴門原発はプロジェクトメンバーでもある御社に発注することになるでしょう。細井さんの会社へも大きな恩返しができるんじゃないですか?」
細井は考えさせてほしい、とだけ返事した。その後、自分が所属する会社へ戻ると上司にあたる取締役本部長へこれまでの経緯を報告した。
 「おもしろいじゃないか。わが社も応援するよ。」
意外にも、会社からの後押しもあり、細井は決意を固めた。


「こどもの国」 -日本分邦|爾今 晴 (note.com)
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