若様のがっこう【第一話】
【あらすじ】
物語の舞台は慶長十八年、江戸の街。
江戸城・西の丸に設けられた学寮は徳川治世下の諸藩の若様達が集められた若様のための学び舎。上杉千徳は米沢藩からここへ出仕している上杉家の若様。同寮の蒲生忠郷は織田信長のひ孫で徳川家康の孫。総次郎は仙台藩主・伊達政宗自慢の次男坊。実家同士の禍根もあり千徳ら鶴寮の三名は日々喧嘩が絶えない。千徳は従兄弟の長員の頼みで南の御殿の生徒の幽霊話の噂を調査する。これに総次郎と忠郷も加わり、鶴寮の三名は死んだ南御殿の生徒・有馬富蘭の死の真相を暴くことに成功する。
これは乱世の英傑を祖父や身内に持つ若様達が葛藤や不満を乗り越え成長する、その兆しの第一歩の物語。
【序章】学寮というところ
むかしむかし――これは永く続いた乱世の後、江戸に幕府が開かれた頃のことである。
各地の大名達は、江戸に幕府を開いた天下人――徳川家康に誓詞を差し出し忠節を誓った。関東や奥州の諸大名にまでこれが行き渡ったのが、慶長十七年のこと。
この忠節の証として、大名達は妻子を江戸屋敷に住まわせる事になった。
のみならず、各地の大名達は跡継ぎとなる男児を江戸城へ差し出すことを義務付けられた。
戦国の世が終わった江戸の時代の黎明期、各地の藩主子息達は江戸城・西の丸内で寝食を共にする生活を送っていたのである。
そこは世間では《学寮》と呼ばれる学び舎となった。
学寮へ出仕した諸大名の御曹司らは生徒である。
論語に始まる漢学の学問は言うに及ばず、剣術や弓術、馬術などの武芸全般、詩文や書画に果ては遊芸に至るまで――ありとあらゆる授業がどの生徒にも平等に毎日のように行われている。
生まれや実家の家格、国力、親の派閥とかそういう諸々にとらわれることなく、誰も彼もが徳川の治世下に於ける将来の良き藩主となれるように。
乱世も鎮まり、江戸に幕府が開かれて十三年あまり。
学寮に出仕する生徒たちの本分は将来のための勉学であり、その日常に命が脅かされるような気配は皆無に等しかった。
ただし、それはもちろん―—
あくまで彼らの実家や親が徳川へ忠実であるということが前提の上で約束されているものであったけれども。
***
「それで? 例の件はどうなったの?」
夜も随分更けた時刻に集められて北の御殿の主はひどく不機嫌だった。いらいらと他の三名の御殿の主の顔を見渡して言う。
夜は早く休まないと体調が優れない――北の御殿の主はいつもそう言う。集められた御殿の主たちは誰もこの学寮で彼のそうした姿を見たことはなかったけれども。
「そう急くなよ。物事には順序がある」
西の御殿の主はいつも通り冷静だった。東の御殿の主をちらりと見て頷き合う。
「あら、そう。それならあたしにだって順序があるわ」
北の御殿の主は強い言葉を続けた。
「夜は食事を終えたら実家からの文を確認して、それを終えてからようやく湯浴み。それから床で休む――そういう順序よ! だのにあんたたちは揃いも揃ってこんな夜にばかり御殿評定を開くんだから、その度にあたしはいつも寝不足。文を見終えないことには寝れないあたしの苦労を少しは考えたことがあるの⁉」
ヒステリックにそう叫んだ彼を宥めるのは南の御殿の主だ。
「相変わらず喧しいなあ……声を抑えた方がいい。気付かれる」
「おだまり、忠長。さも当然のような顔でここにいるけれど、あんた風情がこのあたしに意見なんて出来ると思わないことね。身の程は弁えなさいよ」
とにかく、と言葉を続けて北の御殿の主は扇を開いた。風を送りながら強い口調で言う。
「さっさとこのくだらない評定を終わらせて頂戴。夜は短いのよ」
「……西の御殿の廊下でも見たという生徒が現れた」
諦めたのか呆れ果てたのか、西の御殿の主は投げ槍気味に言った。南の御殿の主がうめくように声を出し、北の御殿の主は悲鳴を上げた。
「な、なんと! 西の御殿で⁉️ 本当ですか、それは……」
「なんだよ、忠長。我らを疑うのか?」
南の御殿の主は東の御殿の主に凄まれて一瞬たじろいた。
「そういうわけでは……でもお坊様に読経を上げてもらってからはまだ見たという声がなかったので安心していたんです」
薄闇の中でもわかるほど南の御殿の主の顔は真っ青だった。
「それじゃあ、お坊様でもなんとか出来なかったってこと? もうお手上げじゃない」
「うるせえな。効果があったかなかったかはまだわからねえだろ。ただ、西の御殿の生徒でも見たって奴が出てきたんだ。もう南の御殿だけの話じゃない。だんだん数が増えてるし噂が広まってんだ」
「うちではまだ誰からも聞かないわよ」
「北の御殿は僻地だからな。情報なんてそうそう行き届かない」
東の御殿のぬしがそう言って笑うと北の御殿のぬしは
「あんたが大事にしているあの鷹だって蝦夷の島で捕まえて、遠路遥々奥州路を運んで来たのよ! 小馬鹿にしたら許さないんだから!」
と叫んだ。
一度ろうそくの炎が大きく揺らめいた。
「本丸御殿から妙な人間が送り込まれるらしい」
西の御殿の主が言った。
御殿の主四名は皆徳川の血を引く親戚同士である。
分けても東西の御殿の主は共に父親が駿府に暮らす先の征夷大将軍――大御所・徳川家康であり、特に西の御殿の主は聡明さも併せて学寮の誰も彼もが一目置いていた。
「妙な人間?」
「兄上の差し金らしいが、この噂が影響しているかもしれん。御殿の内部を色々と調べるつもりらしい」
「そうなの? 秀忠叔父様にしては珍しい。ここって全部駿府のお祖父様の管轄だと思ってた」
「はあ? 学寮長様は将軍様の右腕じゃねーか。ここが大御所様の管轄ならそんなことにならねーだろ」
「気安いのよ、あんたは! 猿の軍師風情の血統があたしに物申すなんて百年早いわ!」
「とにかく」
西の御殿の主がそう語気を強くすると二人はようやく黙った。
暗い布団部屋にしばし沈黙が訪れる。
闇の中、暗黒の更に深い暗がりの中に何かが蠢いたのを南の御殿の主は見た。手足の長い虫のようにも見えたが、はっきりとよくはわからない。いたような気もするし目の錯覚だろうとも思う。
何とも気持ちの悪い部屋である。人数分の明かりだけが心の拠り所だった。
「例の一件はこれ以上騒ぎにするな。妙な奴にあれこれ御殿を嗅ぎ回られたくない」
東の御殿の主も南と北の主二人を見比べて言った。
「お前らも自分んところの御殿の生徒どもにきつく言うておけよ。噂の話はすな! 騒いだら余計あれこれ調べられる」
南の御殿の主は深く頭を下げた。北の御殿の主は面倒臭そうに肩を竦める。
その時だった。
――トントン
四人全員が気が付いた。
どこからか音がする。四人があちらこちらへ首を振る動きで彼らの中央に置かれた燭台の炎が大きく揺れた。
既に夜の帳の下りた布団部屋は自分達が持参した灯りを残して真っ暗だ。ずいぶん目は慣れたものの、音の正体まではわからない。
「な、なんの音?」
北の御殿の主に続いて声がした。部屋の外からそれは聞こえた。
「ぬしさま。客人が見えております」
同じ寮の生徒の声に西の御殿の主が応えた。
「客? 何者だ」
「北の主さまの同寮の方だそうで……」
すると件の彼が声を上げた。
「あらまあ。本当にわかるのね」
入れて頂戴――と言われて部屋の戸が開く。北の御殿の主が畳の上に置いていた手燭の灯りを持ち上げてかざすと、廊下の闇の中ににゅっと顔が現れた。
「さっき勝丸が見回りに来たよ、忠郷」
「あらそう。じゃあ、迎えも来たことだしそろそろ戻るわ。うちの主務はうるさいから」
立ち上がった彼を引き止めたのは彼以外の御殿の主らである。
「お前なあ……忠郷! 御殿評定の場所は我ら以外には内密にするというのが掟だ……評定の内容を外へ漏らさぬために。それを……あんなようわからん奴に教えよって!」
「そうだ。忘れたとは言わさぬぞ」
すると立ち上がった北の御殿の主は振り返り、廊下から顔を出している彼を指して言った。
「あら、心外ね。あたしは今日どこで評定をやるかなんてことは誰にも教えてないわよ」
「抜かせ! 迎えに来とるじゃねえか!」
忠郷に続いて顔を出した少年を指したのは南の御殿の主だった。
「探し当てたのよ、勝手に。人がどこへ行ったのか気配でわかるんですって。だいたい、あたしだってあんたのところの生徒が案内されるままにここへ来たんだから、事前に場所なんか教えられるわけないじゃない」
何を言ってんだ、こいつはと――西と東の御殿の主は思った。
しかし、確かにそうだ。
誰にも場所など事前には教えられないはずである。
御殿評定を行う場所は毎回変えている。それを決めるのは他でもない――自分たち二人だ。そうして南の御殿の主と北の御殿の主の元へ使いを出す。
そんなわけだから、御殿のどこで今夜の御殿評定が行われるかを事前に知ることは不可能に近かった。唯一可能であるとすれば、部屋の外へ見張りに立たせている生徒の二人か。しかしそれはないだろうと東西の御殿の主は確信している。
今日は特に人目を避けて中奥にまでやってきたくらいだ。ここなら生徒が来ることはまずない。それが軽々と見破れたとなれば心穏やかでいられるはずもなかった。
「千徳? あんたどうしてここがわかったのかと皆に怪しまれているわよ」
北の御殿の主が声を掛けると、廊下の彼が逆に尋ね返してきた。
――どうしてってどうして?
「言ったでしょ? 評定は毎回極秘で行っているの。場所が知られるなんてことは今まで一度もなかったわ。だけどあんたはあたしがどこに行くかなんてすぐにわかると言ったじゃない。あたしだってまさか本当にわかるとは思わなかったわよ」
すると、廊下からはけらけらと笑い声が聞こえてきた。
灯りに照らされた薄闇の中にそれが響き渡るものだから、なんとも不気味に思えて東西と南の御殿の主たちは顔を見合わせた。
そこへ再び声がする。
――南の御殿の主さまって、もしかしてだけど……お腹の調子でも悪いの?
「はあ? 腹の調子?」
――大丈夫? お白湯でも飲んで、今日はもう寝たほうがいいよ。
「お、お前……何を言って……」
「まさか……それでお前、さっき何度も評定を抜けたのか?」
東の御殿の主にそう言われて、南の御殿の主が軽く頭を下げた。
――僕、わかるんだーそういうの。気配を辿ってきたの。
「気配……?」
――ここへ来る途中に厠があったでしょ?
――南の御殿の主さまはそこへ何度も足を運んでるよね。すごく最近だ。気配が沢山残ってた。
――短時間のうちに厠へ何度も来てるってことはさ、もしかしてそういうことなんじゃないかなあって思っただけ。
東の御殿の主はたまらず尋ねた。
「お前、どこぞでずっと見張っておったのか? それでそのようなことも知っているのか?」
――え? 見張ってなんてないよ。僕は忠郷の気配を追ってここまできただけ。その途中に厠があったから知ってるだけ。
「気配って……お前、一体何を言っている?」
「犬みたいな奴なのよ、あれは。そういうのがわかるんですって」
そういうの――それについて西の御殿の主が追求しようとした矢先、彼の方が先に口を開いた。
――人間ってさ、気配の塊じゃない。
――だから、気配を辿って追えば誰がどこを通ってどこへ行ったのかわかるでしょ。
――真っ暗でも、誰の声もしなくても、ここには沢山人がいるなあってことはすぐにわかるんだよ。
――部屋の中にどんな人がいるかもわかる。見知った人であればね。
「幽霊なんてへいちゃらだって言うから夜は護衛に連れているの。じゃあ、そういうわけだから部屋へ戻るわ」
いつものように派手な羽織を翻して北の御殿の主は部屋を出て行った。
――あ、そうだ。
再び廊下から声がして三人の御殿の主は灯りをかざした。
廊下から顔を覗かせていたのは小柄な生徒だった。丸い目をキョロキョロさせて物珍しそうに暗い布団部屋を見渡している。
顔に見覚えがあって西の御殿の主は呟いた。
「……北の御殿の新入りか」
生徒は「こんばんは」と言って彼に小さく頭を下げた。西と東の御殿の主を交互に見て言う。
「兄弟だ」
「……だからどうした」
「ンなこたあ御殿中の人間が知っとるだろ! 馬鹿かてめえは! お二人共駿府の大御所様の御子息だ!」
南の御殿のぬしがそう叫ぶと少年が言葉を続けた。
「兄弟とか親子とかそういう血が繋がってる人たちってすぐわかるよね。気配が似てるからさ。三人ともそっくりだもん」
「あほう! 俺はちゃうわい!」
西の御殿の主が「さっさと帰れ」と言うと少年は頷いた。
「はあい。でもさ、みんなも早く帰った方がいいよ」
――この部屋、なんか沢山いる
「な、なに?」
その生徒は一瞬指で上を指すと、自分達に掌を翻して去って行った。
「なんだ……? なんだって?」
そう問われても南の御殿の主は首を傾げることしか出来なかった。西の御殿の主だけが長らくずっと部屋の戸を睨みつけるように凝視している。
「ねえ、忠郷? あの部屋にはあんまり入らない方がいいよ。特に夜は」
北の御殿の主――蒲生忠郷が中奥の御広敷の布団部屋を離れてすぐに声を掛けてきたのは、彼を追い掛けてここまでやって来た同寮の生徒・上杉千徳である。
「あら、どうして?」
「みんなはわからないのかもしれないけどさ、あの部屋にはよくないものが沢山いたよ。特にものすごいのが天井からぶら下がってて、みんなのことずうっと見てたもん」
「よくないものって……あんたまたそういう話なの⁉️ 前にあたしたちの部屋にもいたやつ?」
「そういうのも少しはいたけど、天井にいたのはもっとずっと嫌な感じのやつかなあ。あれはきっと邪霊だよ。沢山集まって大きくなったんだ」
忠郷は思わず立ち止まった。悲鳴を上げそうになって刹那、彼に口元を抑えられる。
「ななな何言ってんのよあんた! またあたしをビビらせようったってそうは行かないわよ!」
「ビビらせたいわけじゃないけど、ああいうのはちょっと気をつけた方がいいよ。気分を悪くしたり頭をおかしくしたりするんだって。たぶん忠郷は大丈夫だと思うけど、あの部屋は要注意」
思えばこいつはここへ来た時から妙なことばかり言う変わり者だった。
しょっちゅう独り言を呟いているし、体躯の割に大飯食らいであるし、忠郷には何を考えているのかさっぱりわからない。
「普通に考えて、十人中九人の目に見えないものはもう《いない》ってことにしておいた方が万事穏便に済むとは思わないの? 千徳。つくづく上杉って頭がどうかしてると思うわ。あんたの目にしか見えないものはあたし達には信じようがないじゃない。頭のおかしな人間の戯言よ」
「そりゃあ、僕だってそう思ってるしそうしてるよ。知りすぎても逆によくないって父上も言っていたしね」
しかし、最近思うことがある。
「だから、忠郷は特別ってこと。特別に教えてあげたんだよ」
こういうわけのわからない人間を上手く扱うことも人の上に立つ己の務めであろう。
うまくすれば使える下僕となるかもしれない。
この――上杉千徳という人間は。
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