多言語センターFACIL

地域住民である外国人が必要とする情報の翻訳、生活現場で必要な通訳者の派遣など、地域の多…

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地域住民である外国人が必要とする情報の翻訳、生活現場で必要な通訳者の派遣など、地域の多言語環境を促進し、また外国人を含む地域の住民や行政機関、医療機関、企業などからの多言語・多文化なニーズに様々な形でお応えしているNPOです。

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外国にルーツを持つ住民のキャリアパス

「外国にルーツを持つ住民のキャリアパス」について 日本にやってきた外国人には、一人ひとりに歴史と物語があります。 その背景や生い立ち、喜びと悲しみ。 私たち一人ひとりがそうであるように……。 このインタビューの対象は、FACILの草創期から今に至るまで関わってくださっている翻訳者・通訳者。 単身、または家族を伴って日本にやってきた人たちは、いま、私たちのすぐ隣で地域住民として生活している人たちです。 このコンテンツではその生活基盤、キャリアを勝ち取るまでの経緯や秘められ

    • フルタイムの教師として(タガログ語翻訳・通訳者 林田マリトニさん:その3)

      外国ルーツの子どもたちと翻訳・通訳の仕事をはじめましたが、フルタイムではありませんでした。 そんななか、夫がクモ膜下出血で倒れ、仕事ができなくなりました。 14年前のことです。 だから私がフルタイムの仕事を探すことになりました。 そして、国際中等教育学校での仕事をFACILの吉富さん(FACIL理事長)に紹介してもらい、無事採用されて今に至っています。 週末が空いていることが多いです。 平日の夜はできるだけ翻訳をしたくありませんし、できても1~2時間ほどなので、週末に集中

      • 困ったとき助け合うフィリピン人(タガログ語翻訳・通訳者 林田マリトニさん:その4)

        フィリピン人同士なら「助けて!」を言いやすいフィリピン人はお互いに協力し合うことが多いです。フィリピン人だけではなく、他の外国人もそうかもしれません。 例えばベトナム人もそうですが、同じ国の出身者が固まって、仲間を助けながら一緒に行動しますよね。 フィリピン人も同じです。 助け合って生活しています。 仕事をしに来ている人が多いので、プライドが邪魔をすることもなく、まわりに助けを求めることができるんです。 逆に「それくらいひとりでできるでしょう」と言いたくなるときもありま

        • 「言葉」で世界を切り拓く(タガログ語 翻訳・通訳者 林田マリトニさん:その5)

          子育て、不動産手続き、夫の障害認定の申請を すべて自分で日本語習得の話に戻りますが、裁判の仕事以外で日本語が上達したきっかけがもうひとつありました。 夫が忙しく、私が日本語がわからないのに家のことを全部やらなければいけなかったことです。 最初の1回目以外はビザの更新も全部ひとりでやったんです。 子どもの学校のことも、幼稚園などの手続きもすべて自分でしました。 夫は時間がなく、いつも不在だったからです。 子どもたちが小学生のときも、運動会には1度しか来なかったんです。

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        外国にルーツを持つ住民のキャリアパス

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        • ポルトガル語翻訳・通訳者 松原マリナさん インタビュー
          3本
        • 英語翻訳者 バーナード・ファーレルさん インタビュー
          7本
        • タガログ語翻訳・通訳者 林田マリトニさん インタビュー
          5本
        • 中国語翻訳・通訳者 谢 沛睿さん インタビュー
          2本
        • ベトナム語翻訳・通訳者ハー・ティ・タン・ガさん インタビュー
          7本

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          ベトナム戦争後、インドシナ難民として日本に亡命(ベトナム語 翻訳・通訳者ハー・ティ・タン・ガさん:その1)

          FACIL(以下「F」):写真を持ってきてくださったんですか。 うちの家族の写真。こちら(最後列左)が父で隣が父の弟。 うちの家族はこの半分で、こっちの半分は父の弟の家族。 たぶん10歳ぐらいのころ。 9人家族だったけれど、兄がここにはいなくて8人しか写っていない。 この後にまた3~4人ぐらい生まれたから、どちらの家族も10人以上ね。 ベトナム戦争後、ボートピープルとして日本へ亡命いま、きょうだいはアメリカ、ベトナム、日本に3人ずつ住んでいます。 うちの家族は3回にわけ

          ベトナム戦争後、インドシナ難民として日本に亡命(ベトナム語 翻訳・通訳者ハー・ティ・タン・ガさん:その1)

          砲弾の飛び交う中で育った子ども時代(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その2)

          激しい戦場だった故郷「ベンチェ」F:19歳で船に乗って出てくるまで、どこに住んでいたのですか。 ベトナム南部、メコン河口地域のべンチェ省で生まれ育ちました。 ホーチミンの南西で、かなり田舎です。 ベンチェ省は全体としてメコンデルタの出口にあたり、地形が複雑です。 今は橋ができて出入りが簡単だけれど、昔は船がないとベンチェを出られなかった。 ベトナム戦争のときは、不便だけれど隠れるのにはもってこいということで北ベトナム軍が潜伏して、激しい戦闘がありました。 ベトナム国内でも

          砲弾の飛び交う中で育った子ども時代(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その2)

          北ベトナム統治からの逃避(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その3)

          ベトナム戦争終結。そして北ベトナムの統治が始まった戦争が終わって、ベトナムが統一された後、高校受験がありました。 父はもともと北部出身で、南北分断の前に南へ逃げてきた人です。 北部から逃げてきて、カトリック教徒で、商売をしている家族という3つの要素が履歴書にあると、公立の学校はどこも受験できません。 私立学校にしか行けないけれどお金がかかるので、子どもが多い家族としては大変で、しばらくは通ったものの全員、学校をやめてしまいました。 上のふたりはすぐ結婚し、私と兄は家業を手

          北ベトナム統治からの逃避(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その3)

          ゴム屋の仕事と日本語習得(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その4)

          最初に住んだのは香川県の丸亀市F:来日後、姫路に来たあとは、どうされたのですか。 姫路には半年、子どもが生まれるまで置いてもらいました。 それから主人の仕事で丸亀市(香川県)に行きました。 丸亀の仕事は半年だけで、終わったころに2番目の子が生まれました。 そのときの夫の仕事は、海上保安庁の船の浮き輪の掃除で、とても過酷でした。 あの浮き輪はすごく大きいよ。 そこに付いた貝や錆を落とし、ペンキを塗りなおして家に帰ってきたら、顔も鼻も真っ黒。 給料は月13万円しかなかった。

          ゴム屋の仕事と日本語習得(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その4)

          翻訳・通訳キャリアの源泉:炊き出しボランティア(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その5)

          炊き出しボランティアが人生の契機に阪神・淡路大震災があって、張り工の仕事はかなり少なくなった。 それで、たかとり (*註)のボランティアをするようになりました。 震災で大変だったときに周りの人にいろいろお世話になったので、私に何ができるかと考え、炊き出しでベトナム料理を作ることでみんなに恩返ししようと。そこからいろんな関連の仕事につながっていきました。 当時、たかとりには1日200人ぐらいボランティアさんが来ていたので、朝昼晩と食事づくりがすごく大変だった。 だから、鷹

          翻訳・通訳キャリアの源泉:炊き出しボランティア(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その5)

          翻訳・通訳スキルを在日ベトナム人のサポートに活かす(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その6)

          通訳や相談対応から翻訳の仕事も通訳や相談対応をしているうちに、翻訳の依頼もちょこちょこ来るようになりました。 たぶん、KFCのニューズレターの日本版ができたらそのベトナム版をつくるという翻訳が始まりだったと思います。 そこから、だんだん翻訳ができるようになった。 例えば出生届などの証明書や、入国管理局に提出する陳述書。 ベトナム人の女性が、日本人の夫に細かいことを訴えたいけれど伝わらなくて辛いから、ベトナム語の手紙を書くので日本語に訳してほしいとか。 でも今も、医療やビ

          翻訳・通訳スキルを在日ベトナム人のサポートに活かす(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その6)

          コミュニティ翻訳・通訳と私の「在日ベトナム語」(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その7)

          たたき上げで翻訳・通訳をしてきた今だから、学校で学んでみたいF:コミュニティ通訳という言葉がありますが、ガさんの通訳はまさにそれだと思います。 通訳学校などでは、通訳者は双方の発言内容を「足さない・引かない」ことを訓練します。 そうすると、患者自身が聞けないときに、ガさんが「採血の後で、また来ますか?」と病院の人に勝手に尋ねるのはいけないことになってしまうのですが、患者さんが病気や治療について知り、病気を治す目的を達成するには、その手助けが必要なわけですよね。 そういうコ

          コミュニティ翻訳・通訳と私の「在日ベトナム語」(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その7)

          困難に直面したときこそ知恵と工夫を(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その8)

          自分のことは他人任せにできない性格だからF:まだ日本語や日本の社会に慣れていないときに、どうされていましたか。 日本語ができなくても、誰かに何か頼んで代わりにやってもらうことはしませんでしたね。 たとえ今、完璧なベトナム語通訳者に、私が言いたいことを伝えて訳してもらったとしても、私は絶対、満足しない。 通訳者さんが95%を正しく訳してくれても、あとの5%は「私はそういうつもりではない」と思ってしまいます。 たぶん昔からそうで、片言でも自分でしゃべるようにしていました。

          困難に直面したときこそ知恵と工夫を(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その8)

          やってみなければわからない!翻訳・通訳の世界へ飛び込む(タガログ語翻訳・通訳者 林田マリトニさん:その2)

          翻訳・通訳者としてのスタートは警察の通訳翻訳・通訳の業界に入ったのは、神戸に引っ越して、阪神・淡路大震災の後でした。 警察でフィリピン人の通訳者が足りなかったことがきっかけでした。 (フィリピン)領事館から仕事の紹介が来たんです。 そのときは「私にできるわけがない」と思いました。 領事館がなぜ私を紹介したのかわかりませんが、私の日本語の評判が高かったようです。わたしもびっくりしました。 日本語を覚えようとする人が少なかったのではないでしょうか。 兵庫県警には通訳センターが

          やってみなければわからない!翻訳・通訳の世界へ飛び込む(タガログ語翻訳・通訳者 林田マリトニさん:その2)

          生活の中で少しずつ覚えた日本語(タガログ語翻訳・通訳者 林田マリトニさん:その1)

          英語の表記がほとんどなかった40年前の日本F:どうやって日本語を勉強したのですか? 私の場合は、日本語を勉強したくてしたわけではありません。 (来日したのは)40年ほど前ですから、英語を話せる日本人はほとんどいませんでした 。 夫が仕事でフィリピンに来ていて、そのときに知り合ったんです。夫は英語が流暢に話せました。 夫は「ちょっと日本語を勉強したほうがいいよ」といつも私に言っていましたが、私は日本語がわからなくても大丈夫だと思っていました。 ところが、日本に来たらびっ

          生活の中で少しずつ覚えた日本語(タガログ語翻訳・通訳者 林田マリトニさん:その1)

          国や文化が違っても一緒に生きていくために(英語翻訳者 バーナード・ファーレルさん:その7)

          外国人は普通に日本の社会にいられたら、それでいいんだよ。 生活上では、別に日本人、外国人と区別する必要はない。そんなことしないで、国籍や文化は違っていても、いっしょに暮らさないと。 お互いにある程度譲りあって、まあまあまあ……とやっていかないと、社会がおかしくなるよ。 「なんだ、これは!」といらいらしても、ストレスが溜まるだけ。 「ちょっと話しましょうか」という態度でないと。 日本語も、日本に住む外国人も珍しくない時代私が日本に来た時はまだ外国人が珍しくて、子どもが「

          国や文化が違っても一緒に生きていくために(英語翻訳者 バーナード・ファーレルさん:その7)

          英語を母語としない人にもわかる翻訳を目指して(英語翻訳者 バーナード・ファーレルさん:その6)

          わかりやすい日本語原稿が、伝わる翻訳のカギに行政には住民に対する情報は、住民がわかる言葉で書いてほしい。 なぜかわからないけれど、日本では新しい制度を作る国家公務員だとか、行政の賢い人たちは難しい言葉を使って、文章がややこしい。 本人たちはすべてわかっているからいいけれど、一般の住民からすると何が書いてあるかわからない。 だから、元になる文章は難しくても構わないとしても、住民に届くものは住民が読んでわかるように書いてほしい。 制度を何回も改正すると、ますますわからなくな

          英語を母語としない人にもわかる翻訳を目指して(英語翻訳者 バーナード・ファーレルさん:その6)