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情報の無い1970年代に日本へ移住・就職(英語翻訳者 バーナード・ファーレルさん:その3)

日本に住みたい!でも仕事はどうする?

最初の日本での滞在は2~3週間くらい。そう長くはなかった。

アイルランドに戻って、日本にまた行くなら、もうちょっと長い期間滞在したいと思いました。でもそれなら生活のために仕事をする必要がある。

私の場合は英語が話せたから、英語を教える仕事はどうかと思いました。でもどうやってそういう仕事に就けるかはわからなかったのです。

そのためにアイルランドで第二言語として英語を教える資格を取りました。

手を差し伸べてくれたペンフレンド

それでペンフレンド(注:文通相手のこと)が神戸や大阪の英会話学校にいろいろあたってくれて、三宮にあった学校を見つけてくれました。

当時はインターネットも何もなかったので、アイルランドにいた私には英会話学校がどこにあるかもわからないし、何もできない。
でもペンフレンドがいて探してもらえたのが幸いでした。

そこで翌年に日本に来て仕事が始まりました。

仕事が決まってからその学校の代表の方に会いましたが、それまでは手紙のやりとりさえしていません。
ペンフレンドの印象がよかったのでしょうね、この人だったら信頼できるということで。

私はお金も何もないけど、人に恵まれた。柔道を通じて出会った人たちなど、アイルランドでも日本でも周りの人に恵まれて、それが私の人生の宝。

来日間もないころ

F:英会話学校に就職して再来日したのは、いつですか。

1978年2月に来て、仕事は3月か4月から始めたかな。もう40年以上まえのことですね。

それからずっと神戸にいます。

三宮の英会話学校の仕事は、結構長かったですね。何年か勤めました。学校が閉校になって、その時は子どもがいたから、家で子どもの面倒を見ながら個人として英語を教えはじめました。


「これは古武道の居合道の写真。居合ではこのような剣を使うわけです。
ほかにも剣術、棒術、柔術などをしていました」
居合4段、柔道3段の腕前

日本語教室の中とは大違い。住んでみて直面した「日本語の壁」

F:初級の日本語はもう勉強していたのですよね。再来日当時、どれぐらい日本語がわかりましたか。

「これは何ですか?」「あれは何ですか?」それぐらいです。
だから、全くできなかった。

皆さんはどうだかわからないけれど、例えば英会話を教室で半年ぐらい習ったら、そこでは「ああ、話ができる」と思うでしょう?

いざ外国に行ってみたら、何が通じる? たぶん相手が何を言っているかわからないでしょう。教室で習って、教室の中でその言葉をそこそこ話せる、聞き取れると思うのは勘違いではないとしても、教室の中では標準語を丁寧にゆっくり話してくれるからなんです。
現実はそうではない。関西弁を教えてくれるところなんてない。まして神戸弁は。

「言葉がわからなかったり間違がったりして、いちいち気にしていたらしんどい。
そんな性格ではなかったから、何となくここまで来た」

いちばんわからなかったのは、子どもたちの話。大人なら、丁寧に話してくれてかろうじてわかったけれど、子どもたちが何を言っているのかさっぱりわからなかった。

それから日本人同士の話も。私と話すときは、割とゆっくり丁寧に話してくれるけれど、日本人同士で話すとまったくわからない。

その時はね。今もあまり変わらないけれど。

F:当時は日本語でいろいろ苦労されたのですか

そうでもないよ。まあ、自分の性格によると思います。性格によって、「まあ、1日終わったからそれでよかった」という人と、そうではなく、いらいらする人もいる。

言葉がわからなかったり間違ったりして、いちいち気にしていたら、つらいし、しんどい。そんな性格ではなかったから、何となくここまで来た。

生活しながら身につけた日本語

やはり日本にこれからずっと、少なくとも何年かは住むとなると、日本語は身につけないといけない。

どうやって勉強したかといえば、生活しながら身についた。

日本語の教科書は、今は種類がいっぱいあって、かなりよくなっているけれど、昔は教科書そのものがあまりなかった。

日本語を勉強する人がほとんどいなくて、大学生や研究者だけだったから。



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