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若様のがっこう【第二話】


#ミステリー小説部門 #創作大賞2024

 細川忠利は実技の授業を受け持つ学寮の教師である。

 指南役補佐として剣術や茶の湯などの授業の師範代を勤める彼が声を掛けられたのはちょうど午後の休憩時間中のことだった。中奥のお広敷にある自室に戻る途中の自分に血相を変えた小坊主が駆け寄って来たのである。
 彼は北の御殿・鶴寮を担当するお部屋番だった。学寮在籍の生徒らの身の回りの世話係である。
「も、申し訳ありません……主務殿がいらっしゃらなかったものですから……」
「勝丸殿は一体何処ヘ行ったんだい。生徒の大事に駆け付けるのが護衛役の仕事だろうに……こういう時こそあいつの出番だろう?」
「ええ、そうなのですが……何分勝丸殿は副寮監督も兼任されておいでなので、お忙しいのです。呼ばれたきり少しも戻られませんで……」
「それにしたってなぜ自分のところへ? 同じ御殿の寮監督殿らはいなかったのかい」
 鈴彦、と名乗ったお部屋番は首を横に振った。
「他の寮の監督なんて頼りになりませんよ。その点、細川の師範代は名家のお家柄! うちの寮のご子息さま方も師範代の言う事なら素直に従います」
 ああ、そう――と、忠利は廊下を小走りで進みながら適当に答えた。
「まったく……あまり面倒なことは押し付けないでもらいたいなあ。自分は師範代だよ? 寮生の生活態度の面倒までは見ないから」
 仕方なく忠利は鈴彦に手を引かれるまま中奥から表へ戻った。目指すのは《御殿》と呼ばれる、学寮の生徒たちの居住区画である。  
 御殿は江戸城・西の丸の中奥にあるが、教師たちが詰める中奥の御広敷とは区画が異なり、直接行き来することは出来ない。
 御殿に通じる道は表と大奥とを結ぶ長い一本道の廊下だけであり、生徒以外の往来は当然厳しく制限されているのが常だった。
 咎められることもなく御殿へ足を踏み入れた忠利だが、すぐに辺りが騒がしい事に気がついた。生徒たちが廊下で不安そうに顔を見合わせている。
「一体どうしたんです?」
「北の御殿の方で何かあったらしいんだけど……」
「でもあそこは割といつも騒々しいからさあ。どうせいつもの寮だよ」
 そう言って廊下の先を指したのは南の御殿の生徒だった。
 中奥の大半を占める御殿は東西南北の四つに分かれている。最も大奥に近い場所から北、東、西、南という具合に。
 南の御殿の部屋は常に季節の花や植物で飾られていた。各部屋の入り口に置かれた万年緑色をした南国の植物の鉢植えは、南の御殿で暮らす生徒達が遥か遠い自らの領国のことを思い出せるようにという配慮のためだそうである。
 西の御殿と東の御殿は部屋の装飾が絢爛豪華だ。襖や廊下の天井を彩る鮮やかな立葵に蝶や蜻蛉の絵画は授業にも時折訪れる狩野派の絵師が描いたものらしい。
 それらよその御殿に比べると北の御殿の部屋はまるで凍土の原野のようにがらんとして寒々しい。
 しかし今日はその殺風景な北の御殿の周囲に西や東の御殿の生徒が押し寄せ、人だかりを作っていた。
「……おやまあ」
 忠利は自分のすぐ傍らの鈴彦に一瞬だけ目をやった。
「何やら騒ぎが起きているようだね」
「そりゃあもう……大変な騒ぎですよ。朝の休憩時間中だったんですが……そのう……」
 鈴彦はそう言い淀んで視線を彷徨わせた。
 忠利が再び廊下を歩き出すと、普段は御殿であまり見かけない師範代の姿に気付いた野次馬の寮生達が顔を見合わせながらざあっと自分の部屋に逃げていく。
 蜘蛛の子を散らす、とはまさにこの事だ。忠利は問題の鶴の寮の戸口に背を向け、幾人かの寮生達の身体の向きを変えさせながら叫んだ。
「部屋に戻りなさい。見せ物じゃありませんからね。ほら、次の授業の準備でもして―—」
 部屋の中にいるらしい寮生の顔を見ようと忠利が振り向いた刹那、鈴彦の「あっ」という悲鳴のような声が聞こえたような気がした。
 次の瞬間、部屋の中から飛んできた何かが勢いよく忠利の額にぶつかった。
「師範代殿! だ、大丈夫ですか?」
 鈴彦に背中を支えられながら忠利は怒りを堪えて俯いた。足下の視界に分厚い本が落ちているのが目に留まり、静かにしゃがんで拾い上げる。数頁めくって何の本かはすぐに知れた。
「源氏物語なんて誰がここへ持参してるんだい」
「ああ、本はおそらく……千徳さまのものです。ご実家から山のように持参されておられますので」
 部屋の中を指して鈴彦が言った。
 なるほど―—野次馬の立ち見客まで出るほどの見世物は、やはり鶴寮在籍の学寮生による喧嘩らしい。
「ほうら……きやがったぞ。やっぱりだ」
 探していた声が背後から聞こえて、鈴彦は勢いよく振り返った。
「大当たりだぜ。やっぱり良くねえことが起きていやがる……俺の勘は当たるんだ」
「ああ、よかった! 主務殿!!」
 すがるように飛びついた鈴彦は、しかし彼のすぐ脇に立っていたうどのように青白くひょろ長い見知らぬ人物に気付いて一度頭を下げた。
「なんだ、お前。指南役補佐が御殿に何か用事かよ? まさか見物に来たんじゃねえだろうな。さっさと失せやがれ、鬱陶しい!」
 とても助っ人に来てやった人物に掛ける言葉とは思えない。けれどもこういう調子はいつものことなので、忠利は手のひらを翻して言った。
「今まさに用済みになったようだから少しは見物でもしていこうかな。それで……そちらの方は?」
「新しいうちの寮監督殿だとさ。学寮長さまがほうぼう探し回ってようやく連れてきてくだすったんだ。大急ぎで来てもらったんだよ。なにせうちの寮は俺が目を離すとすぐ……」
 こういう状態だもんでね―—と、北の御殿・鶴寮の主務は部屋の戸を力いっぱい引いた。いくらか不穏な音を立てて開いた扉は古びた様子もないのにずいぶん立て付けが悪くなっているようである。
 絶望的な光景がより眼の前に大きく広がって、その場に居合わせた見物客たちは一斉に「うわあああ……」とうめいた。
「手加減してやりゃあ調子に乗りやがって……今日という今日は生かしちゃおかねえ! 白石の城も落とされたくせにどの面下げてうちより強いだなんて抜かしてやがる! ああ⁉️ 上杉みてえな古臭え斜陽の貧乏大名が! 家紋の柄もかぶっててムカつくんだよ!」
 そう言って激昂していたのは、北の御殿在籍の鶴寮生の一人である。忠利も彼らのことはそれなりによく知っているから余計に気が重い。
「ほれ、あそこ……ちっこい生徒の胸ぐら掴み上げてる奴がいるでしょう? あいつはうちの寮で一番年長の総次郎。仙台藩から出仕しなすってる伊達家のご嫡男さまだとよ。お父上の政宗殿がとにかく自慢して可愛がっておられるんで、注意しなすった方がいいぜ。なにせご子息の煙草だサボりだを注意するとご実家から壮絶にお怒りがくるからな」
 初老の新しい寮監督は「は、はあ……」と、息を吐くついでに頼りなげな声を返した。
「俺たち主務は学寮生の護衛が勤め……だがね、寮監督殿までは護衛できねえから、そのつもりで準備でも心積もりでもしておいてくれや。うちの寮へ寄越されるくらいだ、武芸の心得くらいはあるんだろ? なにせ前の寮監督殿は総次郎に殴られて鼻の骨折られて以来姿をくらましちまったもんでね」
 寮監督は不意に背後から槍で突かれたような表情で主務を見つめたまま固まってしまった。
 しかし主務は涼しい顔で一度頷いただけである。忠利も彼に続いてますます寮監督の強張りは強まった。
「総次郎殿は優秀だけれど、どうも我々には反抗的なところがあるからなあ。何か思うところがあるのだろうとは思うんだけれどねえ……」
「それよりも……大丈夫でしょうか。千徳さま、総次郎さまに派手に顔を殴られたんです」
 寮監督は恐る恐る取っ組み合いの片割れに目を向けた。
「はあ? 白石の城なんて城主の留守を狙って簒奪したんじゃないか。うちの甘糟がいたらどうにも出来ないからでしょ? そんなの勝利のうちに数えて得意げに自慢する伊達家の神経を疑うよ、恥ずかしい」
「なんだと?」
「うちは総次郎のお父上の本陣をめちゃくちゃにしたことだってあるもん。その時持って帰ってきた伊達の陣幕はまだ江戸の屋敷に取ってあるから、何なら見せてあげようか? どの面も何も、うちには伊達家に勝ったっていう証拠がちゃあんとありますけど。それに何なら伊達家のあの家紋は上杉家が伊達家にあげたんですけど! うちの方が先なのにかぶってるとか意味わかんない!」
 勝丸が少年の顔を指して言った。彼は右目の周辺が赤くなって腫れているように見える。 
「――そんで、総次郎とやりあってるのが、つい一月前に出仕した千徳喜平次。十歳のがきんちょだが、とにかく口が達者で博覧強記なところがあるから、ナメて掛かって口でやりこめようとは思わねえこった。おまけにあいつの実家は超がつくほど面倒くせえ大名だから、下手なことはなさらん方が御身のためだぜ」
「めんどくせえ……大名?」
「そうです。千徳殿の大叔父にあたる人というのが、あの……謙信公だそうですよ。今の上杉家のご当主の一人息子なんです、彼は」
 忠利がそう説明するや、寮監督は震える手で胸元から分厚い塊を取り出した。鈴彦も忠利もじっと見つめてようやくそれが分厚い文だということを知る。
「あ、あのう……実は上役殿から、こ……こんなものをいただいたのです」
 とても文には見えない厚さのそれを受け取った主務は表紙の文字を一瞥すると
「ああ、大丈夫ですよ。全く……なんで新しい寮監督が来る話をあの御仁が知ってんだ……地獄耳め」
 と呟いて笑った。ホッと安堵の息が耳に届くが早いか、主務がが乱暴に文の包を破る。
「千徳がここへ来たときもおんなじものを寄越しやがったぜ。これが噂の《直江状》だろ? 頭がイカれてんだ」
 主務が乱暴に書状をめくると、蛇腹折りのそれが彼の手のひらからこぼれ落ちた。足元にまで届いてまだ余りある長い長い書状にはびっしりと細かな文字が書かれ、さながら経典のようである。
「千徳殿の育て親の直江山城守という男がとにかく口やかましい御仁でねえ……あんた知ってますかい? ほら、関ヶ原の戦の前に大御所さまにケンカ売りやがったっていう……上杉家の執政ですよ」
「あ、ああ……噂には聞きます、ね……」
「千徳喜平次の養育を任されてるらしくって、とにかくあれやこれやと注文が多いんだ。こんなものは気にせんことです。いちいち気にしておったら寮監督なんて務まりゃしねえ。第一、長すぎて読んでられっか!」
 主務は長い長い書状を勢いよくぐしゃぐしゃに丸めると寮監督にそれを差し出した。引きつった笑みを小さく浮かべてそれを受け取ったものの、彼もそれをどうしたらよいやらわからない。
「斜陽の貧乏大名がナマイキ言いやがって! てめえらこそ反省しろ! 上杉なんて大御所様に喧嘩売ってド貧乏に成り下がった死にぞこないのくせに!」
 そう叫ぶや、いよいよ総次郎は煙管を握った拳で千徳の頭を殴り始めた。一方の千徳も千徳で身体をよじり、彼を盛んに足で蹴飛ばしている。
「……ねえ、勝丸? 確かこの寮ってもうひとり生徒がいなかったっけ?」
 忠利の問いに鈴彦が無言で部屋の奥を指した。外廊下の手前に小さく蹲っている派手な塊がある。
 外廊下から部屋へやって来た生徒は同じ北の御殿に在籍する別の寮生だろう。大柄な生徒が蹲る塊に声をかけている。
 小刻みに震えている塊は、どうやら嗚咽を漏らしているようだった。
 主務がそれをあごで指して言う。
「そんで――あいつが最後の生徒ですな。蒲生忠郷。大御所・徳川家康公のお孫さまだ。あいつだけはほんっとにくれぐれも注意してくだせえよ。何かあったら俺らの首が飛ぶぐれえじゃ済まされねえからな」
 寮監督は強く頷いた。
 不意に塊が顔を上げる。彼は長い髪を振り乱すように振り返ると、
「覚えといで、外様ふぜいが!! 絶対に改易にしてやるわよ、あんたたちの実家なんて!」
と金切り声で叫んだ。
「だいたい……冗談じゃないわよ! どうしてあたしがこんな……伊達や上杉の家の人間とひとまとめにされなければならないの!? 屈辱にもほどがあるわ。お父様は上杉に会津を簒奪されて宇都宮へ左遷されたし、伊達政宗なんて氏郷おじいさまに毒まで盛って会津を横取りしようとしたじゃない! あたしぜえんぶ知ってるわよ!」
「てめえはまたその話か! 一体どこの口がそんなデタラメを抜かしやがるんだ!」
「だからさあ……何度も言うけど、うちは会津になんて行きたくなかったんだよ。忠郷のおじいさまが死んじゃったからうちが無理やり会津を押し付けられたんじゃん。普通に貧乏くじ引いたんですけど」
「とにかくとにかくとにかく!! あんたたちは蒲生の敵よ! 敵以外の何物でもないじゃない!! 今後あたしに反抗的な口を聞いてみなさいよ、お母様に頼んで二度と領国になんか戻れなくしてやるんだから!! あんたたちの実家も改易よ!!」
 凄まじい口論の応酬は延々と続いた。 
「……ご覧の通り、大御所さまのお孫さまはああいう性格でね……ひでえもんさ。会津じゃあんなのが既に藩主の座に収まっとるっちゅうんだから世も末さ。何かあるってえと二言目には《改易にしてやる》《腹を切らせる》の一点張り。大御所様の孫だから怖いものなんざねえんだろ」
 呆れたような口調で主務は言葉を続けた。傍らの寮監督の引きつった青い顔など見向きもせずに。
「おまけに……あいつの母親ってのがとんでもねえ毒親でよう! 最初の寮監督はこの忠郷の御母上のお怒りに触れてクビになったんだともっぱらの噂だぜ。なにせ、大御所さまの娘で将軍さまの妹君だ……およそこの世でどうにも出来ねえことなんざありゃしねえんだ」
「おや、クビ? 私は責任を取らされて腹を切らさせられたと聞いたよ」
「はあ⁉️ 責任って……一体何をしでかしたんだ?」
「さあねえ……私はただの指南役補佐だから……でも忠郷殿の御母上さまがお命じになったという話だったんじゃないかな?」
「違いますよう。もう……変な噂を真に受けないでください! 全然違います!」
 鈴彦が強い口調で大人二人を叱る。
「一人目の寮監督殿はただ精神に異常を致しただけです! 死んではいません! あれやこれやここで色々あって……ちょっと狂っただけなんです!」
 強い鈴彦の言葉に、もう寮監督は何も反応を示さなかった。
 取っ組み合っていた二人は忠郷の幾度かの悲鳴に銘々反応した。
 総次郎は握りしめていた煙管を勢いよく投げつけ、千徳は小憎たらしい表情で彼に舌を出す。その光景を目の当たりにした忠郷は再びこの世のものとは思えない奇声を上げ、すぐ脇に落ちていた太い巻物を投げつけた。
「しかしひどい光景だなあ……噂以上だ。ずっとひどい」
 どこか楽しげな忠利の言葉に、寮監督は小さく首を振る。
「うちは二人目の寮監督殿が鼻を折られて行方知れずになって以来もうずうっとこんな調子で……護衛役の勝丸殿お一人ではとても手が足らんのです。お部屋番も自分しかいないし……一度、後任の寮監督殿が着任前に様子を見にお出でになったこともあったんですが……うちの寮の様子をご覧になったら気鬱の病になって臥せってしまったとかで……結局着任自体が白紙になりました」
 震えながらそう呟く鈴彦。寮監督も震えながら周囲を見渡すと、部屋が殊の外酷い有様であることが知れた。
 手付きの盆がひっくり返り、衣紋掛が倒され、派手な着物と山のように積み上げられた書物の一角が雪崩のごとく散乱している。乱闘騒ぎのせいで散らかっていることは間違いないが、そもそもひどく荷物の多い部屋である。
「ああ、もう! 一体どうしてこんなことになるのよ。めまいがするわ! 頭が痛い!」
「ぎゃあぎゃあ喚きやがってうるせえんだよ! 減らず口はこのちびだけで充分だ」
「ちびは余計だって何遍言えばわかるのさ、総次郎の馬鹿あ! もう史記も大學も貸してあげない!」
 少年たちの叫び声は御殿の廊下にまで響き渡っていた。他の寮生達も思わず部屋から顔を出すほどである。
 勝丸は鈴彦に視線を落とし、顔を見合わせた。
 彼の表情はますます暗い。どうせこの部屋を片付けるのは彼の仕事であろうから無理もない。  
 すると刹那、寮監督は数歩下がると突然踵を返した。
 次の瞬間、彼は主務が言葉を掛けるよりも早く来た道とは逆の方へ一目散に走って行ってしまった。
 それはほんの一瞬の出来事だった――らしい。

 通算三人目の寮監督(未着任を入れれば四人目)はこうして北の御殿・鶴寮を遁走し、その後二度と御殿に姿を現すことはなかった。

 ***

 争いというものは、おおよそ始まりやきっかけなんて皆些細なものなのだと――いつだったか、父上がそう僕に教えてくれたよ。
人間は皆本質的に争いが好きだから、理由なんてわりとどうでもいいのだと言っていたっけ。
 確かに僕らのいつもの喧嘩も始まりはひどくどうでもいいようなことだから、そういう父の言葉を思い出して、僕は一人で勝手に納得したりしていた。 
「……お前らは毎度毎度こりもせずケンカばっかりしやがって……わかってんのか!」
 朝っぱらから喧嘩していた僕ら――鶴の寮の部屋に飛び込んで来たのは、勝丸だった。
 勝丸は主務と呼ばれる僕ら生徒たちの護衛役だ。ちなみに僕がいる北の御殿、鶴の寮が勝丸の担当。
主務は僕らのような若様達が危ない目に遭わないようにと始終見張っているらしい。
 けれど勝丸は見張りついでに僕らにしっかりお説教することも忘れない。勝丸は主務と寮監督官を兼ねているからね。
 ちなみに、寮監督というのは寮生たちを監督する、文字通りのお役目だ。
寮生、生徒――つまりここ、江戸城西の丸で暮らす僕らのような学寮お預かりの大名家子息らがそう呼ばれていたりする。
「いいか? お前ら三人はいずれも大した名家の息子なんだから、お前らの身には何かあっちゃあならねえんだよ! 喧嘩なんかして傷でもこしらえたらなあ……大変なことになるんだ! わかるだろ!」
 いつものように勝丸のお説教が始まって、僕はため息をついた。
 勝丸の目の前に鶴寮の三人、仲良く一列に並んで正座する。僕なんてつい先刻同寮に派手に顔をぶん殴られたばかりだから、水で冷した手ぬぐいで傷を冷しながらさ。
「やい、千徳喜平次! お前はなんでまたそんな目立つ場所をぶん殴られるんだばかたれ! ようやくこの間ぶん殴られた傷が治ったと思ったのに!」
「なんでって……たぶん僕と総次郎とじゃ身長差があるから、それで顔ばっかり怪我しちゃうんだと思うんだよね僕。でもこれくらい全然大丈夫だよ。ぼくだってちゃんと鍛えてますから!」
「そういう問題じゃねえんだよ、ばかたれ。こちとらお家の大事な若さま預かっとるんだ。今後お前さんに何かあったら、俺はあの直江山城守の面前で腹を切るくれえのことは覚悟しなきゃなんねえんだぞ!」 
 勝丸はいつも腰に刀を下げている大男だ。若い頃は戦にも出て活躍したことがあるらしく、うんと頼りになると僕らは聞いている。だから僕らの護衛役を任されているらしい。ちなみに、他の御殿の主務達は徳川の家に仕える伊賀者ばかりだという話を聞いたことがある。
 身なりを見ると、勝丸はあんまり見た目にはこだわらない性格なんだろう。伸び放題の髪を適当に一つに結っているところなんかかなりおおざっぱで適当だ。だから僕らに対する態度も大雑把で適当でぞんざいなのだと信じたい。「大事な若さま」なんじゃないのか、僕らは。
「お前らにはいずれいい藩主になってもらわんとならねえんだ。わかるな? ここはそのための場所なんだから!」
「わかってます」
 僕は手ぬぐいを水の入った桶に戻すと、高く手を上げてそう勝丸に宣言した。しかし残りの二人は思い切り不満そうである。
「どうでもいいけど、主務? この部屋、三人で寝起きをするには狭すぎるわ。息苦しくて時々目眩がするのよあたし」
 長い髪を揺らしてそう言ったのは、忠郷(たださと)だ。派手好きな北の御殿一のパープリン。
 忠郷は性格や頭の中身はとにかく、見た目だけはすごく美男子だと有名だ。僕にはその良さがわからないけど、大奥で働く女たちが皆そう噂し合っているらしい。
 彼もそういう周囲の噂は知っているんだろう。部屋には立派な鏡台を持ち込んで長い髪を手入れしているし、今日着る着物一つ選ぶにもものすごく時間を掛けるのが忠郷の日常だもの。
「部屋が狭いのはお前の荷物が多いからじゃねえか、忠郷! ちったあ片付けるなり整理するなりしろ。なんだってこう散らかってんだ、うちの部屋は……信じられねえ! こっちが目眩がするぜ、まったく!」
 勝丸が僕らの後ろを指して叫んだ。僕も忠郷も振り返る。
 僕らの部屋は―—結構きたない。
 汚れているというより、荷物が多くてごちゃごちゃしてるんだ。特に忠郷が実家から持ち込んだ荷物の数が半端じゃない。
 忠郷はとにかく着物(ワードローブ)が多い。彼一人分とは思えない程の量着物を実家から持参しているよ。もしやこの着物の量、彼はここに永住するつもりなんだろうか。
「忠郷ってさあ、散らかすだけ部屋を散らかして全然片付けないんだよ。箪笥から着物を出したら出しっぱなしでまた別の着物を出すから大変なことになるんじゃん」
「は? 何言ってんの。あたしは会津藩主よ? 千徳。部屋の片付けなんてお部屋番の仕事だわ」
「そりゃそうだけど、出したものくらい自分で元に戻しておけばお部屋番が片付ける手間が省けるじゃないか」
 その膨大な量の着物を忠郷は毎朝箪笥から出しては衣紋掛けやら自分の袖やらに通したりやめたりを繰り返し、着物を脱いではまた着て――なんてことを何十回と繰り返すのだから、毎日彼のその日の装いが決まるまでの間に部屋は破滅的なまでに散らかってしまう。
 今日なんてその上喧嘩までしていたんだから、いつもより余計に散らかってて当然なのだ、僕らの寮は。
「それに千徳? あんた人のことあれこれ言える立場なの? あんたの荷物だってあんなじゃない!」
 忠郷が叫んで指したのは僕の文机である。
 僕は毎日ちゃあんと掃除をしている。江戸屋敷で暮らしていた頃は毎朝起きたら小姓のみんなと掃除をするってのが日課だったんだからね。江戸のお城へ出仕しても日々の心がけは変えてはいけないと言われたので御殿の暮らしでもなるべく以前の日課もそのまま行うようにしている僕だ。今だってちゃんと毎朝起きたら部屋の外廊下を水拭きして机の周りを整理してるもん。
 だけど……
「あれは仕方ないじゃん。だってこの部屋、本の置き場がないんだよ」
 僕は実家から持ってきた書物を城壁のように机の周りに高く積んでいるもんだから、確かに傍目には散らかっているように見えるのかもしれない。今日はその城壁の一端が攻撃を食らったもんだから本が崩れている。
「お前なあ……さすがに多すぎるぞ。本当に読みたい本だけ置いておけよ。あと、源氏物語は持って帰れ」
「ええー? せっかく全五十四帖持ってきたのに」
「多すぎるわ!」
 勝丸もため息をついて言った。
「はあい……でも、これでも数を減らしたんだよ。僕の先生がこれ以上は減らせないって言うから」
「だから、それが多すぎるって言ってんだろ、くそチビ」
 呆れたように僕に言ったのは三人目の鶴寮の生徒だった。
 総次郎は僕らの寮の一番年長者だよ。僕は総次郎より四つも歳が下だからか、彼から僕は何かとすぐ「ちび」とか「ガキ」だなんて言われて見下されている。総次郎や忠郷とは違い僕がまだ元服前だから余計に舐められているのかもしれない。
「いいよ、もう。そんなこと言うなら授業で役に立ちそうな本があっても総次郎には見せてやんないからね! 貸してあげないよ!」
「大体、おかしいわよ! 会津藩主であるあたしが、一体どうしてこんな奴らと一緒なの? 納得出来ないわ。あたしは一人の寮にしてもらえるという話だったはずなのよ!」
 忠郷は勢い良く立ち上がると、僕と総次郎とを指した。
「忠郷? もうその話は何十回、何百回したと思うけどな? 念のためもう一回だけしてやる……俺は心優しい人間だから」
 勝丸はため息を付いて腕組みをした。睨むように忠郷を見つめている。
「いいか? お前は仙台藩と米沢藩の若様方と一緒の寮だ。それは変わらねえ。なにせ将軍様が決めたことだと聞いてるからな。お前のじいさまに文句言ってもムダだぜ」
 総次郎は「そりゃそうだ」と呟き、持っていた扇子で仰ぎながら言った。
「俺だって上杉や蒲生の人間と枕ならべて一緒に寝てるなんて、未だに考えただけでゾッとするぜ。誰も好き好んでこんなところにいるわけじゃねえんだからな!」
「ああら、当然でしょ。あたしだってそうよ。誰が伊達や上杉みたいな田舎大名と仲良くなんて出来るもんですか! あたしはねえ、駿府のおじいさまの血を引く徳川の人間なの。家康さまの孫なのよ? 会津藩主なの!」
 忠郷は総次郎の顔を指して言った。
「……あたしは今でも蒲生のおじいさまはあんたの父親に殺されたんだって信じてるわ」
「またその話かてめえは!」
 勢い良く総次郎が立ち上がり、僕を挟んで忠郷と再び睨み合う――この光景、ほんのつい一刻程前にも見覚えがある。鶴寮が喧嘩に至るいつもの流れ……
「氏郷おじいさまは伊達政宗に毒を盛られたの。蒲生の家の者なら誰でも知っていてよ。会津をおじいさまに取られた腹いせだわ」
 総次郎は閉じた扇子を勢いよく忠郷へ投げつけた。しかし忠郷もその程度のことで黙るようなタマじゃあない。
「氏郷おじいさまはね、そりゃあ眉目秀麗の出来人で、会津なんてど田舎に追いやられなければ天下さえ取れていただろうってお人だったのよ。だから太閤殿下には危険視されていたし、あんたの父親も会津へやって来たおじいさまに怯えてそんなことをしたんでしょ。結局天下を取ったのは徳川のおじいさまだったけれど……つまり、あたしの祖父達はあんたたちの父親なんかとは格がちがうの」
 僕と総次郎を指して忠郷は叫んだ。
「言ってろ、バカ殿! うちの親父が毒を盛ったなんて……そんな出どころもわからねえデマみてえな情報を未だに信じているようじゃ、家康さまの孫も大したことねえってもんだ」
「ど田舎ど田舎って言うけどさあ……今は忠郷が会津を治める藩主でしょ?」
 僕が忠郷を見上げると、
「おだまり、千徳!」
 ぴしゃりと一言言葉が返ってきた。
 忠郷は江戸に幕府を開いた天下人――徳川家康様の孫だ。母親が家康公の娘なのだと僕や総次郎は聞いている。家康様は息子の秀忠様に将軍職を譲られて以来今は駿府のお城で暮らしているらしい。
 蒲生という家に産まれた忠郷は僕とも二歳しか歳が違わないけど、もう会津の藩主をやっている。藩主だった父親が若くして死んでしまってその後を継いだのだ。
「とにかく! あたしは家康おじいさまの血を引いているし、蒲生のおじいさまだってうんと優秀な方だったわ。おまけにあたしは信長様の血だって引いているんだから、あんたたちみたいなダサい田舎大名の若さまとはわけが違うのよ」
「信長って……あの、織田信長?」
 僕も立ち上がって総次郎を見る。忠郷は得意げに
「そうよ。蒲生のおじいさまは出来たお人だったの。その将来を見込まれて、信長さまの娘を嫁に貰えたのよ。それがあたしの父方のおばあさま!」
 と、自慢したが僕らからの反応はさっぱりだった。
「あーあ……名前くらいは知ってるぜ。家臣の明智日向守に裏切られて本能寺で死んだ馬鹿なやつだ。家臣に謀反起こされまくってたんだろ?」
「僕も話には聞くけど……あの人は全然大したことはないって謙信公が父上たちに言ってたらしいよ。とにかく自分より強い人にはおべっかばっかり使うんだって」
 だせえ、と呟いた総次郎に光の速さで忠郷がキレた。
「うるさいわねええ! おだまり、ばかども!」
 忠郷が突然攻撃を繰り出して来たので僕は華麗にそれをかわした。忠郷は感情が面に出やすいので気配を読みやすくて非常に助かる。
「信長さまはすごい人だったの! 本能寺の件も他の謀反も起こした奴が悪いし、上杉との戦にしくじったのは信長さまじゃなくて柴田勝家じゃない! それをあんたたちごときが何を偉そうに……」
「じいさまだかばあさまだか知らねえが、自分に何も自慢するものがねえからって、身内ばっかり自慢するなんて惨めなことこの上ないな」
 総次郎の実家は伊達という名の国持ち大名だ。仙台を治める伊達家の領国は六十万の石高だというから米沢の倍はある。ちなみに会津も六十万石。うちの実家が治める米沢が三十万石だ。
「やっかみはおよしなさいよ、総次郎。あんたのお父上なんて所詮大したことないものね」
「そうかなあ……政宗殿は割と大した人だと思うけど。だって、うちの直江山城守なんてめちゃくちゃ目の敵にしてるよ」
「あんたも同じよ、千徳」
「はえ? うち?」 
「そうよ。謙信なんて別に天下取ったわけでもないんだから、たかだかちょっと戦が強かったくらいで偉そうにしてるのはおかしいわよ。軍神だか毘沙門天だかなんだか知らないけど」
「偉そうにしてるってのはどういう意味? 謙信公は関東管領の職に就いていたんだから、本当にそれなりに偉い人だったんですけど」
 僕の言葉に忠郷は顔を歪めた。
「偉いなんて言ったって、そんなのもう大昔の話じゃないの! 関東管領なんて要職は足利の時代の話じゃない」
「え、そりゃあそうでしょ。だって謙信公は足利の将軍様がまだ生きていた頃の人だもん。そっちが謙信公の話をしてきたくせに大昔の話なんて言われてもなあ。忠郷って時々わけわかんないこと言うよね。大丈夫?」
 僕の言葉に総次郎も「馬鹿なんだこいつ」と続いたもんだから、忠郷が悲鳴を上げた。落ちていた総次郎の扇子を今度は僕に投げつける。
「だまれだまれだまれ! やかましいんだよ、お前らは!」
 勝丸が手を叩きながら叫んだ。この調子ではきっと声は外の廊下まで響いているに違いない。鶴の寮はいつもこんな調子だから、北の御殿で一番騒々しいと有名だ。
 僕らは渋々正座に戻る。
「まったく……言った途端にすぐこれだ。いいか? 今度またケンカしてケガでもしてみろ。その時はタダじゃおかねえ」
 勝丸は拳を強く握りしめて突き上げて言った。
「……ようく覚えておけよ、このくそがきども! お前らに何かあったらなあ……俺がお・こ・ら・れ・るんだ!」
 今日一番の声を張り上げて勝丸は叫んだ。
「知らないわよ、そんなこと!」
「いいか、くそがきども! これ以上この部屋で喧嘩なんかしてみやがれ。その時は俺が喧嘩両成敗で問答無用に全員ぶんなぐるからなああ! 覚悟しておけよ!」
 僕ら三人は各々がため息を付いたと思う。こんなこといちいち宣言しているけれど、勝丸ってば割と平気で生徒の頭を小突いたりぶん殴ったりするということを僕らちゃあんと知っている。これでも僕だって他の二人だって実家に帰れば数千の直臣が《若様》と頭を垂れる人間だってのに。
 その時、「失礼します」という声と共に部屋へ鈴彦が入ってきた。鈴彦は無言で持っていた手紙の束を勝丸に渡したよ。
「ほうら、今日もどっさり届きやがったぞ……一体誰宛かねえ……」
 忠郷が大げさに肩を落として俯く。勝丸はどっさり届けられた手紙の束を一通り見終えてから、
「はい! これ以外は予想通り全部お前さん宛だな。しっかり読めよ!」
 と言って忠郷の目の前に手紙を置いた。
「……ああ、またこんなに? もういや……」
「忠郷って手紙が山ほどくるねえ。すごい量」
「まあ……これでも会津の藩主だからな。仕事の進み具合の報告とかそんなんだろ。国許の家臣たちから送られてくるんだ」
 山のような手紙を前に、顔を掌で覆って落胆している忠郷の姿はわりとよく見る光景だ。忠郷ってばほんと、毎日のように手紙が来るんだからさ。
「そうだ、千徳。お前さんに面会だ。客間に来いとさ」
 勝丸は総次郎にも文をひとつ手渡して僕に声を掛けた。
「お客? 今日ってそんな予定あったっけ」
 僕は受け取った文を落胆ぎみに見つめる総次郎を視界の端に入れながら勝丸に付いて廊下へ出た。

「お前なあ……一体何をやらかしやがったんだ?」

 勝丸は大柄な体躯の男だよ。その勝丸が背中を丸めて僕の顔を覗き込む。
「何のこと?」
「本丸御殿から将軍様のご家来が来なすってるんだよ。お前さんを呼んでこいと言ってんだ」
 僕は驚いて思わず廊下を進む足を止めてしまった。
「え―――――! なんでなんで? 僕、将軍様のご家来に怒られるようなことなんてやってないよ! 喧嘩なら僕だって被害者だし個別に僕だけ呼び出されて怒られるっておかしいじゃん!」
「まあ落ち着けよ。俺だってそれくらいわかっとるわい。三人揃ってというならいざ知らず、お前さん一人が将軍様のご家来に呼び出し食らうってのはどうにも俺も腑に落ちねえわなあ。主務と副寮監兼ねてる俺に何の事情の説明もないまま生徒に合わせろたあ納得いかねえ。安心しな、千徳。将軍様のご家来だろうがいっちょ文句言ってやらあ」
 そんな荒っぽいことを言われたところで僕の心はちっとも晴れやしない。
 そりゃそうだ――うちの実家・上杉家は江戸に幕府が開かれる以前には徳川と対立した過去があるのだし、僕はそうした御家の若様なんだもの。将軍様のご家来だってさぞ僕のことを鬱陶しいと思っているのかも知れないよ。
「僕の千徳って名前は今の将軍様から頂いたんだよ。将軍様がうちの江戸屋敷にお出ましになった時に直接ご挨拶だって済ませてるし、僕のことは認めて貰えてるんだと思ってたけど……」
「それは間違いねえだろ。お前さんが今ここにいるのは上杉の跡取りだと認められたからじゃねえか。自信持ちな」
 勝丸が僕の肩を叩いた。
「そんなこと言っても……結局、うちは大御所様に喧嘩売っちゃってるしなあ」
 何にせよ、鶴の寮で僕だけが将軍様のご家来に客間へ呼び出される事には特別な理由があるに違いない。
 結局、どんなにあれこれ頭の中で考えてみても僕にはさっぱり心当たりがなくて不安な気持ちのまま重い足取りで勝丸について行った。

 学寮は江戸城の西の丸にある。
 そこは将軍様が政務を行っているという本丸と同じく、表・中奥・大奥とに分かれており《御殿》と呼ばれる生徒達が寝起きをする部屋は中奥にあった。他にも中奥には学寮を訪れる客人用の部屋がいくつか用意されている。
 客間が並ぶ廊下まで来ると朝顔の間の前に小坊主が一人待っていたよ。それは客間係の少年だった。
 学寮では僕らと同じくらいの年齢の子も働いている。彼らも皆出自確かな信頼出来る筋からの縁故採用で学寮に雇われているらしい。
「ひょっとして、鶴の寮の千徳様でいらっしゃいますか?」
 僕と勝丸の姿に気付くや彼は慌てて尋ねてきた。
「あー、そうだぜ。将軍様のご家来とやらが待ってんだろ?」
「そうですそうです。ささ、お急ぎください。もうずいぶんとお待ちですから」
 客間係に腕を引かれて僕らが連れて来られたのは《蓮》の客間だった。 
勝丸はとりあえず客間隣の控えの間にいると言って襖の向こうに消えて行った。結局僕だけが一人客間へ通される。再び心細さがこみ上げてきて、しかし僕は己を奮い立たせた。
上杉はこれ以上徳川将軍家の不興を買うわけにはいかないよ! これ以上の失敗は許されない。僕が上手くやらなければ!
「失礼致します……」
 将来の藩主には立ち振舞や作法というものが大事だよ。僕は自覚出来るくらいには堅い所作で客間へ入った。
 するとまず見知った人間の気配を感じて僕の集中力は削がれた。続いて聞き慣れた言葉があって下げた頭を慌ててそちらへ向ける。
そこには僕の見知った顔の男がいた。

「いつまで待たせるつもりだ。俺も務めがあるので暇ではない」

「長員!」
 客間には男が一人腰を下ろしていたよ。
「なんだあ。来客って長員のことだったのか。将軍様のご家来なんて言うから、一体誰にどんな事を言われるのか心配しちゃったよ!」
緊張して損した、と僕が続けると長員は不満げにいよいよ釣り上がった目を細めて
「なんだあ――とは何やねん、こら。わしはほんまに将軍様のお役目で来とんのやぞ。忙しい合間を縫って来とんのや!」
と言って畳を強く叩いた。

 長員(ながかず)は僕の従兄弟だ。
 米沢にいる父上の姉上――つまり、僕の叔母に当たる人が彼の母親である。
 人の気配というのは一人一人違うのだけれども、血の繋がりがある者同士は雰囲気が似る。長員は僕の従兄弟で父上の甥だから、父上と気配が似ているよ。たぶんきっと僕の気配ともね。
「まったく……ついこの間まで顔じゅうよだれまみれにしていたお前がもう江戸のお城へ出仕するような歳になったとは……」
 長員は深くため息をついて目頭を押さえていた。
 ため息を付きたいのはこっちだっての。将軍様のご家来に呼び出されてすわ何が起こるのだろうと僕があれこれ心配していたことなんてまるで知らない長員は
「月日の経つのは早いもの。俺も歳をとるわけだ」
 ――なんて、よくあるおっさんの愚痴を零していた。
 僕と長員は従兄弟同士とはいえ親子くらい年の差があるので時間の感覚が微妙に違うと思う。
「お忙しい将軍様のご家来がわざわざ何の用? 僕だって暇じゃないんですけど。授業だってあるし、うちの主務も結構おかんむりだったよ?」
「おかんむり?」
「そう。自分に話も通さず生徒と直接やりとりすんな、ってことみたい」
 長員は小馬鹿にするように笑って言った。
「俺は学寮の目付役だ。御殿の生徒と直接やり取りすることを将軍様直々にお許し頂いた上でここへ出入りしておる。主務風情がでしゃばるなと言っておけ」
 長員は僕の身内だけど上杉の家臣ではない。
 長員は若い頃に上杉の家を出奔してしまった。今は徳川の旗本として将軍様に仕え、常陸の国に領地まで貰っているらしい。もっとも、長員は将軍様のお傍で働いているから常陸の領国には帰らずに大半が江戸にいるということだけれども。
「ねえ、長員。その《目付役》って何?」
 僕は長員に出されていた茶菓子を見つめながら尋ねた。
今日のお茶菓子は真っ白なお饅頭である。父上の家系は皆大酒飲みだからこんなお菓子には興味がないことを僕はちゃんと知っている。
 いただきまあす、とちゃんと言葉を掛けてから僕はそれに手を伸ばした。
「俺も色々と考えたのだ。俺は叔父上や米沢の母からお前のことは何かと面倒をみるよう頼まれている。せっかくお前がこうして学寮へ来たのだからそれを上手く使わぬ手はない」
 長員は僕の手の甲をピシャリと叩いて言った。
「使う? どういうこと?」
 長員が僕の顔を見つめている。

 なんだか――ひどく嫌な予感がした。

「お前には御目付役である俺の手足となって働いてもらう」
「ほうーらね、やっぱり。嫌な予感がすると思ったよ!」
 僕は霊感が働くせいかこういう勘はだいたい当たる。人の気配には人の感情や心の動きが乗るのだけれども、長員のような打算的でおまけに感情が現れやすい人間のそれらは比較的気配に乗りやすいのでわかりやすいのさ。
 長員は僕の非難には全く興味を示さず、お白湯を口に運んでから得意げに僕に言った。
「俺は将軍となられた秀忠公付きの旗本。今は学寮の《目付役》を仰せつかっている。目付役とは良からぬことが起きぬよう学寮を常に監視するお役目だ。そうして、不測の事態が起きた時にはその事態の収拾及び調査を行い、上様にご報告申し上げることも俺の務め。その為に俺は学寮に出入りを許されておる」
「えーと……つまり、学寮で何かやばいことが起きたら、長員がそれをなんとかしたりするってこと?」
「その通り。だがその前に、そもそもやばいことが起きぬようにすることこそが俺の務めだ。もし万が一にもやばいことが起きたらそれをご報告せねばならん。当然、やばいことを処理することも後片付けも俺の仕事のうちに含まれる」
 そう言うが早いか、長員は僕と向かい合う距離を縮めた。怖い顔で僕の顔を覗き込む。
「……お前、出仕早々毎日のように同寮の生徒とケンカしておるそうだな」
 長員にきつく睨み付けられて僕は視線を泳がせた。
「ええっと……僕は総次郎や忠郷が攻撃してくるからやり返してるだけであって……」
 すると長員はがっくりと項垂れて顔を掌で覆った。
「あかん……先が思いやられるわ」
「でも、大丈夫だよ長員。僕だって学寮に出仕するにあたって色々なことを想定したからね。これ以上、上杉の家が傾くようなことは致しません」
「徳川の縁戚と喧嘩してそんなドデカい青タン顔にこさえて、大丈夫も何もあるかい! このアホンダラ!」
 長員の強い怒りの感情の気配がしたので僕は慌てて身を引いた。既のところで彼の拳を避けることに成功する。
「お前なあ……ケンカは売っても買ってもあかん! そないなことしよるから上杉の家はド貧乏になってしもたんやないか。関ヶ原の戦の前、叔父上や直江の奴が家康さまにケンカ売ったり買ったりしくさったのをよもや忘れたとは言わさへんど!」
 長員は膝を立てて中腰の体勢で僕に叫ぶように言った。
 長員は怒ると人が変わる。怒りの感情が強くなると彼はその昔上杉の家を出奔してから身を寄せていたという河内の国の言葉が混じるんだよ。出奔は僕が産まれた頃になってようやく父上に許してもらったらしいけど、言葉はどうにもならないというから厄介だ。
「叔父上もほんま融通効かんお人やからなあ。ワシみたく東軍へお味方しとればよかったんや。せめて加賀の前田家みたく叔父上も素直に最初っから家康さまに頭を下げとったら、上杉の家もこない貧乏にならんと済んだかもしらんど、千徳。人間、素直さが一番大事なんや」
「じゃあ父上には長員がそう言ってたよって報告しておくね。僕は素直だから」
 僕が冷たくそう言うと、途端長員は目を見開いて
「やめんかい!」
 と叫んで僕の頭をひっぱたいた。咄嗟のことで僕も避けるのが遅れてしまったよ。奇しくも顔に青タン作った時と同じ状況。人の気配が読めてもこうしたことはままある。
「あかん!! あかんぞそんなこと! 絶対にあかん!」
 長員は父上には頭が上がらない。出奔した罪を許して貰ったのだから当然だ。だから父上の名を出すだけで冷や汗かいて身体を硬直させることを僕もちゃあんと知っているのさ。
「ええか、千徳! お前が学寮で揉め事を起こしたら、わしが叔父上に説明せなあかんやないか!」
「ええー? 別にそんなこといちいちしなくていいよ」
「ええわけないやろ! お前の面倒を見ろと言われとんのや。そういうことやから面倒な仕事は増やすな」
 僕は一人っ子で兄弟はいない。僕しか子供がいないので、父は年の離れた甥っ子二人に僕の面倒を見るよう頼んでいるらしかった。既に上杉の家臣でもない従兄弟二人が僕のために何をしてくれるんだろう? 今日まで特にありがたいと思ったことは何もない。時折こうして役に立ちそうもないお説教話をしにくるくらいなんだからさ。
「御殿にいる奴らとは仲良うやれと言うとんのや、ワシは。そうやなくたって、学寮で何かあれば目付役のワシがいちいち生徒に事情を聞いたり、報告書を作ったりせなあかんっちゅうのに……」
「ええ? 長員ってそんな仕事もしてるの?」
 うわー、面倒くせえ! 僕は密かに「こりゃあ大変なことになった」と思った。学寮で僕が良からぬことをすると、まずこの従兄弟に話が行ってしまうなんて嫌すぎる。
 数回咳払いをすると気を落ち着けたのか、長員は少しだけ穏やかになった声で話し出した。
「俺かてな、そんなどうでもええことするために目付役やっとるわけやない。せやから、そういうお前のどうでもええ仕事させられる代わりに、お前のことも俺の仕事にこき使ったろうと決めたんやないか」
「ええ~何なのそれ?」
 長員は再び腰を下ろすと怖い顔で僕の顔を見つめながら言った。喋る調子を少しだけゆっくりと、努めて冷静さを取り戻そうとするように。
「俺は学寮内で起きた《事件》を解決することがお役目なのだ。学寮で何か起これば問答無用で介入し、その解決に当たる。だが、大した事件にもならぬ些細な事柄……例えばそう、《噂》のようなものは全く手出しが出来ん」
「うわさ?」
 長員は頷く。
「それなりの事件になれば俺も動ける。だが……裏を返せば、何か事が起きても事件にならねば動けない。それも相当な事件だ。学寮の上役共は俺のような秀忠公の家臣が学寮に介入することを快くは思わぬ」
「どういうこと? だってそのための目付役でしょ?」
「学寮の中では日々色々なことが起きており、当然それらは目付役である俺のところへ報告が入る。お前らの喧嘩のようにどうでもいい些細な揉め事の報告やわけのわからん噂話は山程寄越されるが、そもそも俺にはそうしたものの虚実を明らかにする術がない。おまけに時間もな。なにせ、学寮のえらい奴らや教師どもは秀忠公のご家来である俺が学寮の生徒と直接関わることにはいい顔をせんのだ。ここで調査をしようと思ったら途方もない根回しや労力がいる」
「……長員って、もしかして学寮の先生たちや上役に嫌われてるの?」
 僕は目を細めてじっと長員の顔を見つめたよ。長員の気配にブレがあることはすぐわかる。要するにこれは心の動揺だ。
 予想的中――自分のを心の中で僕は自画自賛していた。
「まあ……そういうこっちゃ。学寮のおエラいさんは大御所さまのご家来が多い。そもそも学寮を拵えたんが大御所さまやからな。俺は将軍さまのご家来やから、またすこーし派閥が違うんや」
 派閥ね……派閥。
 そもそもそんなものがあったせいで大阪の豊臣家は内部の対立が起きて徳川に時代の覇者を譲ったのだろうに、こうして天下を治めることになった徳川の家の中にもそうしたものがあるなんて――大人の世界は色々と複雑である。
「お前は学寮の中にいるのだから学寮の中を好きに見聞き出来るだろう。おまけに学寮の生徒でもあるのだから生徒達にも直接話が聞けるはず。学寮の中で伝え広まるよからぬ《噂》の虚実を明らかにして欲しいのだ」
「噂ねえ……噂を確かめるの? 僕が?」
 僕は長員の話を聞きながら、思い切り大きな口でおまんじゅうにかぶりついた。
「いいか? 千徳。大火を防ぐにはまず小さな火事を起こさぬようにすることが重要なのだ。そのためには、火の気配に敏感でなければならん。噂がただのどうでもいい与太話であればそれに越したことはないが、何か大きな事件の前触れということもある。大火を防ぐには、まず小さな火種を確実に潰さねばならぬのだ」
「つまり、それを……僕がやるわけ? 事件になりそうな揉め事を潰すってこと?」
 ようやく完全におまんじゅうを食べ終えて僕は言葉を続けたよ。
「まあね……僕だって、困って頼ってくる人間を見捨ててはおけないって気持ちはもちろんあるけど……」
 謙信公は困っている人の為に戦ったりすることを《義》とする人だった。
 加えて後を継いだ父がそういう謙信公を多大に尊敬しているため、既にこれは上杉家自体の家風でもある。だから勿論、上杉家の若様である僕だって誰かに頼られたら力になってあげたいという気持ちはあるのだ。
 だけど、なんだか僕はスッキリしなかった。たぶん長員の奴がずうっとニヤニヤと笑っているせいだろうと思う。
「そうだろうそうだろう。さすがお前は上杉家の跡取り。叔父上も将軍様もそうと認めただけのことはある」
 長員は楽しそうに目を細めると畳を叩いた。
「さて、困った俺のためにぞんぶんに働いてくれ。何せ学寮の生徒どもは噂好きと見えて、よからぬ話がゴロゴロしているからな。もちろん、どうでもいいようなくだらない揉め事はお前が適当に解決してくれても構わんぞ」
 どうも長員は上杉の特性を理解した上でうちを利用しているように思われてならない。幾ら父上の甥っ子とはいえ、上杉の家を出奔した癖に上杉姓を名乗らせて貰っているというのも考えれば考えるほどに図々しい話だしさ。
 僕はもうおまんじゅうは全部食べてやることに決めて最後の一つも口に運んだ。
「どうでもいいけどさあ、こき使うだけこき使っておいて、まさかタダ働きってことはないだろうね? 僕は謙信公じゃあないんだから見返りはキッチリ貰いますよ」
 僕は「貧乏」の部分に特に力を込めて言った。

 参加してもいない関ヶ原の戦で敗軍側に肩入れして、早十数年――
 悲しいかな、今の上杉家はとにかく貧乏なのだ! たぶんきっと謙信公が生きてたら卒倒するくらいには!
 それはまあ、つまり……長員が言うように、僕の父上が徳川相手にケンカ売ったり買ったりしたのが原因だけれども。

「謙信公はなあ、私利私欲のためには戦なんぞせんかったんやぞ。戦働きに見返りなんぞ求めんかったわい」
「私利私欲のためじゃないじゃん。僕は長員のために手伝うんでしょ。僕が仕事をしたらそのたびに長員に報告を入れて、その都度きっちり見返りをもらうから! 絶対に!」
 こういうことはきっちりはっきち伝えておかねばならない。
 長員は金にがめつい守銭奴だと父上がいつだったか僕に言っていた。損か得かで物事を考える人間なんだって。そんなんだから上杉の家とは合わなくて出奔したんだよねえ、きっと。
 そういう奴にはタダ働きなんて絶対にしてはいけない。きっと奴隷のようにこき使われるに決まっているんだからさ。

 僕がぷりぷり怒っていると不意に長員が言った。
「お前、何ぞ耳に入れたりしとらんか」
「何を?」
 外廊下から風が強く吹き込んだ。外廊下に満ちる日だまりのその向こう、中庭のどこかで猫の鳴く声がした。
「噂だ。御殿の生徒達の間でずいぶん広まっていると聞く。知らんか? 南の御殿の生徒が幽霊を見るそうな」
 長員は言葉を続けた。

「こういうのお前向きやないか、喜平次? 叔父上の許可はもうもろてある」



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