若様のがっこう【第五話】
「どうも胡散臭え話だと思ってたが、これではっきりしたぜ……」
僕はなるべく音を立てないように注意しながら廊下を早歩きで総次郎に追いついた。
「ちょっとちょっと、総次郎。どうしたのさ、一体」
総次郎は勢い良く振り返ると、僕が持っていたロザリオを指した。
「お前が見た幽霊の生徒……自害したなんてのは嘘っぱちだな」
「どうしてそんなことわかるのさ?」
総次郎は僕の手からロザリオを奪うように手に取ると、それを僕に見せつけるように突き出した。
「いいか? 切支丹ってのは自害なんかしない」
僕も忠郷も顔を見合わせた。
「出来ねえんだよ。切支丹は自害するとか、腹を切るとか……そういう、自ら命を断つことは教えで禁止されてるはずなんだ」
「そうなの?」
「ああ。こんなものを後生大事に持ってる切支丹が、自分で命を捨てるなんてことをするわけがねえ。そんなことは絶対しちゃあならんと言われてるはずだからな。だから切支丹の侍なら切腹も出来ないはずだぜ」
そう言ってロザリオを揺らす総次郎の言葉に、忠郷も続いた。
「なんか……そう言われてみれば……死んだ父もそんなことを言っていたかもしれないわね。蒲生のおじいさまも切支丹だったのよ」
「そうなんだ! へええ……結構いるんだね、切支丹の信徒って」
「西国の大名連中の間で流行ってたんだろ? 南蛮人ってのは最初に九州にやってきたらしいからな」
僕もその辺のことは歴史の授業でもちろん習っているよ。
室町の幕府のおしまいの頃になると南蛮人が船でやってきて、日ノ本へ鉄砲や南蛮の珍しいものが沢山齎された。
もちろん、南蛮人が信仰しているという神様の教えもその頃に日ノ本へ伝えられて徐々に西国で広まり始めたらしい。
「そうそう。信長さまだって黒い巨人のような南蛮人の家来を召し抱えていたっておばあさまが言っていたわ。蒲生のお祖父さまなんて《レオン》という切支丹の名前までお持ちだったのよ。最っ高に素敵な響きの名前だと思わない!? レオン、よ! レオン! 名前をもらえるくらいですもの、きっと選ばれた信者だったのよね」
忠郷は満足気にふんぞり返って言ったが、総次郎が「名前は洗礼を受けりゃ誰でももらえる。農民だってな」と即否定したので悲鳴を上げた。
「信長って南蛮人のこと好きだよね。謙信公も信長から真っ赤な戦装束みたいな南蛮の羽織ものをもらったらしいよ」
「そうなの? 信長さまは宣教師にも優しかったのよ。だから蒲生のおじいさまだって切支丹になることが出来たのだし」
信長や忠郷のおじいさまはきっと南蛮人には好意的な感情を持っていたのかもしれない。そうでなきゃ南蛮人の服装を真似たり、ましてや南蛮人の信仰を自分も信じようなんてしないよね。
だけど、室町幕府が滅びて以降の天下人達はそうではなかった。
太閤殿下は、天下を統一するとこの南蛮人達、伴天連――これはつまり南蛮人の国々のことだけれど――を追放するお触れを出した。
これに伴い、それまで日ノ本で切支丹の教えを布教していた宣教師たちもそうしたことが出来なくなった。都で宣教師たちが処刑されたなんて話も僕らは聞いている。
今の天下人である家康様やその息子で将軍の秀忠様に至っては切支丹の教えを信仰することまで禁止にしてしまったんだよ。それは本当につい最近の出来事だけれども。
「だけど……そういう伴天連の教えって、もう信仰するだけでも禁止になったんでしょ? それで徳川さまの旗本まで改易になったって聞いたよ」
「ああ。確か何か事件があって……それで一段と厳しくなったんだと……そんな話じゃなかったか?」
大きな戦はなくなったし、未だかつての天下人――豊臣家も大阪に在る。
けれど、それでも世の中は刻一刻と新しく作り変えられている。
学寮という閉ざされた世界で暮らす僕ら生徒はなかなかそうした動きを肌で感じることは難しいけどさ。
忠郷は口端に笑みを浮かべながら総次郎を見た。
「あんたも気をつけたほうがいいんじゃなあい? そんなに伴天連のことに色々詳しいなんて……切支丹だと疑われても知らないわよ。旗本が改易になるくらいだもの……あんたたちみたいな外様大名の藩主が切支丹なんてことにでもなったら、一発退場は免れなくてよ」
「抜かせ。俺は西方の国に興味があるだけだ。てめえのじいさまと一緒にすんじゃねえよ」
そう言っていらいらとロザリをを揺らす総次郎。
僕はもう一度さっき幽霊の彼が言っていた言葉を頭の中で反芻させた。何か見落としてることはないだろうか?
「確かあの幽霊の生徒……壊れて足りないって言ってたよ。あれがないと……あれがないと……って、客間で会った時に辛そうにしてたんだ」
「んもう、じれったいわねえ……《あれ》って一体なんなのよ!?」
「まさか……もしかして、壊れたってのは……ロザリオのことなんじゃねえか?」
総次郎がロザリオを眺めた。
「そいつ、壊れたロザリオを持っていたんだろ?」
「確かに……彼が持ってたロザリオは……珠がばらばらになってて、壊れたって感じはしたけど……だけど、彼はちゃんとそれを持ってたんだよ? 掌にばらばらになったロザリオの珠を持っていたもん。それってぜんぜんなくしてないじゃん。足りないって言葉も意味がわからないし」
「そう言えば……思い出したけど、前に忠広も言っていたわね。死んだ彼が宿下がりをする直前に、南の御殿の生徒たちで彼を客間に呼び出したって……」
僕と総次郎は忠郷の顔を見つめた。
「そこで、彼が大事にしていたものを壊してしまった、って……忠広は言っていたわ。南の御殿の部屋って客間に近いでしょ? 忠広は言わなかったけれど……あの様子じゃ、ひと目に付かない空いていた客間に呼び出してフランシスコを虐めていたんじゃないかしら」
それだ!
僕と総次郎が叫んだのは一緒だった。
「何を? 何を壊したの? きっとそれだよ!」
「そこまでは聞いてないわよ」
「意味ねええええ! 肝心なところでてめーはよお!」
総次郎が《ダン!》 と強く廊下を踏み付けた。
「――ああ! ちょっとだけ思い出したわ!」
僕らは再び忠郷に詰め寄った。まったく、一度に全部思い出してほしい!
「ええと……さすがに悪いことをしたと思って……拾い集めたって……言ってたかしら?」
「何を? 何を拾ったの?」
「壊れて……飛び散った欠片を……拾い集めて、彼の実家に届けてもらうように寮監督に頼んだのよ! 思い出したわ」
「ひ、拾い集めたって……何を!? 肝心なことが何もわかんないよ!」
「わかったぞ……」
総次郎が静かに呟いた。
「わかったのか? お前賢いなあ! 頼りになるう!」
火車が飛びはねて総次郎の腕の中に収まる。総次郎は僕と忠郷を見て言った。
「珠だ! やっぱりロザリオを壊されたんだ。客間でロザリオを壊されて……それで珠が飛び散ったんだ!」
「そ、そうか。壊れて客間に飛び散った珠を、忠広たちが拾い集めて……実家に届けたんだわ!」
「あの幽霊の子はそれを持ってたのか!」
総次郎は頷いた。火車を見つめて言葉を続ける。
「ああ。だが、死んでも客間に現れてるってことを考えると……きっと、拾い集めそこねたロザリオの珠があるんだ。だからその幽霊は学寮に現れて、珠の残りを探してるんじゃねえか?」
忠郷は掌を叩いて言った。
「そうね。きっとそうだわ! 拾い集めた珠の数が足りないのよ!」
総次郎は火車を抱いたまま僕を指す。
「ロザリオってのはな、千徳。珠の数がちゃんと決まってんだ。数や位置にも意味があるとかって話だったぜ……確か。キリシタンはロザリオの珠を数えながら祈りを唱えてんだよ。珠の数が足りなきゃ意味なんてねえんだ」
「なんだあ! お坊様が持ってる数珠と似てるんだね」
そうか……だから、彼はあの世に行けず、今でもロザリオの珠を探しに学寮をうろうろしてるのか!
「お坊さまがお経あげたりお祓いしたって効かないわけだよな。だって、相手はキリシタンの生徒だったんだもの。そいつが満足するようなことをしてやらなきゃ、成仏なんかしっこないぞ。大事なのは心なんだからさ」
火車が廊下に飛び降りて僕を見上げた。
「なるほどね、そういうことだったんだ!」
僕らは大急ぎで自分たちの部屋へ戻ったよ。
今日はもう客間が暗いから、明日また客間へ行こう。飛び散ったロザリオの珠の残りを探すんだ!
***
次の日、日の出と共に僕ら鶴の寮の三人は起こされた。
「ほおら! お前たち起きろ! 珠を探しに行くんだろ!」
火車の奴が順番に寝ている僕らの身体の上で飛び跳ねる。僕は眠い目をこすりながら火車に言った。
「うええ……? こんなに朝早く? まだ眠いよ……」
「ばかだなー、玉丸。お前まさか忘れたわけじゃあないだろうね? 早く探さないと、どこかに行っちゃうかもしれないじゃないか、あのたまっころ。日が出て明るくなったんだからこれで探せるだろ?」
当然だ、とふんぞり返って言う火車の姿を見ていたら案外と昔は真面目に仕事をしていたのかもしれないなあって思ったよ。誰よりもいちばんロザリオの珠探しに熱心だもん。
「そうだった! 忘れてないよ! ようし……そうだね。朝ならまだ客間は誰もいないよね、きっと」
「そうそう。客間なんて日が出てきたらお客が入れ替わり立ち替わりやって来て、入らせてなんかもらえないぞ。おいらあそこでよく日向ぼっこしてるからよく知ってるよ」
僕は寝起きが悪くてちっとも起きない総次郎と支度に時間がかかる忠郷はもう放っておいて一人で火車といっしょに客間へ向かった。
廊下でお部屋番の鈴彦とすれ違ったから「ちょっと部屋を出るけど勝丸には内緒にしておいて」と頼み込んでおいた。
「大丈夫ですよ。勝丸殿はたぶん……今日はそれどころじゃあないと思いますので。朝ご飯の準備はしておきますね」
朝の御殿はみんな掃除をしているよ。昨夜の静かな真っ暗な廊下が嘘みたいに人でごったがえしてる。
僕はなるべく急ぎながら静かに静かに歩いた。
藩主ってのは振る舞いにも気を付けなきゃいけないと教わっている。どんなに気持ちが急いでいたって慌ただしくしていたら駄目なのだ。上杉家の当主になるなら僕にも威厳ってものが必要だからね。
「僕、客間で探し物をしなくちゃいけないんだ。だから表の方へ行きたいのです」
朝になったら、表と中奥との間の扉の門番が別人に入れ替わっていた。きっと夜と朝と昼とで交代制なんだろう。僕らの武器を宝物庫で預かっている腰物係や、御殿のお火の番なんかも交代制で夜や朝も見回りをやっていると聞いたことがある。
門番は僕をじっと見つめて、
「この時間は客間係が客間を掃除しておりますので、生徒の皆様は立ち入ることが出来ませぬ」
と怖い顔で言った。
「掃除!」
僕は足元の火車と顔を見合わせた。
そうだよ! 当たり前だけど、客間は毎日客間係が掃除をしてるはずだ。壊れて飛び散った珠がいつまでも客間に残ってるなんてことがあるだろうか?
既にフランシスコが亡くなって二月以上も時間が経過しているのに!
「そ、掃除中でもお願いします。大事なものをなくしたから、早く探さないといけないんだ!」
門番はしばらく考え込んでいたけれど、僕が頭を下げてお願いしたらようやく扉を開けてくれた。
「客間係が毎日掃除してるんだもの……もうとっくにどこかへ捨てられちゃったかもしれないよ」
「だけどさ、あの幽霊はきのうの客間にひんぱんに現れているって話だっただろ? それってまだあの部屋に珠の残りがあるってことじゃないかい? 昨夜だって現れてたんだぞ」
「ううん……そうだといいけどなあ……」
月見草の客間に辿り着いた僕らは、水桶をかかえて部屋から出てきた客間係と入れ替わりに客間へ入った。
廊下には《立ち入りを禁ず》という木の板が置かれている。今まさに掃除の真っ最中だ。
「き、きれいだよ……すんごくきれいになってるよ! 当たり前だけど!」
客間を見渡して僕は絶望的な気持ちになった。
いつものことだけど、客間はうんときれいだよ。客間には毎日入れ代わり立ち代わりお客がくるから、どこの部屋よりも念入りに掃除しているんだ。塵一つ、埃一つ部屋には落ちていない。
昨夜は締め切られていた外廊下の雨戸も全部開け放たれていて、中庭の様子がよく見えた。庭師が一人、脚立の上で植木の手入れをしている。
「ロザリオの珠なんて落ちてないよ……そんなのどこにもない……」
僕は畳の上を見渡した。
本当になあーんにもない。僕の視界には畳の目がきれいに揃って並んでいる光景が広がっている。ぴかぴかに水拭きされた綺麗な畳。
「まあ……なくしたのずいぶん前のことだしなあ……」
火車は鼻をひくひくさせながら珠を探している。きっと気配を探しているんだろう。
すると、客間の戸が乱暴に開いて僕は思わず飛び上がった。
「あああ、すみません! ちょっと探しものをしていて……って、総次郎!」
総次郎はふらふらしながら客間へ入っていた。僕が部屋の戸を閉めると、不機嫌そうに
「……こんな朝っぱらから……冗談じゃねえぜ。完全に寝不足だ」
と呟いた。
「ねえ、総次郎? 客間は毎日客間係が掃除してるから、ロザリオの珠なんてどこにも落ちてないよ。だって見てよ、ほら……こーんなにきれいになっちゃって……」
「うるせえなあ……でも幽霊のやつはこの客間に来てるんだ。飛び散ったとかって言ってんだから……外廊下や中庭にでも落っこちたんじゃねえか?」
寝起きが悪い総次郎がいらいらと僕に言った。
「総次郎大丈夫? 眠いなら部屋で寝ててもいいよ」
総次郎ってば朝はとびきり機嫌が悪い。だから起こしちゃ悪いと思って部屋に置いてきたのに、総次郎はいよいよ怖い顔で僕を睨み付けてから言った。
「……上杉に出し抜かれるなんて胸糞悪いんだよ」
僕は火車と顔を見合わせて肩を竦める。
総次郎は負けず嫌いなところがあると思う。特に蒲生や上杉には負けたくないんだろう。僕や忠郷の言葉や態度に突っかかって喧嘩腰になるのもつまりそういうせいに違いない。
でも、そういうところが今はすごく頼もしい! なにせ僕らは共闘関係にあるわけだからさ。
総次郎は外廊下に出ると、中庭を見渡した。
「……壊れてもそう遠くまで飛び散るとは思えねえが……転がっちまった可能性があるからな……」
中庭へ下りると、総次郎はしゃがみこんで縁の下をのぞき込んだ。
「ねえ、総次郎。何か見える? ありそう?」
総次郎の返事はしない。代わりに僕は、客間の外からガヤガヤと何人もの人の声がすることに気が付いた。
「——だから! 探しものがあるんだって言ってるでしょ? 別に汚しゃしないんだから掃除したてだって大丈夫よ!」
客間係の静止を振り切って部屋へ入ってきたのは忠郷だった。
「もう……なんだか今日は髪型が今ひとつ決まらないわよ。まったく……あんたが急かすから!」
「忠郷も来たの⁉️」
「ああら、当然でしょ。南の御殿の生徒にも話をした手前、例の珠が見つからなかったら北の御殿の信用に関わるわ。あたしはあんた達なんかとは違って、北の御殿のぬしなのよ? 会津の藩主よ? あたしや蒲生の家の信用にも関わるじゃない!」
絶対に見つけるわ――忠郷はそう叫ぶと、胸を張った。まったく忠郷はいつもこんな調子だよ。北の御殿で一番偉ぶっている。
でも、それだけ忠郷は責任感が強いんだろう。会津の藩主なんだから無理もないけれど、彼のこういうところは見習わなくっちゃね!
「それに、千徳? やっぱり南の御殿の連中はこの客間でフランシスコのロザリオをぶっ壊したのよ。あたし、ここへ来る前にちゃんと確認してきたんだから」
すると、部屋の戸がもう一度静かに開いた。
顔を覗かせたのは、南の御殿の加藤忠広だった。同じ梅の寮の生徒と蟹の寮の生徒の三人もいる。
「おはようございます、千徳殿」
「忠広殿! みんなも……一体どうしたの?」
「昨夜皆さんが帰られた後……私達、南の御殿のみんなで話をしたんです。やっぱり……私たちフランシスコには……ひどいことをしたんだ」
忠広は僕を見つめて言った。もう昨日のように俯くことはしなかったよ。
「私たち南の御殿の生徒は、フランシスコを無視したり、水をかけたり、彼の私物を隠したりしていたんです。だけど……全ては彼に改宗をさせるためでした。彼が切支丹をやめようとしないから、私たちはそうやって……」
「そうだ!」
「そうだよ! 俺達は悪くない!」
梅の寮の生徒たちが涙声で忠広に続いた。
「悪いのは切支丹だろ! 家康さまだって、将軍さまだって切支丹の教えは禁止にしたじゃないか! 大人たちだって俺達と同じことをして切支丹を無理矢理改宗させようとしてる」
「そうだそうだ! 僕ら知ってるんだぞ!」
忠広も頷いて続いた。
「北の御殿の皆さんは知らないでしょう? 私達の実家が領国をもらっている九州には大勢切支丹がいるんです。私の実家も、他の生徒の実家もみんな頭を抱えています。だって、切支丹をなんとかしないと……実家が将軍さまや大御所さまから怒られます。改易にされてしまうかもしれないですよ」
改易——その言葉は殊更僕の心に重く響いたよ。
なにせうちの実家だって、大御所さまに逆らってあわや改易にされてもおかしくない状態だったんだもの!
なにせうちは大御所さまに喧嘩売った挙げ句、関が原の戦まで引き起こすきっかけを作った……なんて世間じゃ言われているんだからさ。
「……死んだ私の父、加藤清正はもともと太閤殿下恩顧の家臣です。如何に関ヶ原の戦で東軍にお味方したとはいえ……大御所さまの姻戚関係になるとはいえ……加藤家はもとは太閤殿下の直臣だ。父は出自も低く、国持大名とはいえ家柄なんてものはないに等しい。あなたのご実家とは違いますよ、千徳殿……うちは家康さまのご不興を買えばきっと簡単に取り潰されてしまう」
「そんなこと……」
そう呟いて、しかし忠郷の言葉はそれ以上続かなかった。
「切支丹は一筋縄では行かないと聞きます。耳や鼻を削ぎ落とされてもなお信仰を棄てようとはしないらしい……そんな連中が我らの領国には山程いるんだ。考えただけで目の前が真っ暗になりますよ。これ以上禁教令が厳しくなったら、切支丹が領内にいるだけで我ら九州の大名は叱責を受けるに違いない。そうなれば、例え藩主自らが信仰なんてしていなくても、切支丹を大勢抱える大名家は必ずやお咎めを受けます。改易される家だって出るかもしれない」
「そうだそうだ! 第一、お前らは知らんだろ。そもそも禁教令が厳しくなったんは、フランシスコの実家のせいじゃねえか!」
梅寮の生徒の絶叫が客間に響き渡る。
「ええ? そうなの?」
刹那、僕は南の御殿の生徒たちの中から大きな気配の揺らぎを感じたよ。それは動揺と人が呼ぶものだ。一人じゃない。複数人がほとんど同時に心に大きな動揺が走ったのだ。
(誰だろう? きっと何か引っかかることがあったんだ)
「フランシスコの実家のせいって一体何のことよ?」
「フランシスコの祖父も切支丹だったようなのですが……南蛮との交易のいざこざで死罪になったらしいのです。それで禁教令が著しく強まったのだと私も聞きました。フランシスコの祖父は死罪となり実家は改易になりましたが……兄上が他に領地を貰えたらしく、それでフランシスコは学寮へも出仕することが出来たらしいんです」
僕も総次郎も忠郷もきっと同じ事を思っていたに違いないよ。二人の横顔をちらりと見たらなんだかそう直感した。
南の御殿の生徒たちはみんなフランシスコの実家の末路を見て恐ろしくなったに違いない。
切支丹に関わるということはつまり、ああいう風になるという可能性を孕んでいるのだ――と。
「有馬のお家のせいでなんで俺らの実家まで白い目でみられにゃならん! 今まではここまで厳しいことなんぞ言われなかった。それを……有馬の馬鹿野郎があんな事件なんか起こすから……だから切支丹はこんな目に遭うんじゃろ! 自業自得だ!」
同寮の生徒が叫ぶと忠広も強く頷いた。
「そうです。伴天連の教えは禁じられた。布教はおろか、信仰も許されなくなりました。切支丹は野放しにされるべきではない。幕府がしているように、外で大人たちがしているように……誤った信仰ならば正されるべきです。その出来如何で私達の実家の運命さえ左右されるというのだから、例えどのような方法を使ってでもフランシスコの信仰は棄てさせるべきと……我々は皆でそう話をしたのです」
それは冷徹な、強い声だった。
「学寮でも平然と切支丹としての振る舞いを続けるフランシスコの姿は……いつしか我ら南の御殿の生徒共通の敵となりました。ただ、彼は私達に何をされても棄教を迫る問に諾とは言わなかった。彼を改宗させたかった……信仰をやめさせたかったんです。そうさせるべきだと、私たち南の御殿の生徒みんなで話をしました。みんなで決めたんです。それで、フランシスコに……」
「忠広……」
忠郷が呻くようにそう声を掛けたけど、僕はなんにも言えなかった。総次郎も庭から忠広をじっと見つめている。
「確かに、東の御殿の生徒も言ってたぜ。お前ら南の御殿の生徒が死んだ生徒を寄ってたかって滅多打ちにしていたって。宿下がりをする前のそいつは、お前らに殴られ蹴られ……顔が腫れ上がって大変だったと、学寮の典薬殿も零してた」
「ええ? それは駄目だなあ、顔なんて」
忠郷が不思議そうな顔をしたので、僕は説明してあげた。
「ケンカで顔なんて狙ったら駄目でしょ。だってどうやったって顔に怪我なんてしたら隠し通せないじゃないか。手を出すなら首から下の胴を狙うんだよ」
自信満々に知識を披露した僕だけれど、総次郎は呆れたような声で言った。
「……お前みてえなちんちくりんに一体誰がそういうどうでもいいことを教えるんだよ」
「他人事みたいに言ってるけどさああ! 総次郎に顔を殴られた後ですぐ父上からそう叱られたんだよ! バレるようなヘマはすな、って! そんな目立つ場所殴られる奴があるかって叱られたのぼくは!」
僕は猛抗議したけど、総次郎は素知らぬ顔だ。
すると、忠郷が数歩前へ進み出た。忠広のすぐ目の前まで歩み寄ると、
「忠広……あんたみたいな人間までそういうことをしていたとは考えたくはないけれど……」
と涙声で呟いたよ。
「自分たちのせいでその生徒が自害したとは考えないの? あんた達の責め苦に耐えかねて自害したのだとしたら……あんた、一体どうするつもりなの?」
「切支丹は自害なんてしない――先ほどそう教えて下されたのは義兄上ではありませんか。フランシスコは病死だとわざわざお調べくだされたのも義兄上ではないですか」
「……少しでもあんたを安心させてやりたかったわ。この際だから本当のことを言うけど、フランシスコの死の真相なんてあたしには少しもわからなかった。実家の人間に命じて調べさせようとしたけど結局わからなかったの。うちは有馬家とは特別親しいわけでもないし、母の目を盗んで江戸の屋敷とやり取りをするにも限界があって……自害の噂は嘘だって証拠は見つけられなかった」
忠郷は少しも忠広の目を見ていなかった。
嘘を付くと人間は瞳に一番現れるんだといつだったか父上が言っていたよ。うちの父上は寡黙であまり喋らないんだけど、その分相手をよく観察しているからか相手が嘘を付くと表情で絶対わかるんだと言っていた。
忠郷は消え入るような声で「きっと病死に違いないと……調べさせた人間は言っていたから」と呟いた。
「だけど……切支丹をやめて自害したのかもしれないじゃない。自害なんて表沙汰には出来ないから病死と公表してただけかもしれない。本当にそうだとしたらどうするつもりなの? フランシスコを自害に追い詰めたのはあんた達かも知れないのよ?」
そう呟いた忠郷の言葉には確かな怒りが込められているのが僕にもわかった。
「フランシスコは棄教なんかしませんよ、絶対に。彼らと接していた我々にはよくわかります。病を得て実家で急死したと寮監督からも学寮長様からも話を聞いていたのに……どこからか良からぬ噂が広まって苦慮していました。まるで我々のせいでフランシスコが自害したかのような噂は聞くに堪えなかった。学寮の上役方にも相談をしたのに、まるで頼りにならない。けれど、これで我らの正しさが証明されます。私達は正しかったんだ……彼の死は私達とは関係なかった。ありがとうございます、忠郷殿。ようやく安心しましたよ」
僕は居てもたってもいられなくなって言った。
「フランシスコの兄上もさ、元は切支丹だったけど棄教して切支丹辞めたんでしょ? それなら兄上に倣って自分もそうするかもしれないじゃないか」
「有り得ない!」
それは夕べ聞いた穏やかな彼の声色からは全く想像出来ない、強い拒絶と怒気を含んだ声だった。
「忠広殿……」
「自分がしたことは間違ってない。藩を、家名を、守るためならどんなことだって厭いません。藩主というのはそうしたものではないですか。父上が苦労の末にここまで大きくした領国です……それを守るのが我らの務めではないですか」
忠郷は大きく息を吐いて掌で顔を覆い、項垂れた。長い髪が大きく揺れる。
「……私達がフランシスコをいじめたなんて噂は間違ってる。私たちは正しいことをしたんです。万が一にも……彼が自害したとしたって、私は自らの行いが間違っていたとは思いません。ただ……彼の、ロザリオを壊したことだけは……間違いでした」
忠広が強く固く拳を握り締めているのが僕にもわかった。
「私たちはあの日……彼がいつも肌身離さず持っていたものをここで壊してしまったんだ。彼が命よりも大切だと言っていた物を本人の目の前で壊してしまったんです。死んだフランシスコはどんなにか心残りだと思います……本当に悪いことをしたんだ」
すると蟹寮の生徒達が互いに顔を見合わせて言った。
「だ、だから……僕らも探すよ」
「ロザリオの珠を……」
僕は俯く忠郷に歩み寄って、背後から彼の手首を握ったよ。そうして少し揺らしてみた。
すると忠郷は扇子をいきおいよく広げて仰ぎながら僕の方へ振り返った。
「――まあ、とにかく! 探しものをするなら人手は多いほうがいいじゃない? あたしが南の御殿へ行ってこいつらを連れてきたってわけ」
それはいつもの高飛車で我儘な忠郷だった――傍目にはね。だから僕もいつもの調子で彼に言う。
「今日は冴えてるね、忠郷」
「そうよ、当然だわ。あたしの代わりに働く連中を連れて来たんだもの。だって……あーんな風に腰をかがめて地面を這いつくばるなんて、どう考えたって会津藩主のやることじゃないもの!」
忠郷は庭にしゃがみ込んでロザリオを探しを再開していた総次郎を指して言った。
「あっそう……忠郷は探さないの」
「あの時、飛び散った珠はぜんぶ集めたと思ったけれど……まだどこかに残っているということですよね? だからフランシスコの幽霊はそれを探しに、蟹の寮の部屋やこの客間に現れるんだ」
その時、客間へもう二人慌てて生徒が入って来た。南の御殿の生徒だよ!
「さあ、早く探そう」
忠広がそう言うが早いか、梅寮の生徒も外廊下へ散って行った。
みんな外廊下や庭先を中心に探し始める。だって客間の畳の上はもうきれいさっぱり掃除されていたからね。
「それじゃああたしは客間係に話でも聞いてくるわ。何か知っているかもしれないし、ひょっとしたら客間係が珠を拾って、持っているかもしれないでしょ?」
忠郷は扇子をひらひらさせながら客間を出ていった。汚れ役や力仕事をとにかくやりたがらない忠郷だけれど、その提案には説得力がある。
よし! これだけ人手がいれば見つかるかもしれないよ。僕は火車と顔を見合わせて頷いた。
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