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若様のがっこう【第八話】


#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

 その日の夜、僕らは消灯時間の前に準備をしておいた。
 南の御殿の蟹の寮の生徒から借りてきたフランシスコのロザリオと、今日、僕らが見つけたロザリオの珠を一緒に僕らの寝所に置いた。一緒に総次郎が持っていた小さな絵も置いたよ。僕にはよくわからなかったけど、総次郎が言うにはキリシタンが好きそうな絵だっていうからさ。
 忠郷は《マリアさま》の絵じゃないかって言っていたけど、総次郎にも何の絵かはよくわからないんだって。
「あんたの父親もわけわかんない奴ねえ……何を描いたのかよくわかりもしない絵を大金払って買う神経がわからないわよ」
「うるせえなあ……こういうのは感じるものなんだよ! 理屈じゃねえんだ!」
 とにかく、フランシスコが喜んでくれればいいけど……僕は祈るような気持ちを胸に眠りについた。

 そうしてどれくらい深く眠っていただろう。

 僕はユサユサと自分を揺り動かす力で目が覚めた。顔にかかるふさふさとした長い毛で枕元に火車がいることがわかる。
「来たぞ! あいつだ! なんとかなんとかって名前のあの幽霊が来たよ!」
「ええ? ほんと? フランシスコ?」
「ほらあ! お前らも起きなよ! なんとかなんとかが来たぞ!」
 火車は声を張り上げて忠郷と総次郎を呼んだ。総次郎は寝起きが悪いから、身体の上に飛び乗ってびょんびょん飛びはねる。
「はああ……いったいなにごと?」
 忠郷がこちらを眠そうに見たので、僕は足元の方を指した。
 そこにはもやもやとした人の姿をした何かが、僕らに背中を向けてしゃがんでいる。
 総次郎の絵を眺めているんだとわかった。
《……マリア様だ。マリア様の絵だ……》
「やっぱりね。そうだろうと思ったわ! 蒲生のおじいさまが大事にしていた石像に似ている絵だもの」
 忠郷の声に幽霊は身体を震わせた。
 聞こえるんだ、忠郷の声が―—僕は身体を起こして彼に近寄った。
「ねえ、君は……フランシスコ殿でしょう? 南の御殿の、蟹の寮にいた生徒だよね。夕べも客間で会ったよね。覚えてる?」
 振り返った生徒は、絵に向かって手を合わせていたよ。彼の細い手首には、薄紫色をした石で出来た数珠が巻かれていた。
「ああ、それって……もしかして……」
 生徒は僕の顔を見て頷いた。その顔はうれしそうに笑っていたよ。

《……珠を集めてくれてありがとう。ロザリオが壊れちゃって、ぱらいそに行けなかったんだ。それで困っていたの》

「ぱらいそ? ぱらいそって?」
「それは聞いたことあるわね。極楽浄土のことでしょ。キリシタンって極楽のことをそう呼ぶんだわ」
 忠郷の言葉に、フランシスコは笑ってうなずいた。
「よかったあ。じゃあ、もう大丈夫なんだね。何かやり残したこととか心残りとかはない?」
「あんた……南の御殿の連中にいじめられていたんでしょ。恨んだりしてるんじゃないの? 復讐するつもりで学寮に化けて出たんじゃないの?」
 フランシスコは首を横に振った。ロザリオをそっと撫でている。

《そんなのはへっちゃらだよ。学寮にいる間は……神様にお祈りしたり、歌を歌ったり……自由に出来てうれしかった。実家にいたらそんな風には出来ないもの》

 すると、フランシスコは僕の顔をじっと見て言った。
 僕には夕べ客間で見たときよりもずっとずっとフランシスコの声がはっきりと聞こえたよ。ロザリオが戻ったせいかもしれない。

《ねえ、みんな……気をつけて……》

 ようやく総次郎が身体を起こした。寝ぼけまなこでフランシスコを見る。

《ぼく……学寮のみんなには誰にも言わなかったけど……ずっと変な勧誘をされていたよ》

「勧誘?」
 フランシスコは静かに頷いた。そうして背後を振り返る。
 彼の視線の先には忠宗の絵があったよ。マリア様、という僕の知らない女の人の絵。

《パードレの教えは将軍さまに禁止されてる……だけど、大阪の豊臣家に味方をすれば、その信仰を許してあげるって言われたんだ……》

「一体どういうこと⁉️ 誰があんたにそんなことを言ったの?」

《僕……それで、兄上に相談したんだ。僕の兄上は大御所にもうんと信頼されてるんだよ……だから、徳川の家を裏切るなんて絶対に出来ない。僕が死んだのは……仕方ないことだったんだ》

「お前を大阪の豊臣家に誘ったのは……まさか、学寮にいる人間なのか?」
 フランシスコは総次郎の問い掛けに頷いた。

《気をつけて……みんな。そいつ、他の生徒にもきっと……声をかけているよ。みんなの願いを叶えるのと引き換えに……徳川の家を裏切るようにって……豊臣家に味方するようにって……そいつ、そう声をかけているよ》

 すると、フランシスコの姿が大きく歪んだ。ふにゃふにゃになって、霧のような靄へ変わっていく。
「さあ、お別れだぞ。もうこいつはあの世へ行かなきゃならないんだ」
 火車がフランシスコの幽霊に近寄りながら僕らへ言った。
「もう迷わず行けよな! おいらの担当は地獄だから、お前が行く場所のことなんて知らないんだぞ。道に迷ったって案内なんか出来ないんだからね。仕事もお休み中だしさ」

《みんな……ロザリオの珠、見つけてくれてありがとう。これで僕も母上や弟のいるぱらいそに行けるよ》

「み、南の御殿の生徒たちも……悪いことをしたって言ってたのよ。あんたのロザリオを壊したことを謝っていたわ。悪いことをしたって……だから……」
 ぼんやりと透けたフランシスコの顔は笑っていたよ。僕はなんだかその表情には見覚えがあって、だけど少しも思い出せなかった。

 フランシスコが消えると、そこはまたいつもの僕らの寝室に戻った。 

「……なんだ。ロザリオの珠、ここに残っているじゃない」
「馬鹿だなあ、お前も。幽霊がこんな物質的なものをあの世へ持っていけるわけないだろー。これはあいつの実家にでも帰して、一緒に墓にでも埋めてもらうんだな」
 馬鹿、なんて言われたのに忠郷は火車に文句も何も言わなかったよ。
 ぼんやりと畳の上に残されていたロザリオとロザリオの珠を見つめて忠郷はつぶやいた。
「……ひどいことをされたっていうのに……それでもあんな風に笑って許せるものかしらね……」
「あの様子じゃあいつ……やっぱり自害はしてねえだろうな。ぱらいそに行くってことはつまりそういうことだ。自害なんかしてたら教えに背くことになる。ぱらいそには行けねえだろ」
 それよりも、と言葉を続けた総次郎はみけんに深いシワを作って僕と忠郷と火車の顔もにらみ付けたよ。
「……あいつが言ってたこと……お前らも聞いただろ?」
「ああら。てっきりあんたはまだ夢の中にいるかと思ってたのに、聞いていたわけ? 徳川の家を裏切るように声をかけている、ってやつでしょ」
 忠郷はおぞましいものを見るような目で忠宗を見た。
「信じられないわよ……だってここは、徳川の……将軍さまのお城の中なのよ? そんなところで、徳川の家を裏切って豊臣の家の味方になれなんて……そんなことをあたしたちに言うやつがいるなんて……」
 その時、僕は気が付いたよ。
 僕は壁に立てかけるようにして置いていた総次郎の絵を指して言った。
「その絵、役に立ったね。フランシスコが見てたもん!」
「ほらみろ。南蛮人や切支丹の連中はみんなこいつが好きなんだ」
「やっぱりマリア様の絵だったじゃない。フランシスコもそう言ってたでしょ? 何の絵かだけでもわかってよかったじゃない」
「関係あるもんか。どうせ女の顔が気に入って南蛮人から買っただけだぜ、親父のやつ」
「でも、総次郎だって気に入ってる絵だからここに置いてるんでしょ? 女の人の顔気に入ってるんでしょ?」
「やかましいな! ありがたそうな絵だから置いてんだよ!!」
 別れ際のフランシスコの顔を思い出して僕は気が付いた。
 それは本当に静かで、穏やかな微笑みだった。
 まるで、絵の中の美しい女の人の表情とそっくりだったよ。

 ***

「おうおう、お前なあ……もうちっとしっかりやれよ」

 翌日、幾つかの御殿の寮が合同で行う剣術の稽古で総次郎に声を掛けてきた生徒がいたよ。僕は全く知らない、他の御殿の生徒だった。
「……何か用か」
「お前、さっぱり上手く行ってねえじゃねえかよ! 話を聞いて驚いたぞわしはー」
 大仰に落胆するその素振りがなんだか面白くて、僕も挨拶をしておこうと思ったよ。総次郎も鬱陶しそうにしていたしちょうどいい。
「お初にお目にかかります。僕はここの新入りです。総次郎と同じ寮!」
「おー、そうかそうか。わしは西の御殿におるから、新入りなんぞ知らんかった」
 その生徒は池田左近と名乗ると、総次郎を指して言った。
「お前もこの唐変木に何か言ってやってくれ。こいつわしの妹を嫁にもらえる果報者じゃと言うのに、ちっとも仲良うせんといつまでもシカト決め込んで妹を泣かせよる。文の一つでも書いて送ったらんかい!!」
「嫁⁉️ 総次郎って嫁がいるの⁉️」
「馬鹿か。実家が決めた許嫁だ。跡取りなら誰だってそれくらいいるだろ」
 あっそう――僕は視線を泳がせた。うちにはそんな話はちっともない。
「仲良うしてやれとあれこれ言うとるんだがこいつさっぱりだ。まったく甲斐性のない男で困っとる」
「女の子を泣かせるのはよくないなあー」
「泣かせてねえよ! 大体、この間の顔見せだってそっちの妹が何も喋らなかったんじゃねえか。ずっと睨み付けられてたぞ!」
「阿呆! おなごがそう簡単に男とぺらぺら喋るかよ。うちの妹はそんな軽い女ちゃうわい。お前の方から仲良うしてやるんが筋やろが。向こうが喋らんからこっちも喋らんーーなんて、伊達ごとき奥州の田舎もんが池田の家と何を張り合おうっちゅうんじゃ」
 池田家は姫路の領国を治める藩主一族だ。確か蒲生の家のように大御所様と親戚関係だったはずである。外様大名でも徳川と姻戚関係にあれば御家も安泰だろう。上杉なんかとは違って……。
 総次郎の引きつった顔を見るにどうやら左近の指摘は図星らしい。
「まあ……仲良くなったらそのうち喋る」
「だーかーら! 仲良くなるにはまず喋らんと! せめて挨拶くらいは出来るようになれよお前!」
 左近の言葉に総次郎は項垂れてしまった。
 こんな様子の総次郎は初めて見るよ。なんだかすっごく面白い! 
 総次郎は学問も武芸もよく出来る方だし字も上手くてとにかく割と何でも出来る万能な若様ですごいと思っていたからさ。
「まったく……ええか! 上覧試合ではがんばってええところを見せろよ。お前の為に勝つくらいのことは言ってもええぞ!」
「はあ? 今度は一体何の話だよ⁉️」
 こんなに青い顔をしている総次郎は珍しい。賢い総次郎でも頭が追いつかないことがあるのだ。
「じょうらんじあい?」
「おなごにええ格好するにはうってつけじゃろ。当然うちの妹も見に来るぞ。せいぜい頑張らんかい。噂じゃあお前らの相手、南の御殿の藤寮じゃねえかって話だ。勝てば一気に名を挙げる好機やな」
「藤?」
 僕と総次郎が顔を見合わせているのがわかって、左近が声を荒げた。
「北の御殿の連中はほんま何も知らんな! 藤の寮はほれ、学寮最強――あの鍋島元茂がおる寮やろが。柳生の門弟の一番弟子じゃ。三人がかりだって倒せやせん!」

 ***

 学寮長様からのお知らせが各御殿の全寮に配布され、上覧試合の一件はすぐに全生徒の知るところとなった。
 忠郷はこの世の終わりを知ったような顔付きで震えていたよ。

「……信じられない。秀忠叔父様まで観覧にいらっしゃるなんて……」

 お知らせを見た忠郷はふらりと大きく揺れたかと思うと、がっくりと膝を付いて崩れ落ちて動かなくなった。
 忠郷が言う「秀忠叔父様」とはもちろん、江戸城の本丸御殿で仕事をしている将軍――徳川秀忠様のことだろう。
 大御所様――徳川家康を祖父に持つ忠郷にとって確かに将軍様は《おじさん》なのだろうけども。
「うわあ……やっぱり左近殿が言っていた通り。僕らの寮が南の御殿の藤寮と対戦するんだね」
 学寮では武芸の稽古の授業が勿論あって、定期的に腕試しの試合が行われている。その結果で番付が作られていることを僕もつい最近知ったよ。
 番付は御殿に張り出されているから僕もこれを見たことがあった。
 番付の序列は腕試しの試合の度に入れ替わるのだけれど、序列の最高位――つまり、学寮の剣術の腕前第一位は学寮創設以来不動と言われていた。
 柳生師範の門弟・新陰流の免許皆伝も目前と言われる学寮最強の剣術家、鍋島元茂。
「こんなん絶対勝てっこないじゃん。だって学寮の剣術の稽古以外に柳生師範の門弟達とも稽古してるんでしょ?」
「ああ……おまけに将軍様の若君の太刀打ち役だ」
「太刀打ち役って?」
「だから、将軍様の若様の剣術の稽古にも参加してんだよ。親父も柳生の門弟らしい。出来が違うぜ。細川の師範代が言うには《天才》だとさ」
「て、てんさい……」
 僕はなんだか目眩がして気分が悪くなってきた。僕らの三倍、四倍は剣術の稽古を積んでいる新陰流最強の門弟相手に勝ち目なんかあるだろうか?
「しかも個人戦ならともかく、なんで寮対抗の団体戦なんだよ」
 信じられねえ――総次郎はお知らせの書状を見つめて舌打ちをした。僕だって剣術の稽古はしているけれども年の差もあって総次郎には一度も勝てたことがない。その総次郎でさえ元茂に対してはこの反応なのだ。
「なんでもクソもねえや。お前ら鶴の寮の三人がそれぞれ南の御殿の藤の寮の生徒三人と試合をする。勝った数で勝敗が決まる――剣術の上覧試合はこれまでもそういう形でやってんだとよ」
 知らせを持ってきた勝丸が腕組みをして僕らに言った。
「だからなあ……忠郷? お前も試合には絶対に参加せにゃあならんからなあ! まさか不参加なんてことになったら、それだけでうちの寮にひとつ黒星がついちまう」
「嫌だわああああああ! 剣術の試合なんて絶対に嫌! お断りよ!」
 忠郷はうずくまったまま大声で悲鳴を上げた。
「剣術なんて……そんなの顔をぶん殴られたらどうするのよ。痣でもついたらどうするの。痛いし、醜いし……絶対に嫌……」
 ついに忠郷は泣き出した。総次郎は呆れたように忠郷を見つめている。
「ねえ忠郷? 大丈夫だよ。竹刀を使えば死んだりしないし、傷だってすぐ治っちゃうよ。腕がもげたり血が出たりはしないんだよ」
「知っっっっっっっってるわよそんなことくらいは! 馬鹿じゃないの!? だけどあの袋竹刀だってまったく痛くないってわけじゃないじゃない! 傷だって出来るしあざも出来て腫れたりするわ! ぜんぜん大丈夫なんかじゃないし冗談じゃないわよ! あたしは会津藩主なのに!」
 肩を叩いた僕の手を振り払う忠郷。
 総次郎は勝丸に目をやると、忠郷を無言で指した。どうにかしろと言いたいらしい。
「忠郷? お前は何度かここの上覧試合も経験があるから知っとるだろ。上覧試合はお前らの親も見に来るし、勝った寮の生徒には将軍さまが直々にお褒めの言葉や褒美をくださるんだ。せいぜい頑張りな! 不戦勝なんて許されるわけねえだろ。お前は将軍様の甥っ子なんだ。無様な姿は許されねえぜ」
 忠郷は泣き続けている。首を振って
「嫌だわあああああ!」
 と一際大きな声で叫んだ。
「……本当に親が観に来るのか? この間は来なかったぜ」
「ああ、春の歌詠み会か。あれはまだ冬も終わってすぐのことだったし、お前さんたち出羽や奥州の大名の領国は冬はにっちもさっちもいかんだろ。それでだとさ。剣術と茶の湯の観覧会は派手にやるらしいぜ。既に学寮長さまが生徒の保護者たちに書状を送る準備をしとるわい。お前ら二人もせいぜいうんと稽古をしとくんだな。どこの生徒の保護者もえらく気合を入れて観覧にくると聞いたぜ。お前さんたちの親はちょうど今江戸にいるんだし、よかったじゃねえか」
 珍しく総次郎も落胆した様子だ。それを楽しげに眺めて、勝丸は
「いいか、バカども!」
 と声を張り上げた。
 僕ら鶴寮生の一人一人をじっと睨み付けるように見つめて言う。
「剣術なんてのはなあ、そもそも戦場じゃあこれっぽっちだって役になんぞ立たん! ましてやてめえらは将を指揮するお家の御大将になろうって輩どもなんだから尚更だ。お家の総大将が一対一で刀でやり合うなんてことがそうそうあってたまるかよ」
 そりゃあそうだ。
 しかし――必要とあらば一人でも馬を走らせて敵陣に単身切り込んで行くのが僕の大叔父という人なので、それを考えたら僕も剣の腕前は磨いておかなくちゃと思う。何があるかはわからないし。
「それでも将軍様がそいつの出来不出来を重要視なさるのはな、偏に剣術ってのは日々の鍛錬、小さな稽古の積み重ねが大事だからだ。こいつはお前さん達がここで真面目にそういうものに打ち込んでいるかどうかを見極めるための試合なんだよ。勝ち負けが全てじゃねえ。わかったかよ、蒲生忠郷!」
「いやよ! 冗談じゃない。そんなこと言って、みんな影で剣術なんかしたこともないあたしのことを指差して笑うつもりなんでしょ。知っているわよ! 第一、あたしはここで剣術や武芸の稽古なんてしないことになっているんだから、そんな試合には最初っから参加する道理がないじゃない。積み重ねたものなんて何もないんだから!」
 忠郷は涙を流しながらそう言うと再び頭を抱えてうずくまってしまった。「あーあ……また泣かしちゃった」
 僕がそう言うと、勝丸は泣き止まない忠郷を見つめて首を振った。
「ちょっと前まではあんな歳でも殿様だって言うなら軍勢引き連れて戦に行かにゃあならなかったんだ。元服を済ませるってのはそういうことだぜ。てめえは何も出来なくったって具足を付けて本陣に座らされて、戦に負けりゃ打首だ。それなのに……竹刀で打たれるだけでこの大騒ぎ。まったく、どうしようもねえ時代になっちまったもんだぜ」

 僕はわかるのだ。
 こういう、人の心がささくれ立つその瞬間の気配が。
 その場にいる皆々の心にまるで石のような重い何かが投げ込まれて波紋が生まれるその刹那、人の気配も明らかに変わる。
 あまりこういうことには神経を尖らせるなと父には言われているけれど無視出来ないことはもちろんあるよ。
 忠郷の深い深い悲しみと恐怖。
 総次郎も明らかに勝丸に不満を抱いている。
 それは燃え上がる業火のような、強い怒りの感情だった。

「でもさあ、勝丸? 忠郷は学寮で一度も剣術の授業に参加していないんだよ。それなのに僕らとおんなじ条件で試合に出ろって言ったって……」
「だからって特別扱いなんぞせん! そもそも授業を見学出来るなんてこと自体がおかしいだろ。どの授業も将来の藩主になるために必要な要素というからてめえらに学ばせてやってんのに、もう藩主になっとる奴がそれを出来んというんじゃあ話にならんぜ。土台おかしいと思ってた」
 勝丸はいつも言葉が荒々しく僕ら生徒にも容赦がないけれど、今日はいつにも増して口調が強い。忠郷を責める手を緩めようとはしなかった。

「俺の親父はなあ、武田の家来だったんだ。武田の家なんてのは信玄公の時代には無敵と恐れられていたもんだが、息子の代になったら途端に傾いた。滅亡するまでたった十年……理由がわかるかね、若さま? 跡目を継いだ御方は信玄公の実の息子さな。親父に似て存外戦も強かった。だのにどうして滅びたか……理由は一つしかねえ」
 勝丸の気配が濃くなり、刹那、罵声に近い声が部屋を駆け巡った。

 ーーそいつが大バカだったからだよ! 

「でなきゃ、親族からさえ見限られるなんてわけがねえ。どんなにご立派なご家来衆がいたって、強え騎馬武者がいたって、上に立つ人間がバカじゃあどうしようもねえんだ。お前さんみてえなどうしようもない若様を見ていると反吐が出る。こんな野郎が今に人の上に立って殿様をやろうってんだから悪夢以外の何者でもねえじゃねえか。教育するにしたって限度があらあ。腐った性根までは直せねえよ」
 勝丸は虫のようにうずくまる忠郷を一瞥して言った。

「そうかなあ……僕はそうは思わないけど」
 僕がそう言うと、勝丸は途端に不機嫌そうにこちらを睨みつけた。
 でも僕は全然平気である。機嫌の悪い直江山城守の方がもっと全然手に負えないから。
「落ち着いてよ、勝丸。僕らようくわかったから」
「はあ、なるほど……では千徳殿。一体何がどうわかりましたか」
 小馬鹿にしたように勝丸が言うもんだから、僕も一呼吸置いて言ってやった。

「負け戦って辛いんでしょ? 父上が言ってたよ。国が滅びることはとても言葉でなんか言い表せない。想像するだけで怖いよ。恐ろしいよ……痛いだろうし、辛いだろうし……」
「お前さん、何が言いたい?」
 勝丸は明らかにイライラしていた。けれども槍衾のように舌鋒鋭いうちの養育係の口撃に比べたらこんなのは屁でもない。
「勝頼公を馬鹿だと勝丸が思うのは、勝丸が辛い目にあったからじゃないの?」
 勝丸からの口撃はなさそうだったので、僕は続けざまに言った。 
「そうしてそれは全て武田家の滅亡に理由があると思ってる。御家が滅びてきっと勝丸のお父上は酷い目に遭った。そうして自分もそれに巻き込まれて辛かった……たぶん、きっとうんとうんとね。だから武田の滅亡を恨んでる。勝頼公を絶対に許せない。勝頼公は馬鹿で愚かだったと信じてる――そうでないと困るから」

 心というものは気配にひどく影響を及ぼすものなのだ。
 どんなに気配を殺していても、心に乱れがあれば気配は生まれる。一瞬、勝丸の気配が強烈に強張るのがわかって僕は少しだけ声の調子を落とした。

「僕らはね、勝丸? 藩主になろうと思ってるんだよ。だから当然、自分が間違えたり上手く行かなかったことの皺寄せや報いが家臣や領民に降りかかることを知ってる。人から恨みを買うことも当然あるって聞いてる。人質に出されてある日突然殺されるような運命にあることもね。だから勝丸にそこまで恨まれる勝頼公のことを可哀想とは思わないけど、だからって忠郷をそんな風になじるのは見過ごせないよ」

 傍で感じる総次郎の気配が落ち着いてきたのがわかる。それが自分に同調しているように感じられて、僕はなんだか味方を得たような気持ちになった。
「大人ってのは大体こんなもんだぜ、千徳。時々ブチ切れてわけわからん理屈をこね出すんだ」
 総次郎は腕組みをして勝丸を睨みつけている。彼もずいぶん腹を立てているようだった。
「手前勝手なことばかりぺらぺら言いやがって……胸糞悪いんだよ! 学ばせてやってる? 冗談じゃねえ! 何を得意面して偉そうに……こんなことは全部お前らが勝手な都合でやってる自己満足じゃねえか。どうしようもねえ時代になったのは、てめらがどうしようもねえ連中だったからだろ? てめえらがこんな世の中にしたくせに、俺達にそれをグチグチ不満なんか垂れやがって冗談じゃねえ! てめえの親父が敗残兵になった尻拭いまでしてやるほど、俺達はヒマじゃあねえんだよ。金で女でも買って慰めてもらいやがれ」

 総次郎はダンと強く脚を鳴らして叫んだ。

「藩主になったこともねえ野郎に、これから先もなる可能性のねえ奴に、こいつが屑だなんだととやかく言われる筋合いなんかねえんだよ!」

 僕は驚いた。学寮へ来て、忠郷を庇うような総次郎を初めて見る。
 僕は一呼吸置いて勝丸を見た。
 こういう時にこそ落ち着きが肝心だ。常に相手の出方をよく注視しなければいけないよ。
 しかし勝丸が何も言葉を返してこないので、僕は言葉を続けることにした。

「僕は母上が武田の家の出だからね。武田の家のことについてはちょっとは詳しいつもりだよ。ああ、僕を産んだ母上じゃないよ。父上の最初の奥方。甲斐の母上はもうずうっと昔に死んじゃったけどさ、色々と話は聞いているもん。だから言うわけじゃないけど、武田の家が滅びた要因なんて敢えて一つ上げるとするならそれは勝頼公がうちと同盟を結んだせいじゃないかなあ。なんなら僕よりもっと事情に詳しい人に聞いてみる? 文を書いてあげようか、父上に」
 僕がそう尋ねると、勝丸は
「まったく……やっぱりお前さんはあの執政殿の息子だわな。お喋りがすぎるぜ」
 と言って、いつものように大きな足音を立てて部屋を出て行ってしまった。

 いつの間にか忠郷が身体を起こしていたよ。視線の定まっていない瞳がぼんやりとこちらを向いている。
「はああ……なんだかめちゃくちゃ空気悪い感じ。どうしよう?」

 だって……この様子じゃあ、鶴寮は上覧試合に一つ黒星が付くことがほぼ確定したも同然なんだもの。
 おまけに戦う相手は学寮最強の腕前を持つ柳生の門弟が在籍する南の御殿・藤寮だ。
 その上、僕らを護衛するという主務殿さえご機嫌斜めなのである。
「……どうするもなにもねえだろ。こうなったら、あれだな」
「何? 何かいい案でも思いついたの?」
「……先方、中堅、大将とくりゃあ鍋島の野郎は当然藤寮の大将で試合に出るだろうから、俺たちは大将をこいつにするしかねえ」
 総次郎が忠郷を指して言った。彼のことは見もせずに。
「はあ!? 忠郷が大将!? 戦いもしないのに大将!?」
「もうこいつのことは捨て置くしかねえだろ。三人一組の寮対抗戦なんだから、三回試合をして二勝すれば自動的に勝ちが決まる。それなら俺たちが先方と中堅とでまず確実に二勝するんだ。学寮最強の剣士殿にはこのクズをあてがうより他に方法がねえよ。こいつが負けても俺たちが二勝して勝つ」
 クズ――さっき勝丸が同じ言葉を言っていた時にあれほど怒っていたとは思えない。
 でも、いつもなら絶対憤慨するだろう言葉なのに、忠郷は何の反応も示さなかった。ただ呆然とそこにいるだけで。

 その時、庭から風がざあっと吹いてきて僕らの文机の上の紙を何枚か巻き上げた。草木のそよぐ音と一緒に、どこからか小さな鈴の音も聞こえたよ。

「あ、あのう……忠郷さま」

 小声で僕らの部屋に声を掛けたのはお部屋番の鈴彦だった。
「ああ、鈴彦ごめんよ。どうしたの?」
「だ、大丈夫ですか……主務殿が……」
 部屋へ入って来た鈴彦だったけれど、すぐ廊下を覗いてしまった。
「気にすんな。機嫌が悪いんだよ」
「しゅ、主務殿にもお伝えしようとしたんですけど……なんだか断られてしまって……あ、あの! 忠郷殿のお母上様が急に学寮へいらして、ご面会をと……」
「ええ? 忠郷の御母上?」
 僕と総次郎は忠郷へ目をやった。
 普通、面会というのはこんな直前に聞かされるものではなくて、事前に予め知らされておくべきものなのだ。
 例えば前日、例えば当日の朝――しかし、昨晩も今朝も僕らの誰にもそんな様子はなかった。

「……わかったわ。そんなことじゃないかと思ってた」

 忠郷はゆっくりと立ち上がった。
 ふらふらと歩き出すその姿は、まるで現世を彷徨う幽鬼のようにも思えたよ。顔は青白く覇気がなくて長い髪の毛が乱れている。忠郷は自分の見た目が何より自慢だからいつもの彼なら絶対こんな姿で部屋の外には出ようとなんてしないのに。
「忠郷……大丈夫? 休んでいた方がいいんじゃない?」
「大丈夫よ、千徳」
 部屋を出る刹那、忠郷は僕を振り返った。ちらりと総次郎にも視線を向ける。

「……蒲生の家は代々短命なんだもの。おじいさまだって父上だって早死したわ。あたしだって……どうせすぐに死ねる。全てはそれまでの辛抱なのよ」
 
 ぴしゃりと部屋の戸が閉められて、僕は彼から拒絶の意を悟った。

 忠郷が纏わせるそれは奈落に落ちたような真っ暗でぬるりとした気配――遠ざかるそれを感じながら僕はたまらなく不安な気持ちでいっぱいになった。
 その気配を、世間の大人達は《絶望》と呼ぶのだ。


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