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ティッシュペーパー、処理水、カーナビ(週刊エッセイ:2023年8月 第4週)

8月21日(月)

韓国から遊びに来た女性と高円寺の「ネグラ」という店でドライカレーを食べていると、彼女が鼻をかみながら「どうして日本のティッシュペーパーはこんなに薄いのか」と尋ねてきた。

僕はこれまでティッシュペーパーの厚みというものを疑がったことがなかったけれど、彼女は「実に不可解だ」という顔をしている。隣りにいた台湾人の薫慧にも確認すると「たしかに薄い」という。他の国の人と話していると、普段は気にも留めない生活のことが突然特別に見えてきて楽しい気持ちになる。

「えーー、これはね、日本の技術力を見せつけているのです。一枚の紙をここまで薄くできるテクノロジーは君たちの国にはないでしょう。忍者が敵に気づかれずに手紙を送るために発達した伝統技法なんですよ。」

とりあえず口からデマカセを言って、家に帰って慌てて調べる。ところが、少し調べただけでは我が国のティッシュの厚みを決定づけた理由は分からなかった。

Google で検索しても「街中でティッシュがタダでもらえる日本文化に外国人は驚き!」という動画や記事が出てくるばかりだ。(検索エンジンでもテレビ番組でも「日本文化のここがスゴイ!」と騒いでいるのを見るとうんざりする。ちなみに街頭ティッシュ配りは韓国にも台湾にもあるそうだ。)

ChatGPT に尋ねてみると「環境配慮:日本は資源に乏しい国であり、環境保護と資源の有効活用に対する意識が高いです」と返ってきた。僕のデタラメと同じくらいテキトーなことを言っている。

ここのところ一緒にいる時間が長いので、AI も飼い主に似てきたのかもしれない。

薫慧の家にあった台湾のティッシュ。キッチンペーパーを薄くしたような手触りで、たしかに日本のものより厚みを感じる。

◆ 8月21日:こども家庭庁が「日本版DBS」について民間事業者の利用を可能とする方針で検討しており、今秋の臨時国会にて関連法案が提出される見込みと報じられる。

※ DBS:Disclosure and Barring Service(犯罪証明管理および発行システム)。子どもと接する職場で働く人に性犯罪歴がないことを確認する仕組みのこと。

8月22日(火)

イラストレーター・漫画家であるカメントツの「この漫画を書くとき僕はオバケよりも世間にどう受け止められるかのほうが怖かったのです」という記事を読んだ。障害者が体験した心霊現象を中心に取材し、取材の過程と共に漫画に仕立て上げたものだ。その着眼点の鋭さに思わず「うーむ」と唸ってしまう。

この作品のおもしろいところは、障害を持った人の身体性が物語形成にどう影響しているかを実例的に捉えている点だ。

たとえば、学校の怪談の代名詞でもある「トイレの花子さん」。一般的には、学校のトイレで特定の扉をノックし、「花子さん、いらっしゃいますか?」と声をかけると「はい」という返事が返ってきて、その扉を開けるとたちまち恐ろしい世界に引きずり込まれてしまう…という内容なのだが、聾学校の生徒たちの間では、その伝承内容が異なっている。彼らはノックの代わりに手話を使用し、返ってくるのも音声ではなく手話である。

この変化はただの怪談のバリエーションではない。ユーザビリティを考慮したデザインの結果である。いったい誰の手によるものなのか分からないが、物語が聞き手に合わせて、より自然に感じられる形にアレンジされているのだ。こういう工夫と想像力を目にするとうれしくなってしまう。

このような翻案のアプローチは怪談だけでなく、落語や漫談、政治家のスピーチなど、話術の関わるジャンル全般に見られる。伝え手の意図と受け手の受容性を鑑みながら物語は柔軟に変化し、心のより深いところにメッセージが届くよう工夫されていくのである。

「うーん、これじゃあ伝わらないだろうなあ」
「もっとおもしろい話にできないかなあ」

そんな人間の想像力があるからこそ、物語は時代や障害を超えていくことができるのだ。

8月23日(水)

大学時代の友人たちと、横浜・Grassroots で集まって近況報告をした。珍しく大人数での集まりで、中には大学卒業ぶりに会う者もいた。すっかり遠くに住んでいると思っていた後輩がいつの間にか近くに引っ越して来ていることが分かって嬉しくなる。

僕がいま書いている自尊心に関する文章についてもいくつかアイデアをもらうことができた。その文章は別稿として公開する予定だが、ここには今日気づいたことを書き出しておこうと思う。

自尊心とは、僕たちが自分の価値を認識する心のことだ。それは他者との関わりの中で自分を位置づける土台となり、個人の精神衛生にも深く関わってくる。

自尊心を育む方法としてよく挙げられるのは「昨日の自分と今日の自分を比較する」というものだ。他者と自分を比べるのではなく、自分自身の成長を重視するアプローチである。

しかし、僕はこうしたアドバイスの射程はけっこう短いんじゃないかと考えている。それは、高齢者や後天的に障害を持ったケースへの想像力が欠けているからだ。彼らは日常の活動量や能力が確実に低下していく過程を経験する。そんな中で、人が自尊心を保つための方法はどのようにあるべきだろうか。

今日ひらめいたアイデアの一つは、過去の経験を肯定し、その価値を強調するという方法だ。例えば、高齢者にとっては、長年の仕事や家族作りの功績を振り返り、その実績を誇りと感じることが自尊心を養うことになるかもしれない。周囲の者にできる努力としては、その人が過去を振り返ることを助け、それを語る様子に耳を傾けるということになるだろうか。

話は脱線するが、この話題の中で、僕は「マゴハラ」が生まれるメカニズムはこういった高齢者の自尊心の問題が背景にあるのではないかと思った。

マゴハラとは「孫ハラスメント」の略称で、子どもが親などから「はやく孫の顔を見せてほしい」と言われたときに感じる圧力を指す。そこには子どもを持たない選択をする人や不妊に悩む人への想像力が欠けており、僕たちの世代においては「自分たちの世代に対する無理解」としてよく話題にあがる話だ。

これは単なる仮説だが、高齢者にとって孫の存在は、過去の自身の人生を肯定し、自尊心を満たすものなのではないだろうか。まず自尊心の問題があり、その歪みの発露として孫を求めるプレッシャーが発生する、という見立てだ。あるいは、実際に孫を抱くことの幸福感を、自尊心の充足として説明できるかもしれない。

世代間対立を価値観の対立として片付けず、それぞれの感情が生まれる構造に目を向けたいと思っているのだけど、今日はそのためのヒントをもらった気がする。

◆ 8月23日:慶應義塾高校が甲子園大会優勝を飾る。僕は同高校の森林貴彦監督の高校野球に対する考えに共感しているので、この勝利を通じてそのオピニオンにも関心が向けられることを心から願っている。

8月24日(木)

夏季休暇を使って仕事を休み、マー君と会っていた。

マー君は僕の大学時代の後輩だ。金沢八景キャンパスの小さな喫煙所から始まった付き合いがもう十年続いている。彼が入学したとき、僕はもう四年生だった。本来であればあまり深い関わりを持つはずはないのだが、当時の僕はけっこう本格的に退廃的な生活を送っていたため、留年を重ねることで彼との友情を育むことができた。人より学費を多めに支払った甲斐はある。

この日、十三時を過ぎると、予定通り福島第一原子力発電所に蓄積されていた処理水が一キロ先の沖合へと放出されはじめた。

僕たちは品川駅港南口の伊右衛門カフェで、そのニュースを眺めながら福島のことについてあれこれと話し合った。ほとんど留年の延長のような人生を送っている僕と違い、マー君は地元福島県に戻って市議会議員として奮闘している。その情報は生々しく、そして信頼のおけるものだった。僕はほぐし焼き鮭と明太子釜揚げしらすのお茶漬けを啜りながら、現地での実態や彼の取り組みについて詳しく聞かせてもらった。

地元で暮らす生活者、地場産業の労働者や経営者、特に漁師の方々、国内外の消費者、現実的に蓄え続けるわけにはいかない処理水という存在、県内各市や県の行政、農林水産省など国の関連機関、そして東京電力。これらはこの問題に関わる関係者で、誰の立場に立つかによって出来事の印象は大きく異なる。個人の人生観と国家の方針など、スケールの違う視点を単純に比較することはできない。補償は問題を解決するばかりか、住民間の諍いのもとになっている。それぞれの問題が互いに絡み合っており、有効な解決策は見あたらない。

そんなマー君の説明の中で、最も印象に残ったのが「市民が考えることに疲れている」というフレーズだった。

地元の住民にテレビカメラを向けてインタビューをすれば、「政府の対応に怒りを感じる」「風評被害が心配だ」といった憤りの声を収めることはできるだろう。しかし、そうした声が彼らの真心からのものであるとは限らない。多くの人々は、そう答えなければならないと感じているか、あるいはそう答えるのが一番無難だと考えているに過ぎないように思える。実際のところ市民はすでに心の奥底で疲れ果てており、もうあまり考えを働かせたくないのではないか、というのがマー君の指摘だ。それは、住民との日常的な関わりの中でその胸の内をよく知るマー君ならではの、鋭く説得力のある見解のように思えた。

「考えることに疲れている」という状態を招いているのは、課題の困難さや経過時間だけが原因ではないだろう。おそらく、思考の価値が失われてしまった背後には、震災後から絶えず繰り返されてきた失望があるのではないか。希望を持って思考し行動を起こしても、望んだ結果が得られないことが続いてしまうと、人々は考えることの価値を疑ってしまう。Learned helplessness(学習性無力感)といわれたりするものだ。

マー君が向き合っている問題は、2011年に「起こった」出来事ではなく、今も続く福島の「進行中の事態」にある。諦めないでほしいと市民に呼びかけながら、考えることの価値を取り戻そうと行動するマー君を、僕は応援し続ける。

◆ 8月24日:ロシアの民間軍事会社ワグネルの代表であるエフゲニー・プリゴジンが搭乗したジェット機が墜落。同月27日にその死亡が確認された。

◆ 8月24日:福島第一原子力発電所に蓄積された放射性物質を含む処理水の海洋放出が始まる。完了までの期間は三十年程度の予定。同日、中国は日本産の水産物に対する全面禁輸措置を宣言した。

◆ 8月24日:アルゼンチン、エジプト、エチオピア、イラン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)の6カ国が、BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ共和国)加盟を公式に発表。これらの国々は、2024年1月1日より正式なメンバーとして参加することとなった。

8月27日(日)

タクシーで Google Map を使う運転手をよく目にするようになった。運転席の前に車載ホルダーを取り付けて、そこにスマートフォンをガッシャンとハメ込んで使っている。すぐ隣にはもっと大きな画面のカーナビが設置されているのだけど、こちらはサイズに反して冷たくあしらわれているようだ。

数日前、横浜で乗ったタクシーには二つのカーナビと一つのスマートフォンが取り付けられていて、まるでロボットのコックピットかデイ・トレーダーの作業部屋のようになっていた。

運転手の男性に尋ねると、

「こっちは最初から車に搭載されているカーナビで、もう一つは会社から支給されたカーナビなんです。まあでも、僕なんかは Google 使っちゃうんでどっちもほとんど見ることはないんですよね」

とカラッとした声の答えが返ってきた。

一般のカーナビは地図情報の更新にお金がかかるが、Google Map は無料で常に新しい状態に保たれている。横浜のような都市部では頻繁に道路が変わってしまうため、情報が最新であることは何よりも重要なのだ、と運転手は説明を続ける。どうやらこのテーマに一家言ありという男だったようで、Google Map の素晴らしさとカーナビのポンコツさを嬉しそうに喋りはじめてしまった。

運転手にグダグダとこき下ろされながらも、二台のカーナビはいじらしく僕たちの現在位置を示し続けている。なんてかわいいヤツらだろう。Google には劣るだろうが、カーナビに搭載された地図システムだって莫大な資本を投じて作られたはずだ。しかし悲しいかな、情報媒体とは最新の情報を届け続けなければたやすくその価値を失ってしまうのだ。僕は開発した人々の努力を思いながら、急速に切ない気持ちに突入していった。

たしかに最近はレンタカーを借りたときでも、カーナビは使わずにスマホで Google Map を見ていることが多い気がする。窓の外に目を向けて、この街を走る車のどれくらいが積まれたカーナビを使用しているのか想像してみた。車内の前方中央に座したディスプレイが、だんだんと過去の栄光を偲ぶ仏壇の遺影のように思えてくる。

「…ですからね、こういうのをタダで提供してくれるんですから、Google の企業努力はすごいもんですよ!」

アタマの上を通り過ぎていく運転手の見当違いの熱弁が、なんだか妙に哀しくおかしかった。