若様のがっこう【第四話】
その日、僕ら鶴の寮の三人は僕が寮へやって来て初めて消灯前の自由時間をいっしょに行動していたよ。
そう! みんなで幽霊の噂を確かめに行くのだ。
「火車はね、うちにある脇差しにくっついてる化け物なんだよ。こいつはむかし悪さをして僕の父上に脇差で喉元を切りつけられたの」
僕は声を抑え気味にして二人に説明をした。御殿の廊下はすっかり暗い。だから生徒の人影もなかったよ。
寮の部屋の入り口に置かれた灯りだけが暗がりに点々と並んでいる。消灯時間になるとこの灯りもお部屋番が消す決まりだ。
「それ以来こいつはその脇差しの持ち主には逆らえずにこき使われているんだよ。脇差しは元は謙信公の物だったんだけど父上が譲り受けてそれから僕の母上にあげたんだって。いずれは僕が持ち主になる予定! 今はまだ父上が持ってるけどね。火車を切った脇差しだから《火車切》なんて呼んでるんだ。すごいでしょ!」
「あーあ……そういうことなのね」
意外にも忠郷は火車への理解が早かった。御殿の長い廊下を歩きながら腕を組んでじっと僕の肩の上の火車を見つめている。
「うちにもそういう刀があるわ。昔、化け物に憑かれた大工を鉋(かんな)ごと叩き切ったっていう長船の名刀よ。蒲生のおじいさまの刀なの」
鉋、ってのは木を削る大工道具だ。本当だとすればものすごい切れ味である。
「鉋ごと? っていうか……それって、取り憑かれた大工の人は無事だったの?」
「無事なわけないじゃない。大工もろとも化け物を退治してやったわ! すごいでしょ? 切れ味ならあんた、長船の刀が一番だわ」
僕と総次郎は顔を見合わせる。火車は身体を震わせると大きく飛び跳ねて総次郎の腕の中へ収まった。
「ええっと……それってつまり、鉋ごとというか……大工ごと切っちゃったってこと?」
「……大工も一緒に死んじまったってことだな」
総次郎は火車を受け止めると、頭を撫でて言った。
表情はいつもの総次郎だけど、その様子はなんだかすっかり火車を気にいっているようにも見えたよ。見た目からはけっこう意外だけど、総次郎ってば動物が好きなのかもしれない。丸まった火車の背中を撫でている様子を見てたらそんな気がした。
「言っとくけどね、どんなにいい刀か知らないけど、おいらを退治なんて出来っこないよ。だっておいらは地獄の獄卒なんだから、死んだりしないもん」
忠郷は飛び上がって驚いた。僕の背後に隠れるようにして火車を指す。
「しゃ、喋ったわあこいつ!」
「獄卒? どう見たって化け猫だろ。あるいは狸だ」
「人に取り憑いたり、化けたりするような位の低い化け物なんかと一緒にしないでもらいたいね。おいら、たぬきや狐なんかとはぜーんぜんちがうんだぞ。化け猫でもない! 地獄の鬼なんだから!」
「そうそう。火車ってもともと死んだ罪人を地獄へ連れて行く仕事をしていたんだってさ」
「そうとも! 閻魔さまの家来だぞ!」
火車は総次郎の肩の上に乗ると二本脚で立ち上がり、「どうだ」とばかりに背伸びして胸を張った。
「あんた時々ものすっごい大きな声で独り言を言ってると思ってたけど……こ、こいつと喋ってたのね、千徳」
僕は大きく頷いた。もっとも、そんなに大きな声で喋っているつもりはなかったんだけど。
「地獄の鬼が脇差しで切られるなんてヘマをするか?」
「それに、どう見ても鬼には見えないわよ。よくてタヌキか猫じゃない」
「うるさいなあ……あの時はちょっと仕事が行き詰まってて色々とアレだったの! お前らだってお殿さまになればわかるぞ! 仕事をするってのはてんで大変なんだからな! 責任とかすごいあるんだから!」
忠郷の深い溜め息が背後から聞こえて僕は少しだけ振り返った。彼の長い髪の毛が大きく揺れるのがわかる。
忠郷は深く俯いていた。
「そうよね……わかるわ。仕事をするって大変よ……本当に。あんたたちにはまだわからないでしょうけど」
僕は忠郷の机を思い出す。
忠郷の机の上はいつも実家から届けられた手紙が山のように積まれているよ。大半は読まれた形跡もないその手紙の山が最近どんどん高くなっていることを、僕は知っている。たぶん、総次郎も。
総次郎のお父上も手紙を書くのが好きみたいで、しょっちゅう総次郎に手紙を送ってくる。総次郎は鬱陶しげにしているけれど、勝丸に文を手渡している姿を見たことがあるから、ちゃんと返事は出しているらしい。
だけど忠郷に送られてくる手紙の量はとにかく半端じゃないんだよ。おまけに大半が読まれた形跡さえないなんて、僕はずうっとそれが不思議だった。
「さすがに消灯時間前だと静かだね」
学寮の御殿は長い廊下で全て繋がっている。学寮は表、中奥、大奥の三つに大きく分かれていて、僕らがいつも暮らしている御殿があるのは中奥だよ。
表にはみんなが集められる広間や客間がある。あとは……座学の授業を受けたりする部屋も。
中奥は僕らが暮らす御殿と僕らを指導する教師たちがいる御広敷とに分かれている。御殿と御広敷とは完全に区分けされているから、直接行き来することは出来ないという不便な構造になっている。
大奥は学寮で働いている人達が仕事をしている場所だよ。大きな炊事場もここにあって、大奥に部屋を貰って住み込みで働いている人も沢山いるらしい。
「幽霊は客間や南の御殿の部屋に出るらしいわ。特に客間で見たって生徒がいるの」
「客間? どうして?」
「そこまでは知らないわね」
「客間で頻繁に見るから、実はそこで自害したんじゃねえかって話も聞いたぜ」
総次郎の言葉に火車が反応した。
「そうだなあ……確かに、そこに頻繁に現れるってんなら何か意味はあるよなあ」
火車がそんなことを言うので僕らは客間へ行ってみることにしたよ。
長い廊下で繋がっている表と中奥との間は大きな黒い扉で仕切られている。おまけにそこはいつも強そうな門番が守っているし、夜の間は閂まで掛けられてしまうから自由に出入りなんて出来ない。
だから、僕らは作戦を考えてきた。
「客間へ大事な扇子を忘れてきたの。取りに戻るから通してちょうだい」
「……夜間の通行には、寮監督殿の許可が必要です」
門番は怖い顔で忠郷にそう言った。だけどそんな風に言われることは僕らも計算のうちだよ。僕と総次郎は少し遠くから隠れてその光景を眺めながらほくそ笑んだ。
「じゃあお前が連れて来てちょうだい。今すぐによ」
忠郷は腕を組んで門番を睨みつけた。
「お前はうちの寮の寮監督が誰だか知ってるの? 学寮長さまよ? 北の御殿の鶴の寮には寮監督なんていないの。いたけど急に辞めたり、脱走したりしていなくなってしまったんだから。それで後任がくるまでの間、学寮長さまが直々に寮監督を引き受けてくださっているのよ」
そうなのだ。
通常、御殿の各寮にはそれぞれ《寮監督》という学寮の役人がいる。
彼らは僕らのような学寮に出仕している生徒の監督をするのが仕事だよ。宿題や課題の提出を忘れたり、授業をさぼったりしていないかチェックしたり、問題ありと判断した生徒を保護者にチクったりもするって聞いている。
「……ねえ? いつになったら僕らの寮には新しい寮監督殿がくるの?」
「……さあな。来るらしいって噂だけは聞くことがあっても実際にはちっとも来やしねえ。学寮も人手不足なんだ」
ただ、僕らの寮にはその寮監督がいない。
前はいたらしいけど、忠郷や総次郎に手を焼いて辞めちゃったり、いなくなっちゃったりしたらしい。
「お忙しい学寮長さまをお前はわざわざあたしの忘れ物を取りに戻るごときで煩わせようっていうわけ? 信じられない! どういう神経してんのよ!」
忠郷がいつもの調子で門番に喚き散らした。腰に差していた扇子で門番の腕をバシバシ叩いてる。
「……扇子を客間に忘れてきたっていう設定はどうしたんだ」
「さあね……そんなのもう手遅れだよ」
僕と総次郎は深いため息をついた。
これで会津じゃ藩主をやっているってんだから、僕らの領国の将来まで不安になる。だって、会津は出羽や奥州の要だ。会津が傾けばご近所である仙台や米沢にだって被害が及ぶかも知れない――僕と総次郎が忠郷に感じる不安はつまりそういうことだ。
「わ、わかりました……すぐにお戻りください」
門番は忠郷の癇癪に負けてかんぬきを開けた。軋んだ木の音と共に重い扉がゆっくりと開く。
「言われなくたってすぐに戻るわ。だからこのまましばらく開けておいてよ?」
門番が深々と忠郷に頭をさげているのを見計らって、僕と総次郎――もちろん火車も――さあっと扉を通り抜けた。
いそいで客間を目指して廊下を駆ける。
「廊下は走っちゃいけないんだろ、玉丸」
前を走る火車が一度振り返って叫んだ。
「そうそう。だから、だあれもいない今のうちに思いっきり走っとこうと思ってさ!」
客間はもうすぐ目の前だよ。僕は暗がりの中で先頭を走る火車を見失わないように気配を追いながら走った。
火車は夜でも真っ暗な場所でも昼間と同じように目が見えるんだ。化け物ってのは本当に便利に出来ている。
「ええと……客間って、どこの客間だろう? 部屋っていっぱいあるよね」
客間の廊下は学寮で一番つるつるしている気がする。よく掃除されているからだよねえ、きっと。でなきゃ、僕ら生徒を走らせないためかもしれない。
僕は暗がりの中をきょろきょろと見渡した。灯りもない夜の客間はどこもみんな同じ部屋に見える。
「月見草の客間ですって。ええと……ああ、どこかしら?」
忠郷は荒く呼吸をくりかえしながら言った。忠郷は運動や身体を動かすことが極端に苦手らしい。だから武芸の授業はほとんど見学しているくらいだ。
そんなことも大御所様の孫なら許されるのだから、どうにも僕や総次郎はどうも納得出来ない。
「おお! こっちだこっち!」
自分の長い二本のしっぽをくるくると追いかけ回していた火車が急に飛びはねた。火車が燃える前脚で指すと辺りが明るくなる。
「気配がするよ! 傍にいる!」
「気配って……お、怨霊か?」
「ちがうちがう。こいつはただの幽霊だな」
火車は客間の戸を指して言った。
僕も頷いたよ。これは悪い気配じゃない―—よーく目を凝らすと、確かに客間の入り口の脇のかべに《月見草》という札が下がっているのが見えた。
僕ら三人は顔を見合わせて、一度頷き合った。火車が頷いて脚の炎を消すと、辺りは真っ暗で僕らは互いの顔もわからなくなる。
「すこーしだけ戸を開けて、中を見てみたらどうだ?」
「そうよ。あんたなら幽霊が見えるじゃない。早く見てみて!」
「なんか僕ばっかり働かされている気がしない?」
しかしそれは仕方ない。もともと長員にこの仕事を頼まれたのは僕だけなのだし、二人はただのおまけのようなものなのだから期待はしないでおこう。
僕は探り探り客間の戸に手を掛けて、おそるおそるほんの少しだけ動かした。
静かに……静かにね。音を立てないように。
そうしてほんの少しだけ出来た隙間を、僕はゆっくりと覗き込んだ。足元がふわふわするから、火車も覗き込んでいるに違いない。
静かに、静かに……自分の心臓の音の方がよっぽどうるさく聞こえるよ。
「絶対ここにいるぞ。おいらわかるもん。気配がする!」
「あんたはどうなの? 千徳!」
「ちょっと待ってよ。真っ暗でなーんにも見え……」
僕はそこまで呟いて言葉が続かなかった。
中庭に続く外廊下の雨戸が締め切られていて、客間は部屋の外以上に真っ暗だ。
だけど、その暗闇の中にぼんやりともやもやしたものが、何かいる。よくは見えないけれど、確かに客間に何かがいることがわかって、僕は火車を呼んだ。
「いるよ! いる! この客間にいるよ!」
「そうだろう? 気配がするもん。やっぱり怨霊や悪霊なんかじゃないな、こいつは」
「だけど、部屋が暗すぎてぜーんぜんよくわかんない。人の姿をしているかどうかもみえないんだから」
「それじゃあ、おいらたちが外廊下の雨戸を開けてくるよ。そうしたら今日はお月さまが出てるだろうから、きっともうちょっと見えるようになるんじゃないか?」
「ちょ、ちょっと……おいら《たち》って何⁉️ あ、あたしは行かないわよ? 幽霊がいる部屋に乗り込むなんてごめんだわ!」
忠郷が僕の背後から肩を掴んでいるのがわかる。
「馬鹿か、お前は。客間の隣の控えの間から外廊下へ回るんだよ」
言うが早いか、すぐ隣にいた総次郎の気配が遠ざかるのがわかる。火車の声もしなくなったから一緒について行ったんだろう。僕はもう一度戸の隙間から客間を覗き込んだ。
「ね、ねえ千徳? 幽霊は……ここの客間で一体何やってるの?」
忠郷が小さな声で背中から僕の耳元に囁いた。あんまり強く肩を掴まないでよ。
「何って……なんだろうなあ。なんかウロウロ歩き回ってるけど……」
「ど、どうしてこの客間に現れるのかしら? やっぱりこの部屋で……」
「んもう! そんなのまだわかんないってば」
すると、突然月見草の客間が明るくなった。
総次郎と火車が外廊下の雨戸を何枚か開けたんだ! 中庭から差し込んだお月さまの光で、ほんの僅か客間に満ちた闇が薄くなる。
「いる! いるよ! 生徒だ……子供の姿……見える! ほら見てよ忠郷、幽霊だよ! 怨霊なんかじゃなかった!」
「せ、千徳? その生徒、あんたより少し背が大きくて、長い髪を低い位置で一つに縛っていて……いつも手首に数珠を巻いてたらしいわよ」
「じゅず?」
「そうよ。義弟から聞いたんだから間違いないわ。どう? そんな感じ?」
月の光に照らされて朧気に現れたその幽霊は、僕ともそう歳の変わらない少年だった。長い髪を低い位置で一つに縛っている。
噂は本当だったんだ!
ただ、手首には何も巻いていなかったけれど。
「数珠……なんて巻いてないみたいだけどなあ……」
目を凝らしても、幽霊の細い手首には何もない。僕は意を決して、客間の戸を思い切り開けた。
忠郷の悲鳴が部屋に響いたから、僕はすぐに
「大丈夫だよ! いなくならないで!」
と声を掛けたよ。部屋の中でひとり、ぼんやりと佇んでいる彼に。
「お前、こんなところで何してんだい? 本当なら、もうとっくにあの世に行ってるはずだろ」
僕の言葉に続いたのは火車だ。長い二本のしっぽをゆらしながら僕の足元へ跳ねてくる。
「おいらはね、悪いことをした罪人を地獄へ連れて行く仕事をしていた鬼だ。だから、お前みたいな悪いことしてない奴にはなんにもしない。今は仕事も休職中だしね。ただ、ちょおっと話を聞こうと思ってさ」
「僕はこいつの飼い主だよ。学寮の北の御殿の生徒なんだ」
僕が火車を指して言うと幽霊の生徒がこちらを見た。
青白い死人の顔だ。幽霊はみんなそうだよ。そうして僕ら普通の人間よりも姿は透けていて、形はもやもやしている。幽霊の中には身体が欠けていたり傷を負ったりしている者も多いけれど、彼は僕らと同じで。
「お前はもう死んじまったんだぞ。学寮にいたって勉強することも出来ない。それはわかるかい?」
幽霊が一度大きく頷くのが見えた。
僕の視界のすみっこに総次郎がいる。彼は腕を組んで幽霊をじっと見つめていた。その視線は明らかに幽霊を捉えている。
総次郎にも彼が見えるんだ! これはきっと火車の力の影響を受けたに違いないよ。忠郷もいよいよ強い力で僕の両肩を握りしめてくるから、きっと同じものを見ているに違いない。
「死んでもなおここへ来るってことは、何か理由があるんだろ? 心残りかなにかがあるなら教えてみなよ。こいつに出来ることなら、なんとかしてやらんでもないぞ」
「ええ、僕?」
「馬鹿だなあ、玉丸。そのために来たんだろ」
まあ、そりゃあそうなんだけど……そこまで直接的に言うこともないじゃないか。僕に何とか出来ることなんてあるの?
「君は、南の御殿にいた生徒なの? どうして学寮に現れたりするの? 何か心残りがあるんでしょう?」
すると、幽霊が少しだけ僕に近付いた。両手をお椀のようにして前に差し出している。
僕は忠郷の手をどかせると静かに彼に近寄って目を凝らしたよ。火車も飛び上がって僕の腕の中に収まると、同じものを見つめた。
幽霊が両手の掌に乗せていたのは、小さな珠だった。二種類の大きさの珠が小さな掌の上に沢山乗っている。
「これは……ああ、もしかしてこれ、数珠? いつも君がつけてるっていうやつ?」
そうか!
僕はほんの少しだけ後ろを振り返った。
「忠郷、この幽霊、手首に数珠を付けてるって言ってたよね?」
「そうよ。生きてた頃から肌身離さずいつも付けていたって同じ寮の生徒達から聞いたわ」
「それ、壊れちゃったみたいだよ。珠がばらばらになってる」
僕はもう一度ばらばらになった数珠に目を凝らした。
珠と一緒に一つだけ不思議な形をした石がある。銀色をした十字の不思議な形をした飾りだ。
――なくしちゃったの――
小さな掠れたような声が聞こえて、僕は顔を上げた。
「何をなくしちゃったんだい? それが心残りでお前、あの世へ行けないのかい?」
「学寮へそれを探しに来てるの? ぼ、僕らが探してあげるよ。どんなもの?」
――大事な……オが……こわれちゃって……足りないんだ――
僕は火車を見た。声はあまりにも小さくて掠れていて、途切れ途切れで上手く僕も拾えない。
――あれが、ないと……あれがないと……いそ、に行けない―—
「いそ? 磯って海のこと? 君はどこかへ行きたいの? 何をなくしちゃったの?」
すると、部屋に再び暗がりが戻った。総次郎が外廊下から中庭を見上げる。
「月が雲に隠れちまったんだ!」
幽霊の姿がどんどんと闇の中に溶けていくのがわかったよ。
「探してあげる! 僕がそれを探してあげるよ。だから……」
それは一体なんなんだ?
だけど、僕の言葉は間に合わなかった。
彼は完全に闇の中に溶ける刹那、どこかを指して消えて行った。
僕もその方角を目で追ったけど、光もない暗がりの客間で彼が一体何を指したのかはわからなかった。
どうするんだ、とぶっきらぼうに尋ねて来たのは総次郎だった。
「……結局、何を探せばいいのかわからなかったじゃねえか。このバカが」
「だけど、何かを探せばいいんだってことはわかったでしょ? あの子は何かを学寮で探してるんだ。それが見つかればきっと成仏出来るよ」
「だから! その幽霊のなくしたものが何なのかもわからずに、一体どうやってそれを探すっていうのよ!」
鶴寮にいつもの不穏な空気が立ち込めたけど、僕らもいちおうちゃんと状況はわかってる。
もう消灯時刻を過ぎている。だからいつもよりずっとずっと声の大きさは抑えてるよ。
中奥の扉の門番にも「さっさと部屋へ帰って寝ろ」と念を押されてしまったし。
「……仕方がないから、今日の報告ついでに南の御殿にでも行ってみる? 何かわかるかもしれないわよ。同じ寮の連中から話も聞けるだろうし」
「そうだよね。名案! その死んじゃった生徒は南の御殿の生徒なんだもんね」
つまり南の御殿は噂の出所だ。行かないわけにはいかないよ。長員だってこうした情報が欲しいからこそ僕に仕事を依頼しているんだろうしさ。
忠郷が僕らを案内したのは南の御殿の蟹の寮だった。寮の部屋の前に灯りを持った数人の濃い人影があって、僕は目を凝らした。
「あれは……幽霊じゃないな。大丈夫!」
「当たり前でしょ! あれは梅の寮の加藤忠広。あたしの妹の婿殿よ。日ノ本で一番幸運な男だわ」
さすが、大御所様の孫で会津六十万石の藩主の妹ともなれば引く手数多で縁談の誘いがあるのだろう。僕は嫁なんてまだそんな話はまっっっったく縁がないけれども。
寮の部屋の入り口まで来るとその生徒は僕と総次郎を見て頭を下げた。
「……どうでした? 幽霊は……大丈夫でしたか?」
「ぜーんぜん平気よ。なんてことはないわね」
僕も総次郎も冷たい視線で忠郷を見つめた。
よく言うよ。客間の戸を開けただけで絶叫したくせに。ずうっと僕の肩を掴んで背後に隠れていたくせに。
「みなさんも本当にすみません。ご迷惑をおかけして……」
いつも態度がデカくて偉そうな忠郷とは全然違う性格の生徒がそこにいた。
「忠広もあたしと同じでもう実家の当主をしているの。熊本藩の藩主をやりながら学寮に出仕しているわ。あんたたちみたいな暇人とは違ってよ」
「へええ、そうなんだ! もう実家を継いでご当主やってるんだね。どう? 藩主ってやっぱり大変ですか?」
「大変に決まっているでしょ! あんたたちにはわからないと思うけど、藩主って本当に神経をすり減らすんだから」
お前には聞いてねえよ――と総次郎の表情が物語っている。しかし忠広は優しげに目を細めて忠郷の言葉に頷いた。
「会津は六十万石という大きな領国だもの、当家よりずっとずっと大変です。さあ、こちらへどうぞ」
忠広は僕らを蟹寮の部屋へ案内した。静かに戸を開けて中へ入る。部屋の中では三人の生徒が怯えたような顔で僕らを待っていた。
「私は加藤忠広。隣の梅の寮に在籍しています。南の御殿には梅と藤、そうして蟹の三つの寮があるんです。この三名が蟹寮の生徒……学寮の御殿へ現れる幽霊は……この、蟹寮にいた生徒です」
僕が忠広と蟹寮の三人とに頭を下げると、忠郷がぞんざいに僕と総次郎を紹介した。
「こっちの小さいのが上杉、そこのあくどい顔している方が伊達。見ての通りよ。まあ、ろくなもんじゃないわね」
ろくなもんじゃないと紹介を受けた僕は気を取り直して話を切り出した。せっかく直接話を聞ける機会に恵まれたのだ。どんな人間だろうと使える伝は大事にしなければ。
「ねえ、蟹寮の三人も幽霊を見た? その死んじゃった生徒については何か知らない? 彼、何か探していたりはしなかった?」
三人は僕の質問には何も答えなかった。ただ顔を見合わせて首を振ったり、視線を彷徨わせたりしているばかり。漂う気配は三人とも強い拒絶と不安の色が混じっている。
(きっとなにかあったんだ……僕に教えてはくれなさそうだけど)
すると、忠郷がいらいらした様子で言った。
「はっきりしてちょうだいよ。あんたたち、同寮の生徒の幽霊が出て困ってるんじゃないわけ? こっちだってねえ、ただの興味本位で噂の真相を突き止めに来たわけじゃあないのよ?」
「そうなの⁉️」
僕は驚いて忠郷を見た。総次郎も同じことを思ったらしくて彼の顔を見つめている。
僕はてっきり忠郷は野次馬根性みたいなアレでこの幽霊騒ぎに参加したんだとばかり思ってた。
「当たり前でしょ? あたしは忠広が可哀想だから力になってやろうってだけで、別に蟹の寮のあんたたちなんて祟られようが呪われようがどうなったってかまいやしないのよ」
なるほど、そういうわけだったのか。忠郷が実家の家臣達まで使ってこの噂を調べていた理由に僕はようやく得心がいった。
「この事は既に御殿評定で箝口令だって敷かれてる。こうして調べるだけでバレたら大変なのよ。あたしには立場もあるんだから」
そう言うと忠郷は僕らの事も見て
「あんた達もくれぐれも内密に動くのよ。わかってるわね!」
と釘を差した。
「すみません、忠郷殿。みんな……怯えてるんだ。怨霊に自分達も復讐されるんじゃないかって」
「復讐?」
忠広は蟹寮の三人の前にしゃがむと、彼らの顔を順に見て言った。
「こんなことをいつまでもしていたってフランシスコは許してくれないよ。北の御殿のみんなに本当のことを話して、なんとかしてもらおう」
「ふらんしすこ?」
僕は忠広の傍に腰を下ろしながら聞き返した。まったく聞き慣れない名前である。
「亡くなった生徒の名前です。南蛮人みたいな名前でしょう? 実は……」
「ぼ、僕ら……」
口を開いた蟹寮の生徒の声は震えていたよ。暗がりにも慣れた目を凝らしてよく見ると、彼の指先も小さく震えているのがわかる。
「……フランシスコに……恨まれてる、きっと」
そう言葉を続けた生徒は、僕に何かを差し出した。竹の籠の中に何かが色々入っている。総次郎が漁ると、小さな額縁に入れられた南蛮人の絵や数珠が出てきた。
「死んだそいつの私物か」
「……そう。これは、僕らが前にフランシスコからこっそり取り上げて隠していたものなんだ」
「他にも俺たち……フランシスコを無視したり……脅したり、いろんなことを言って……」
生徒の一人が顔を伏せた。泣いているのか? 気配ではよくわからない。忠郷が驚いている気配ばかりを強く感じる。
「あんた達……まさか……」
気配は命の在り処を示していると僕は聞いた。死ねばなくなり、生きている限りどんな動植物からだってこれを感じるよ。
人の気配は心の動きや感情にかなり支配される。人はどうしたって嬉しい時は気配も強くなるし悲しい時には弱々しくなる。気配を読めばおおよそその人の感情を捉える事は可能だ。当然例外はあるけれども。
(みんなふらんしすこって生徒が死んで悲しいのかな……気配だけじゃよくわかんない)
「だけど、まさか死ぬとは思わなかった……自害なんてするとは思わなかったんだよ! 僕らの……僕らのせいで自害するなんて……そんなの……」
「落ち着きなさいよ。あたしが調べさせた情報じゃ自害だなんて聞かなかったわ」
すると蟹寮の生徒達の中で一番背の高い生徒が叫んだ。
「そんなのどこの誰の情報だって言うんだ! 俺達はみんなそう聞いた……フランシスコは自害したんだろ! 俺達御殿の全員があんなひどいことしてたせいだ!」
しばらくの沈黙の後、総次郎が呟いた。僕が感じられる気配の中で彼のそれが一番静かだったよ。
「気持ちはわかるが少し落ち着け。声は出すな。人が来る」
落ち着く? 千徳には総次郎の言葉の意味がよくわからなかった。
(そうだよ。だって蟹寮の三人は……)
「なるほどな……自分たちがいじめた生徒が自害なんかしたもんだから、それで大騒ぎしてんのかあ」
火車の呟きは鶴の寮の僕ら三人にしか聞こえなかったよ。忠広の持った灯りのろうそくが大きく揺れた。
「……蟹の寮の生徒だけじゃないんだ。私も梅の寮の生徒も……そうしたことには感付いていたし、藤の寮の生徒ももちろん知っていました。私も他のみんなも……フランシスコにはそういうことをしていましたから」
「そういうことって……まさか……噂は東や西の御殿の連中から薄々聞いていたけど……あんたまでそいつを虐めていたの?」
忠郷の問い掛けに忠広は応えなかった。フランシスコの私物だという籠の中身をじっと見つめている。
「……なるほど、そういうこと。自分たちが虐めていた生徒が死んで……その幽霊が現れたもんだから、南の御殿の生徒は揉めているのね」
「いじめ?」
「ほれみろ。俺の言った通りじゃねえか」
忠広は俯いて「そうかもしれません」と呟いた。
「すみません、忠郷殿。あなたにはずっとご心配を掛けながら、本当のことをなかなか言いだせませんでした。その……彼にひどいことをしてしまったという自覚はありますので」
「い、いじめたつもりなんかなかったんだ!」
「そうだそうだ。だって……だって、あいつ―—」
「切支丹だからか?」
総次郎が蟹寮の生徒が喋ろうとしたのを遮って尋ねた。
「ええ? 切支丹?」
「そりゃあそうだろ。日本人のくせに名前が《フランシスコ》なんて、そんなの切支丹に決まってる。洗礼を受けて名前を貰ったんだ。それに、こいつは切支丹が信仰に使う道具だろ?」
総次郎が僕や忠郷に見せたのは、数珠のようなものだった。珠が沢山ついた首飾りのようなもの。
「これだあ! あの幽霊の生徒が持ってた珠……よく似てる! この数珠がばらばらになっちゃったものを持ってたんだよ、あの子」
「これはロザリオだ。数珠とはちがう……先に十字の飾りがついてるだろ? 連中はこいつを転がして神様を熱心に拝むんだ」
「あんたよく知ってるわねえ」
「俺も持ってる。まあ、俺は切支丹じゃねえけどな」
総次郎はロザリオを僕に手渡して言った。
確かにたくさんの珠が並んだ真ん中に大きな十字架の銀の飾りがついているよ。見ればみるほど、幽霊の彼が持っていたものにそっくりだった。細かな飾りや色が違うけどさ。
「はあ? なんであんた、キリシタンでもないのに持ってるわけ!?」
「別にいいだろ。南蛮土産だよ。親父が好きでよく貰うんだ」
確かにそうだよ―—僕は鶴の寮の部屋を思い出した。総次郎の文机のまわりには僕がみたこともない品ばかり置かれているもの。全部彼が実家から持参したものだと聞いたっけ。
「そうです……死んだフランシスコは熱心な切支丹でした。学寮にもそうした南蛮の品々を持ち込んで、祝詞のようなものを上げたり、熱心にその額の絵を拝んでいましたから」
忠広がちらりと視線を向けたのは籠の中の小さな絵。白い顔をした女の人が描かれているよ。
僕が籠から視線を上げると、蟹寮の生徒の一人と目が合った。彼はすぐに視線を逸らすと俯いてしまった。他の二人は僕と目を合わせようとはしなかった。
「そもそも、自害したなんて噂の出処は一体どこなんだ? 俺も噂を小耳に挟んで学寮の教師や役人を問い詰めたが、そいつらは自害の件は否定してた。おかしいじゃねえか。誰がどいつから聞いた情報なんだよ?」
総次郎の不機嫌そうな顔は暗がりの中でも確認できた。蟹の寮の生徒三人を睨みつけている。
「そうよ。あたしの情報じゃ病死だったわ」
「ぼ、ぼくらは……何も……」
「自害したってのは……だ、誰が言ってたんだ?」
「僕らじゃないよ……忠広殿じゃない? 梅の寮から聞いた話じゃなかった?」
いちばん小柄な蟹寮の生徒が言った。声は震えていたが気配は少しもブレていない。
忠広の背後には二人生徒がいる。彼と同じ梅寮の生徒だろう。彼らに怖い顔で睨み付けられると蟹寮の三名は身体を小さくしてしまった。
「私じゃないよ。忠長殿かな。藤の寮の忠長殿が……確か、ご実家から聞いた話だとか言っていたと思うよ」
「はあ……あいつね」
忠郷が落胆したように思い切りため息を付いた。
「忠郷はその生徒を知ってるの?」
「あんただって布団部屋にあたしを迎えに来た時に顔を見たじゃない。南の御殿でいちばんえらぶってる奴よ。母親が家康さまの姪なの」
クズよ――忠郷がきれいな顔を思い切り歪めて吐き捨てた。
「南の御殿の主さまなんです」
「ああ、ぬしさまね……」
なるほど――僕も頷いた。総次郎も「やれやれ」と呟いて首を振る。この場にいる全員が良い感情を思っていなかった。
「じゃあ、このロザリオはしばらく借りとくぜ。行くぞ!」
総次郎はそう言うが早いか、蟹の寮の部屋を出て行ってしまった。
「ええ? あ、ちょちょっと……総次郎!」
部屋の外からは「早く来い!」という彼の声が聞こえたよ。僕と忠郷は顔を見合わせる。
「一体何なのよ……とりあえず、今日はもう部屋へ戻るわ。あまり気を落とさないで」
「はい……色々と気にかけていただいてすみません、義兄上」
忠広は悲しそうな顔で僕と忠郷に深く頭を下げた。その姿は本当に心の優しい真面目な藩主という印象だった。
こういう人が御殿の主になればいいのに。クズなんかじゃなくてさ。
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