認識のUpdate.
認識や意識、観念というのは、1回そう思うとずっとそのままということがあります。
「あいつは〇〇な奴だ!」という印象を一回持ってしまうと、何年もそう思っているわけですが、数年ぶりに会うと全然、違う感じの人になっていて「うへー!」と思うこともあったり。
人間でも、文化でも、世界・業界でも、プロダクトでも。
それが生きている限り、進化しているのですね。
いつも同じところに留まっているわけではありません。
「言葉」に関しては、古くなったら、なったままのことが多いのですが、
例えば「君の名は」は、現代に全く別の形で復活しました。(正確には「君の名は。」なんですが)
「君の名は」と聞いて、年配の方は女優 岸惠子の大ヒット映画を思い出すでしょう。もっと昔ならラジオドラマを思い出す人もいるかも?
でも若い人はそんな映画は知らなくて「君の名は」と言えば「君の名は。」なのです。
「ヤバい」という言葉だってそうです。
昔と今で、ヤバいの意味は正反対だったりするし、
現在では、正反対の意味が同時に存在していて、文脈に応じて使い分けられているのですよね。
言葉のように確定的に見えるものでさえ、時代によって認識が違うのです。
まして人間や文化などは、絶えず変化しているから、何年か前に認識していた姿のままでいる訳はありませんね。
それでも、なぜか人は「〇〇と言えば〇〇だ」という認識を変えようとしなかったりします。「そんなの当たり前じゃないか!」って言い切ってしまう人さえいるのです。
それでは正しい認識を持つことなど、できないですよね。
自分のなかの知識や認識、あるいは体験といったものは、何年かしたら再度仕入れ直して、アップデートする必要があります。
短いサイクルのものなら、半年・1年で常識が変わってしまうものもあります。
なんでも「終わった」と言う人
Twitterなんかには「終わった」っていう人が本当に多いと思います。
自虐的に言う人もいます。
「でもじゃあ、アンタは終わってていいのかよ?」
って突っ込みたくなります。
その人は終わりたいのかな?って思うわけですが、終わりたいと思っているものを「思うな」って言うのも無理があるし、どうしたもんですかね?
その人が認識している「終わった」というのは、ごくごく対象の一面に過ぎなくて、よくよく見てみたら全然終わっていないことも多い。
「終わった」と言われた当事者たちは、常に毎日そのことに関わっていて、日進月歩、進化しているのに、
全然知りもしない他人がその変化の過程のごく一瞬だけ切り取って「終わった」ということに、どんな意味があるのでしょうね。
繰り返しますが、全てのものは、生きている限り、いつも同じところに留まっているわけではありません。
決めつけは機会損失
以上のように、決めつけることは機会損失以外のなにものでもありません。
そこから先にも後にも行けないし、広がっていくこともないのです。
でも対象自体は常に変化していて、想像以上のものに進化している場合もあります。そのことを捉えられない鈍感さが、多くの残念な機会損失を生んでいると思います。チャンスや可能性を失っているのです。
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