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「自分」という呪縛から解放される

ここで話すことにはトゲもあります。
ある考え方においては正しい生き方に誘導していないかもしれません。悪しからずご了承ください。

SNSでの発信

SNSで実名で発信することと、仮名で発信することの大きな違いは、

自分の発信に責任を持つか、そうでないか。

ということだと思います。

リアル世界の立身出世教の教え的には・・
実名で発信して → 大きな評価を得て → 沢山の支持者を得て → 大成する
というのが一番かもしれませんが、

そもそもSNSに使い方の決まりはない(使用方法はある)ですから、noteだからこんな話をしないといけないとか、Facebookだからだとか、ツイッターだからだとかいうことは本来無いんだと思います。

SNSは、ある程度のユーザー層は狙っていると思いますが、まずは単なる「ツール」であり、そこで発信する人の特徴とは分けて考える必要があるでしょう。

社会の中にSNSがありSNSの上に社会がある

社会は人間が形成するものなので、形成できる場所にはどこだって成立しますよね。

アイデンティティ

Googleで「アイデンティティ」を検索して最初に出てくる概要にこのように書かれています。

アイデンティティとは、自分が自分であること、さらにはそうした自分が、他者や社会から認められているという感覚のことです。日本語では「自我同一性」と呼ばれたり、「存在証明」と訳す人もいます。

ヒューライツ大阪ウェブサイトより

リアル ≒ 実名

考えてみると、リアル世界とかバーチャル世界とかいうのは、実名でやるか仮名でやるかの違いに近いものではないかなと思ったりします。
バーチャルでも、決して嘘ではないし、現実ですよね。

つまり人間には、まずは実名でのアイデンティティが存在するわけですね。

表現したいという欲求

「承認欲求」などと言われますが、人間はメッセージを発したい、表現したいという「衝動」がしばしば起きると思います。理屈ではない欲求です。

自分が元々持っているアイデンティティにはそぐわない衝動も起きることがあると思います。
その時、既存のアイデンテイティの上でそれを表現したらどうなるでしょうか?それを新たな表現だとして社会は受け入れてくれるでしょうか?

答えはノーですね。おそらく。

悪い場合には、信頼・信用を損ねて、アイデンティティに傷がつく場合もあるでしょう。

仮名での実現

ネット社会になる以前から、仮名で活動して自分の表現を広めようとしてきた人たちは沢山いました。
小説家、作詞家、芸術家、芸能人・・
表現をする上で、実名では何らかの支障があるからそうしていたのですね。
元々のアイデンティティを守るために、新たなアイデンティティを作り出すわけです。

あるいは、元々のアイデンティティが、その人の人生経験の中で確立できないと分かったときも、そういった表現に向かう場合もあるのかも知れません。

全く違う自分を表現する必要がある時もある

生き方として、必ずしも自分のアイデンティティが一つである必要はないと思います。
一つで行ける人は、それはそれで幸せだとは思うけど、どうしてもそれが叶わない時は、その一つにこだわる必要は何もないのです。
そういった「自分」を吹っ切ることによってのみ、表現できるものがあると思います。

作詞家がペンネーム(別名)で活動して、後から「あれは私でした」と言えるのは、新しい表現が社会に受け入れられたからに他なりません。

時には「自分」にこだわる(自己を同一化する)のをやめて、新たな自分を作り出しても良いのではないでしょうか?

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