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若様のがっこう【第七話】


#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

「ねえねえ、玉丸? 覚えてるかい?」
「何を?」
 外廊下の上から逆さまになって客間の縁の下を覗き込みながら僕は尋ねた。目はいい方だと思うけれど如何せん探し物は小さいから見逃せない。
「あの幽霊さあ、この部屋から消える間際にどこか指していただろ?」
 ああ、そう言えばそうかもしれない―—僕は身体を起こして頷いた。火車は外廊下をぴょんと飛び跳ねると宙に浮いたままふわふわと寝転んでいる。
「覚えてるよ。もしかしてあれは……珠の在り処を指していたのかな?」
「いい気付きだろう? おいらってばほーんと仕事が出来るんだからさ」
 火車は宙を駆け足で歩きながらあの日の晩の再現を試みているらしい。僕もそれを真似てみる。
「えーと……あの幽霊がいたのはこのあたりだろ……それで……」
「確か僕はここに立っていてさ……確か……彼はあっちの方を指していたような……」
 幽霊の彼がぼんやりと指した先――そこは床の間だった。掛け軸が掛けられていて大きな壺が置かれてる。花器だろうか?
「……特に、なんにも落ちてなさそうだよね……?」
 僕が床の間に近付くよりも早く、火車が飛び跳ねるように駆け寄った。
 火車はしばらく掛け軸を見つめていたけれど、不意に壺の中に頭を突っ込んだよ。
 そうして叫んだ。もんのすごい大声で!
「ああああああーーーー! あーーーー!」
 僕は思い切り声をあげようとして、ぐっとそれをこらえた。
 いけない、いけない。ここには南の御殿の生徒もいるんだったよ。彼らには火車の姿なんて見えないし、火車がどんなに大声を上げても何にも聞こえないのだ。
「見つかった?」
 床の間へ寄った僕がこそっと声を掛けると、火車は壺の中を指した。
「中にある! 壺の中に丸いのが落ちてるぞ! これじゃないか?」
 僕は火車を壺からどかして小脇に抱えると、今度は自分が壺の中を覗き込んだ。
 壺の底に、確かに小さな丸いものが落ちてる!
 僕は静かに壺の中に手を突っ込んでそれを取り出した。壺を割ったら大変だから……そうっとそうっと、ね。
「やったあ! あったよ! これじゃない?」
 あちらこちらから歓声が上がる。
 僕は外廊下にいた忠広に駆け寄って、それを見せた。綺麗な薄紫色をした小さな珠だよ。
「……そうです。これです。私たちも同じものを拾い集めましたから」
 忠広の顔がようやく柔らかくなったよ。瞳には涙の膜が張って、次第にそれが分厚くなる。
「壊れた時に飛び散って壺の中に入っちゃったんだ。だから見つからなかったんだよ!」
「……やれやれ。足りない珠はそれで最後なんだろうな? いくつ足りねえのかもわからねえんじゃ探しようがねえぞ。お前らが拾い集めた珠は全部で何個だ?」
「さ、さあ……そんなのもう覚えてないよ……」
 忠広以外の南の御殿の生徒たちもみんな悲しげに首を横に振るばかり。
「チッ……使えねえ。これじゃ一体何個不足してるのかもわかりゃしねえじゃねえか!」
「若さま方? 何かお探しですか」
 総次郎に声を掛けたのは、小さな池の傍に立つ松の木の枝を見ていた庭師だった。白い髭がもさもさ生えてる。
「きらきらした珠っころだよ。小さい丸い石。数珠の珠みてえな奴さ」
「ああ。それなら、少し前にワシもいくつか拾いましたよ」
「ええ? 本当? やったあ!」
 蟹の寮の生徒が庭師に駆け寄って尋ねる。
「ひ、拾ったそれ、どうしたんだ?」
「まさか捨てちゃったんじゃあ……」
「庭先にいくつか落ちていたもんだから、ぜんぶ客間係のお方に届けました。毎日庭の手入れをしているが、それっきりもう見ておりませんねえ」 
 庭師は脚立を下りながら答えたよ。
 中庭はどの客間からも見える庭だ。御殿にも中庭はあるけれど、表の客間の中庭は学寮へやって来た客人を楽しませるようにと、いつも季節の花が咲いていたり、木も特に手入れがされている。小さな池があって、鯉が数匹泳いでいるよ。
「客間は毎日客間係が掃除をしているし、庭だってこの庭師が毎日手入れをしてんだ。これ以上はもうないんじゃねえか?」
 僕は総次郎の言葉にうなずいた。
「そうだよね。きっとこの壺の中から見つけた一つと、客間係が持ってるやるとで全部だよね!」
 僕は客間をもう一度見渡したよ。床の間の壺以外には、もう珠がうっかり入ってしまいそうなところもない。
 きっとこれで全部だよね! 無くしたロザリオの珠を集めたぞ!

 客間の廊下を出ると、忠郷が高笑いと共に現れた。背後に従えているのは客間係だ。揃いの萌黄色の羽織を着ている。
「感謝してひざまずきなさいよ、あんたたち! ロザリオの珠を見つけたわ!」
「本当!? 僕らも見つけたんだよ、ほら!」
 僕は大事に握り締めていたそれを、忠郷に見せた。
「あら……客間にもあったの?」
 忠郷は白い懐紙に包まれたそれを僕らにみせた。
 それは僕と火車が壺の中から見つけたのと同じ、薄紫色をした綺麗な珠だった。
「庭師が客間の庭先で拾って、客間係に届けていたんですって。ふたつあったわ
「そ、それじゃあ……これで……フランシスコは成仏出来るでしょうか?」
 僕らの手のひらの上のロザリオの珠を見つめながら、忠広が心配そうに言った。
「うーんと……そうだね……」
 たぶん、と僕は呟いて火車を見る。忠郷も、総次郎も火車に目をやった。
「なんだいなんだい。おいらに聞いてもそんなことわかんないよ。本人に聞いてみなけりゃあ!」
 そ、そうだよね……僕は火車に向かって小さく頷いた。
 専門家もああ言っていることだし、今夜にでもまた彼に会いに来てみよう。それでこの珠を見せて安心させたらいい。
「と、とりあえずまた夜にでもフランシスコ殿に会ってみるよ。だから、このロザリオの珠は借りておくね」
 忠広や南の御殿の生徒たちはみんな目に涙を浮かべていたよ。だけど、蟹の寮の三人の生徒を見て僕は何だか違和感を覚えた。
 彼らの瞳も潤んでいたけれど、ロザリオの珠が見つかって大喜びしている梅の寮の三人とは少し反応が違う。
 彼らは全員、何か考え事をしているように思えたんだ。時折顔を見合わせて無言のやり取りをしている彼らにはこれ以上まだ何か気がかりなことがあるのかもしれない。

 僕らは見つけたロザリオをフランシスコに返すと約束をして、南の御殿で梅の寮の生徒と分かれたよ。
 だけど僕は気になっていた蟹の寮の三人——寺沢忠次郎と毛利勘八、鍋島孫平太が踵を返そうとするのを見計らって声を掛けた。取り逃がさないように孫平太の腕を掴んでね。
「ねえ? 亡くなったフランシスコ殿はどんな人だったの? 三人もフランシスコ殿は自害なんてしないと思う?」
 三人はしばらく無言で考えていたけれど、不意に忠次郎が諦めたような表情で口を開いた。
「さあな……何を考えてるのかなんてわからん奴だったよ」
 勘八も「そうだそうだ」と後に続いた。孫平太がいぶかしげに僕の顔をじっと見つめている。
「お前らは一体なんでこんな噂にいちいち首を突っ込んでくるんだ。一体何の魂胆だ? お前らにゃあ関係ねえことじゃろ」
「え? 関係なくないよ。だって僕、昨夜フランシスコ殿に会ったんだもん」
 僕の言葉に蟹寮の三人の気配は明らかに動揺の色を示した。眉をひそめ皆顔を見合わせている。
「お前……本当にフランシスコを見たのか」
「見たし会ったよ。僕、そういうのはわかるんだ。フランシスコ殿は寂しそうで悲しげになくしたロザリオを持って客間に佇んでいたよ。誰かを恨んでるとか憎んでるとかそんなんじゃ全然なかった。彼の心細い気持ちが伝わってきてさ……あんな姿を見たら、関係なんかなくたって何か力になってあげたいと思うよ、僕は」
 忠広殿は正しいのだろうと思うよ。フランシスコは禁教を信奉する罪人だ、と彼を罵ることは簡単だ。
 だけどそれは同時にこの――彼の力になりたいという自分自身の思いを無視することになる。 
 大事なものは、心だ。
 僕は父上や傅役、実家のみんなからそう教えられているよ。心は宝、宝とは心――それがうちの《神様》、上杉謙信公の教えだもの。
「上杉の人間なら、例え見返りなんてなくたって自らの信じる道には背くべきじゃないからね」
「うえすぎ……?」
 忠次郎が繰り返したので、忠郷は僕に掌を翻した。
「ああ、あんたら南の御殿の生徒らは知らないわよね。こいつはあたしのおじいさまにケンカ売って米沢へ左遷された斜陽まっしぐらの超ド貧乏――上杉家の若さまよ」
「その紹介にはずいぶん悪意を感じるんですけど」
「斜陽まっしぐらの超ド貧乏でおまけにとんだちんちくりんだぜ」
「んもう!! 何なのさそのちんちくりんってのは!! 年上だからって偉そうにしないでよ。そりゃあ確かに僕はチビだけど!!」
 僕が飛び跳ねて抗議すると、総次郎も僕を睨み付けた。
「うちはてめえの実家の領国の倍は石高があるんだ。偉いに決まってんじゃねえか」 
「ちょっと……やめなさいよあんたたち。他所の御殿で見苦しい真似なんてしたら、御殿のぬしであるあたしの評判に関わるわ」
「もともと評判なんざろくでもねえのに、今更何の心配をしてんだてめえは」
 忠郷の悲鳴が廊下中に響き渡って、いくつかの寮の部屋の戸が開いた。まったく、どうして僕らってこうなるんだろう……蟹寮の三人も唖然としている。
「とにかく! 僕はフランシスコ殿にちゃんと成仏してほしいんだよ。大事なロザリオを見つけて彼の元に帰して、安心させてあげたいの。みんなだってそう思うでしょ?」
 三人はもう一度銘々顔を見合わせた。そうしてしばらく三人共押し黙っていたけれど、不意に忠次郎が突然総次郎に駆け寄った。
「お前……伴天連のことに詳しいというのは本当か? そこのそいつが言ってたぞ。お前も切支丹か?」
 忠次郎の視線を感じたのだろう。すぐに忠郷が
「ちょっと! 《そいつ》って……まさかそれはあたしのことじゃないでしょうね! あたしは北の御殿のぬしよ? そいつって何なのよ、そいつって!」
「俺は切支丹じゃねえよ。親父がイスパニアに興味があるからそのついでだ」
 忠次郎は忠郷の激高は無視して総次郎の腕を掴むとそのまま小声で尋ねた。
「懺悔、というのを……知ってるか?」
「ざんげ?」
「フランシスコの奴が言ってたんだ。切支丹は入信するとそれまでのどんな罪でも許されるんだと。だが、一度入信したらもう二度の入信は出来ん。また罪を犯した時は、神父(パードレ)に懺悔をすりゃあ罪を許して貰えるんだ」
「あーあ……なるほどな。神を信仰すると罪が許されるってのは聞いたことがあるぜ。どんな罪人でも神様が許して救ってくれるんだ」
 忠次郎は孫平太を見た。そうして勘八のことも。二人は強く頷いて、それぞれに口を開いた。
「……儂らが噂を流したんじゃ。フランシスコが死んだのは……自害じゃ、って……わしらにひどい責め苦を受けたせいで自害した、って……」
「ええ⁉️ みんながあの噂を?」
 勘八が頷く。
「幽霊の話はほんのおまけだったんだ。まさか本当に出るなんて思わなくて……」
「どうしてそんな噂を? あんたたち、東や西の御殿の連中があんたたち南の御殿の生徒のことをなんと言っているか……噂を聞いたことないの? ひどい噂よ? それを……あんた達が流したっていうの⁉️」
「ひどい噂でいいんだ。僕ら同じ御殿の生徒たちに酷い仕打ちを受けていたと……滅多打ちにされて屋敷へ帰り……そうして世を儚んで自害したんだって……それでいいんです」
 今度は僕ら三人が顔を見合わせる番だった。
「だって……かわいそうじゃ……フランシスコが」
 そう呟いた勘八の姿を見て、僕は蟹寮の三人が僕らや他の寮生たちを欺こうとしていたことをようやく理解した。
 これはもっとちゃんと話を聞く必要があるよ! 
 僕らは蟹寮の三人にもっと詳しく話を聞かせて欲しいとお願いした。そろそろ朝ごはんや授業の支度も始まるから、僕らは再び消灯時間になったら話の続きを聞かせてもらう約束をしたよ。
 今度は蟹の寮の三人が北の御殿へ来ることになった。
 ああ、夜が待ち遠しい――けれど僕らは将来の藩主となるべく学寮にいる。
 とりあえず勉強が本分の僕らは、どちらの寮の生徒も今日の授業が始まる前に慌てて自分たちの寮の部屋へ戻ったんだ。

 ***

 朝からとびきり頑張った僕らは意気揚々と自分の寮の部屋へ戻った。部屋へ戻ると今日は朝餉が三人分用意されていたよ。
 学寮での食事は三度出るけれど、生徒たちのそれまでの暮らしに合わせて割と融通が利くらしい。特に朝は食事をしない生徒も結構いるらしくて、いつもは僕だけが朝の掃除を終わらせて一人で食べるんだ。火車も朝には弱いからうんとねぼすけで起きてこないしね。
 いつも朝ごはんを食べずにギリギリまで寝ている総次郎や、そもそも朝はお腹なんて空かないっていう忠郷とも今日はいっしょに朝餉を食べた。やっぱり一人で食べるよりみんなと一緒の方が食事は楽しい気がするよ。僕は兄弟はいないけど、実家の屋敷ではいつも自分の小姓たちとみんなで食事をしていたからさ。
「勝丸、今日はまだ姿を見ないね」
 すると鈴彦が申し訳なさそうに僕らに言った。
「申し訳ありません。今日はちょっと……大事なお役目がありまして……」
「大事なお役目?」
 僕は驚いたけど総次郎と忠郷は思い当たる事があるみたいで仰け反ったり大きく項垂れたりした。
 
「父から聞いたよ。予想通り楽しい茶会だったらしいね?」
 剣術の道場で声を掛けてきたのは指南役補佐の細川忠利だった。名家の生まれとあって剣術やお茶のお点前などの腕前は大したものらしく、学寮でそうした授業を受け持っている。
「……うるせえな。頭が痛えんだからますます具合が悪くなることなんて言うんじゃねえよ」
「お抹茶でも点ててあげようか? めちゃくちゃ濃いやつ」
「はああ……頼むぜ。ちきしょう、命がまた一段と縮んだ気がすらあ」
 そんなことよりも――と忠利が言葉を続けるものだから、「そんなこととはなんだよ、そんなこととは!」と勝丸は怒りの声を上げる。
「保護者がここへ呼び出しを受けたんだぞ! あのろくでなしの生徒の保護者どもだ! 急に決まりやがって……とんでもねえぜまったく!」
「でもねえ……それどころじゃないよ。聞いたかい? 近々、上覧試合が行われるらしいよ」
 忠利は周囲を伺い、勝丸に小声で耳打ちした。
「なんだと!」
「剣術の上覧試合さ。私もさっき師範殿から聞いたばかりだよ。びっくりだよね。大方今日君の寮の保護者が急に呼び出しを受けたのもその前準備なのだろうと思うよ」
 忠利が視線をやった先には眼光鋭い屈強な剣術家がいる。
 将軍・秀忠公の剣術指南役も任されているという、学寮の剣術師範――柳生宗矩。新陰流という剣術の流派の宗家だそうだが、忠利もこの流派の門弟らしい。出来がいいので授業では師範代まで任される程である。もっとも、実戦じゃ勝丸だって負ける気はしない。

 上覧試合――それは学寮で時折行われる恒例行事である。

 学寮へ各地の大名家子息等が集められて二年あまり。それは一年に三、四回も行われるという生徒たちの授業の観覧会のひとつである。

「おええ……そういうものもあると話には聞いていたが……そんな面倒くせえ行事がとうとう……」
「まあね。ちょうど初夏のいい季節だしね。ここらで何か一発派手にやりたいんだろうさ。日々勉学だけだとみんな張り合いもないから」
 試合には将軍や徳川の重臣はもちろん、生徒たちの保護者にも便りが出され、観覧が推奨される。面倒な保護者ばかりが揃う鶴寮にとっては途方もなく気が重い行事となることは勝丸にも容易に想像がついた。
「君はまだここへ来て日が浅いから知らないと思うけど、剣術やお茶のお点前の授業の成果を発表する時は大々的にやるんだよねえ。特に剣術の上覧試合は上様のお気に入りみたいでさ。前回は東西の御殿の寮の生徒の試合がかなり盛り上がったんだ。ほら、東西には上様の弟君がいらっしゃるからね。だから……」
「だから?」
「前回試合をしていない寮の生徒は、今回試合をすると思うよ。例えば君の寮とかね」
 勝丸は無言で忠利を見つめる。
「……へえ。なるほど? うちの寮が?」
「北の御殿は前回の上覧試合じゃ割菱の寮が試合をしたんだけどさ……まあ、存外大変な有様でね」
 勝丸と忠利は道場の隅で声をあげている三人に目を向けた。北の御殿・割菱の寮生である。
 一番小柄な生徒が、頭から黒いずきんをすっぽり被った生徒に食って掛かって暴れている。
「こらあああ……だ、だめだろ権平……大人しくして! さあ、授業が終わったんだから部屋へ帰ろう」
 それを押さえているのが一番身体が大きな生徒——松前甚五郎である。権平と呼ばれた小柄な生徒は不思議な羽織を着ていた。背中から伸びた手綱のようなものを甚五郎が強く握っている。
「前から思っていたが、おかしなものを着てるなああいつ」
「珍しいだろ? 熊に着せるものらしいよ。蝦夷の島の民というのは、拾った子熊にあれを着せて人のように育てるらしい。南部権平はずいぶん暴れるからなあ……熊というのも言い得て妙だと思うよね」
「そもそも、南部権平は実家でも手に負えない暴れん坊だからってんであの歳で学寮へ入れられてんだ。どうかしてるぜ、まったく。そういう使い方をするところじゃあねえだろう、ここは」
「甚五郎殿も大変だなあ。南部と津軽の板挟みになっちゃってさ」
 三日月が丸くなるまで南部領――と謳われたほど、かつては陸奥に広大な領土を有したという南部家と、そういう家から独立して大名となった傑物を要する津軽家はまさに不倶戴天とも言うべき間柄だった。当然学寮の教師陣も知っている。
 だからといって南部権平が隙あらば同寮の津軽熊千代の命を狙っていることはもちろん見過ごせない。
「……だのに、そんなあぶねえ割菱の寮には護衛役さえいねえってんだから、ここも存外闇が深えじゃねえかよ。所詮守られるべきは徳川のお血筋の生徒だけってこった。そういう生徒がいねえ寮に主務が配置されねえということは、奥州の田舎大名から出仕してる連中なんぞクソ喰らえということだろ?」
「まあねえ……しかし、南部と津軽の対立は本人たちの問題だからなあ。それを学寮の側がどうにかしてやる義理もないというか……要するに人手が足りないんだよ。私なんて江戸で暇そうにしているというだけの理由でここで働かされているんだからね」
 名家の三男坊はまったくお気楽なものだ。
 しかし――勝丸はどうにも解せない。
 御殿の寮編成は学寮長や将軍様が決めたと言われている。領国が近しい、国境を接するような家から出仕した生徒同士が一つの寮に纏められていると。
 しかし、不倶戴天の間柄である南部と津軽とを一つの寮にまとめる理由がはたして本当にあるだろうか? 
 自分の寮生である伊達や蒲生、上杉だって決して仲が良いとは言えない。むしろ乱世の時代からの禍根があるのだから、とにかくこの三家を一所に揃えたこともまずかった。
 例えば、従兄弟同士であるという蒲生の若殿と南部権平とを同寮にし、そこへ歳の割にタフな上杉千徳を加える。上杉というのは万事我関せず勝手に好きなことをしているような家風であるから、忠郷と権平が仲良くしていれば独りで好きなことをして過ごすだろう。
 そうして隣の寮には最年長者で面倒見もよい松前甚五郎と伊達総次郎とを揃え、色々と身の上に事情があるという津軽熊千代の様子を見てもらう――これだけでも今よりずっと喧嘩や揉め事が減るだろう。とにかく、南部と津軽、蒲生と伊達を離すだけでもいい。
(……それなのに、現実はこの寮編成。こいつは考え得る限り最も悪手な編成じゃあねえかと思うがねえ)
 勝丸は遠巻きに割菱の寮生らと鶴寮の生徒らを眺める。
 自分の仕事は生徒の護衛だ。
 特に、徳川の血筋に近しい生徒。つまり蒲生忠郷の護衛こそが最優先、ということになる。
 当然、武芸の稽古も監視する。
 ただ、彼は武芸の授業には一切参加しないのが常だった。今日も道場の壁に持たれて一人腰を下ろしている。
「上覧試合なんて言ったって……蒲生忠郷はあんな調子なんだぜ? ここへ来て木刀も竹刀も握っているのを一度も見たことがねえよ」
「そうだよねえ。だから一体どうするのかなあと思ってさ。忠郷殿は御母上さまがもんのすごくうるさいんだよ。剣術だの馬術だの、そういう危ないことは一切させるなとお達しが来ているらしくってね……剣術の試合だなんてとてもお許しにはならないだろうなあ。でも、三人一組の寮対抗試合だから……」
 蒲生忠郷が試合を欠席するということは、不戦勝で鶴寮に一つ黒星が付くということを意味する。
 そんなことを他の二人――もとい、二人の保護者たちが許すだろうか。
 出来の良い嫡男をとにかく自慢している伊達政宗は上覧試合でも息子の活躍を楽しみにしているに違いないし、武芸の上覧試合ともなれば尚武の名家を自称する上杉にとってもひどく重要であることは間違いない。
「……こりゃあ、また面倒なことになるに違いねえじゃねえかよ」 
 勝丸は数刻前の茶席での保護者たちの様子を思い出して、いよいよ頭痛がひどくなるのを感じた。


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