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ベトナム戦争後、インドシナ難民として日本に亡命(ベトナム語 翻訳・通訳者ハー・ティ・タン・ガさん:その1)

ハー・ティ・タン・ガさん 
プロフィール:
1962年ベトナム南部 べンチェ省生まれ。
1981年に難民として日本へ。
神戸に転居後、阪神・淡路大震災で被災。
鷹取救援基地で行われていた炊き出しボランティアに参加し、
ベトナム語翻訳・通訳者としても活動を始める。
現在は神戸定住外国人支援センターで介護の仕事にも従事している。

FACIL(以下「F」):写真を持ってきてくださったんですか。

うちの家族の写真。こちら(最後列左)が父で隣が父の弟。
うちの家族はこの半分で、こっちの半分は父の弟の家族。

たぶん10歳ぐらいのころ。
9人家族だったけれど、兄がここにはいなくて8人しか写っていない。
この後にまた3~4人ぐらい生まれたから、どちらの家族も10人以上ね。

日本に持ってきた家族写真。大家族で育った。

ベトナム戦争後、ボートピープルとして日本へ亡命

いま、きょうだいはアメリカ、ベトナム、日本に3人ずつ住んでいます。
うちの家族は3回にわけて時期をずらして亡命していて、日本に来たのは私を入れて、2回目と3回目に亡命した家族です。

兄は1回目、1980年に船に乗って亡命。
1981年(2回目)に私と、今は群馬県にいるもう1人の兄。
3回目は3人のきょうだいが、マレーシアにたどりつきました。
そのうちの妹1人だけはアメリカに行って、あとの2人は日本に来て生活していました。
1人は20年ほど前にアメリカで結婚してそのまま住んでいて、弟のほうは神戸にいます。

F:マレーシアで、どこに行きたいのか希望を出すのですか?

妹は、兄が先にいるからというのでアメリカ行きを希望して、あとのふたりは私がいるから日本に行きたいとなって別れました。

F:ガさんは船に乗ってから、どんな経緯で日本に来たのですか?

1980年に亡命した兄からタイに無事に着いたと知らせを聞きました。
それで父が2回目を計画して、私と兄を送り出した。
兄は足が悪くて、松葉杖を使っていました。

ちょうどそのころ、スイスが障害のあるベトナム人亡命者を受け入れているという話があったらしく、兄を外国で治療してもらうつもりでした。
日本に着いてスイスに連絡したら、その治療プログラムが終わったことがわかり、2人ともアメリカに行こうとしたけれど、できなかった。

当時の日本の難民受け入れ事情と、ベトナムで旧日本軍が起こした事件の記憶

ベトナム戦争が終わった1975年からずっと、ボートピープルの亡命がたくさんあったのに日本は全然受け入れないので、国連から「先進国なら受け入れなさい」と圧力をかけられて、毎年(ベトナムのほかラオス、カンボジアを含む「インドシナ難民」)500人を受け入れることになっていたんです。

私が日本に来た1981年はその3年目で、1500人を受け入れていないといけないのに、日本に定住を希望する人がほとんどいなかった。

ベトナムも太平洋戦争、第二次世界大戦では日本の植民地になった時期があって、日本に対して、あまりいい評判がなかったから。他の国もそうだったかもしれないけれど、その時の日本軍は残酷だったらしいですね。

日本はベトナムを短い間しか植民地にしなかったけれど(1940年6月に北部進駐、1941年7月に南部進駐によりフランスと日本の二重支配状態となり、1945年3月から日本の単独支配)、北部で大事件を起こしました。

米をたくさん作っていたベトナム北部に進駐していた日本軍が、米ができる直前になって、稲を全部切れと命令したそうです。米を取るのではなく、集めた米を入れる袋の素材になる植物(ジュートなど)を育てるためです。

その袋に米を入れて積み出し、アジア各地に進駐している日本軍に持っていきました。
たまたま次の年は雨が降らず、米も作れなくて、100万人ぐらい(*註)が飢え死にした。

[*註:犠牲者推計40万人~200万人とされる「1945年ベトナム飢饉」]

運が悪かったのもあるけど、そこにいる人たちは今でも日本軍、日本人のせいだと言っています。

だから正直なところ、私も日本に来たのが全然うれしくなかった。

父にとっても、自分の両親と姉が飢え死にしていたから、日本を許せない。

それに父が、その弟を含め男の子3人で日本のトウモロコシ畑に入ったとき、6歳の弟はトウモロコシを盗んで食べていたのを日本軍に発見されて、死ぬまで殴られたらしい。

父はそれを目の前で見たのが、ずっと脳裏から離れなかったようです。
それで私が「日本に着いたよ」と教えたら、父は「死んでも日本から出なさい」と言いました。

まだ日本を許せていなかったんですね。
当時の日本軍にはそういう残酷さがあって、万引きした人の手を切り落とすとか、厳しかったようです。

まあそんな事情もあって、日本に定住したいベトナム人がいなかったわけだけれど、日本は難民受け入れ枠が1500人分もあるのに誰も希望していないのはよくない、せめて日本に来た人は日本から出さないようにしようという状況になっていたのが、ちょうど私が来た1981年ころでした。

だから、私もアメリカに行きたかったのですが、しかたなく日本にいることになりました。

一緒に亡命した兄は2年ほど、日本に定住しないでずっと待ちました。
アメリカへ行きたいと言って。
でも状況が変わらないから、あきらめて日本に定住した。
あきらめずに5年ほど待っていたら、アメリカに行けた人もいましたから。

日本に定住するとなると、姫路定住促進支援センターへ送り出されて日本語を勉強する。
私の時は3ヵ月だけ勉強して、卒業したら仕事をあっせんしてもらって、どこかへ行く仕組みになっていた(*註)。

[*註:外務省外郭団体である、アジア福祉教育財団難民事業本部が中心となった支援事業。兵庫県姫路市の支援センターは1979~1996年設置。神奈川県にも大和定住促進センターが1980~1998年に設置されていた]

でも3ヵ月では、日本の社会や日本のルールについて覚えられないでしょう。短かったですね。

F:3ヵ月の間に、日本語はどのぐらい勉強できたのでしょう?
ベトナムでどのくらい教育を受けたかによって、クラスを分けていました。
高校まで行っていたら、けっこう高いレベルのクラス。
おじいちゃんおばあちゃんで、学校に行っていない世代だと、また違うクラス。だから教えるレベルは、クラスによって全然違った。
夫と私は同時期に日本に来たけれど、夫は小学校には2年生までしか行っていないから、そのレベルの人で集まって勉強させられていた。
だから、日本語の教え方はやはりプロというか、とてもうまかったと思います。
日本語だけで日本語を説明しているのに、なぜかだんだんわかるようになってくる。


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