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未知の国・日本への興味(英語翻訳者 バーナード・ファーレルさん:その2)

欧州随一のエレクトロニクス企業「フィリップス」に就職

高校を卒業して、オランダの会社「フィリップス」に就職しました。

アイルランドに工場があって、そこで事務の仕事をしました。

工場で使う部品の管理。新しいテレビとラジオを作るために必要な部品をドイツやオランダから注文して取り寄せる仕事です。

そのころはインターネットがなかったから全部手書きの注文書を書いて送って。手紙じゃなくて、えーと……何だったか……テレックス!

テレックスは今の人は知らないと思いますね。

(注:テレックス=1930年代に確立し、2000年代前半ごろまで商業通信手段として用いられた通信方式)

「テレックス」「オイルショック」etc…
ファーレルさんが社会人として働き始めた1970年代の世相を
懐かしそうに話してくださった。

F: フィリップスと言えば、エレクトロニクスの分野で一流企業ですよね。

ヨーロッパでは、たぶん1番の企業でしたね。だけど入社して3年後にオイルショックが起きて、人件費も削られるようになったので、ラジオを製造していた別会社に製造ラインで入って品質管理の仕事をしました。

その後、オイルショックが落ち着いてフィリップスにまた戻ってくるように言われた。経験があって会社のこともよくわかっていたからでしょうね。

日本のことが気になり始めたころ

日本のことを意識したのは、中学生のとき、地理の教科書で見たのが最初です。

もうひとつは中学生のころに見た、川崎とか日本の公害について報じているニュース映像でした。1960年代。当時は日本だけではなく、世界的にも公害が非常に問題になっていた時代でした。

あとはアメリカ映画の、特に戦争映画から。アメリカの戦争映画は、ほとんどアメリカと日本の戦いを描いていて、それを観て少しずつ日本に興味を持ち始めました。

他には、確か中学3年生の時、初めて日本製のトランジスタ・ラジオを見たときにとても感心したのを覚えています。パナソニックになる前の「ナショナル」ブランドでした。

高校生になると、日本の車がアイランドに輸入されるようになってきましたね。トヨタ、ホンダとか。

柔道に打ち込んだ青春時代

あとはやはり中高生だったときに、アイルランドにあった柔道クラブに通ったこと。

戦争の映画でもアメリカと日本の戦いなんですけど、柔道をするシーンも出てきて「自分もやってみたい」と興味がわいて、自分で探しました。

アイルランドの柔道クラブに入って8年ぐらい続けました。

F:そこには日本人の先生がいたのですか?

いえ、日本人はいなくて地元の有志の人たちがやっていました。
自分たちで柔道リーグも作りました。アイルランド独自の柔道リーグです。ダブリンで定期的に試合を開催したりして、楽しかったですね。

でも、アイルランドで黒帯を取るのはなかなか難しかったです。向こうでは大人でも1級から6級までの「級」から始めるようになっています。帯の色でいうと、白に始まって、黄色、オレンジ、紫、茶色、そして黒。黒帯になるのは早くても3、4年かかります。

私もアイルランドにいたころは、茶色までしか取れませんでした。でも日本に来て1回目の試験で黒帯が取れたんです。

日本のほうが楽でしたよ。日本では黒帯はそんなに難しくない。アイルランドのほうが厳しかったです。

日本では、中学生より上ならいきなり黒帯ですからね。向こうでは「級」から始めてだいぶ期間を開けないとだめ。
他にも「公式の試合に出場して何勝する」とか、決められた条件をクリアしないと黒帯は認められないんです。

尽きない日本への興味。日本語を学び始めた20代

その後も日本の美術とか、20歳ころには、そのころはもう働いていたんですが、仏教にも興味を持つようになって。

ダブリンの、アイルランドと日本の友好協会にも参加していました。

日本大使館が主催していて、定期的にアイルランド在住の日本人と地元の人たちが交流して、何かお互いを理解しようというイベントもあった。

そのころに、日本大使館が日本語教室を1年間のコースとして主催していたんです。本当に基礎的な内容なんですが、それに参加して日本語を学びました。

日本の美のスタイルにも興味がありました。ダブリン大学の夜間コースに「東洋美術コース」があって、日本だけでなく東洋美術一般について学びました。それがだいたい22、23歳くらいでしょうか。

それらのことを経て、初めて日本に来たのが1977年。
アイルランドでは、ただ本で読むか、いろいろな話しか聞いていなかったので、「日本に行ってみたい。実際に行かないとわからないことがある」と思ったからです。

「日本へ行きたい!」~ペンフレンドをたずねて

F:留学とか観光ツアーとか、そういうプログラムを利用したのですか。

日本人と文通していたことがひとつのきっかけです。日本でペンフレンド(注:文通相手のこと)に会うことが目的でもありました。

「日本の友達とのコミュニケーション手段は手紙でした」と話すファーレルさん。
インターネットで一瞬でやり取りできる今とは隔世の感がある。

今なら「メル友」。あとは「SNS」ですよね。昔はちゃんと手紙を書いて交換し合っていました。

F:文通相手とはどういう経緯で知り合ったのですか?

日本への興味から、日本人の生き方、考え方にも興味があったので、日本人ときちんと交流したかったのです。

日本大使館にどうやったら日本人と文通ができるか聞いたんです。それで大使館が「こういうところだったら」と住所を教えてくれて。

他にも、昔、日本に「イングリッシュエイジ」という雑誌がありました。英語に興味のある大学生がよく読んでいたんです。その雑誌には、全世界の文通を希望する人からの投稿を載せたページがありました。

そこに投稿して手紙をくれた人のなかで、何年間も文通が続いた相手に会いに行こうとなった。それが1977年。

ペンフレンドが兵庫県に住んでいたから、最初は大阪に来ました。大阪はちょっと大きすぎてよくわからなかったけれど、神戸はちょうどいい感じがして、よい所だなと思いました。

アイルランドからの直行便が無かったから当時いちばん安かった旧ソ連のモスクワ経由。

今のアエロフロート(注:ソビエト連邦時代から続くロシアの航空会社)ですね。

二日ぐらいかかりました。アイランドからまずロンドンのヒースロー空港へ行って、そこからモスクワ、そして東京。さらに東京から大阪。

そうやって日本へ来て「日本はおもしろいな」と思って。もうちょっといたいと思いながらもアイルランドに戻りました。



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