見出し画像

零れ落ちる言葉


「言い回しが好き」「気持ちの言語化が好き」「noteそろそろ更新して」「よっ文豪」などといわれることが偶にある。完全にいじりが入っているが生憎社交辞令を曲解できるほどの知性は持ち合わせていない。勝手に一人で気恥ずかしさ混じりで喜ぶだけの独身男性がそこにいるだけ。

自分が凡才であることは本を読んでいれば嫌でも思い知らされる。noteの更新ごときで創作してる気になるのは烏滸がましいが、創作している人間は常に才能の暴力に悩まされる。

才能がある人間の文章にはリズムがある。自分の淡々と書く文章とは全く異なる。才能がある人間の文章は嫌味なく文学的言い回しが入ってくる。自分の"こんな書き方できますよ"感全開の言い回しとは全く異なる。

たまに自分の書いた文章を読んでは自分で感動する。しかし、自分の感性で書いたものを一番共感できるのは自分。至極当然である。才能があるわけではないのに自分一人なら感動させられるのは奇妙な話だ。ではなぜ、周りからいじりでも文豪などといわれるのか。それは発信しているかどうかの違いでしかないだろう。

フェルマーが最終定理を「余白が狭すぎる」という理由で書かなかったのはあまりにも有名な話だ。本当に頭のなかで完成していたとか、未完成を悟らせないために格好つけていたとか色々と説はある。だが、当時の事実としてあるのはフェルマーが最終定理を記述しなかったので完成していないということだけだ。

どれだけ良い作品が書ける小説家でも原稿用紙に書き起こさなければ無価値だ。芸術家も小説家も漫画家も〆切間近は口をそろえて「頭の中ではできている」などとほざく。将来的に人の脳みそのデータを読み込んで、それを外部出力できるようになれば話は別だが、2024年現在においては脳から外部に出力できていない”頭の中にあるデータ”は何の価値も見出されることはない。

”頭の中にあるデータ”というものは外部出力した瞬間に思い描いたそれとは全く違うもの様相を呈している。特に造形を生業とする人は”頭の中にあるデータ”をそっくりそのまま出力したいと願うことは多い。私自身も建築に触れているとそう考えることが往々にしてある。

PCの内部データは全て”0と1”で構成されて、出力値は”画像”などで表示される。同じように人間も”頭の中にあるデータ”は手や口といった外部出力装置によって”予想だにしないデータ”が出力される。この裏切りを楽しめる人間が出力行為を楽しめるのだろう。

他人に「考えすぎ」と言われる私は、考えていることを文字にするだけで意外と好評だったりする。個人的感覚としては、受け取り手のいない零れ落ちるだけ言葉たちをネットに放流しているだけなのだ。友人が少なく恋人がいない一人暮らしとは大体そんなものだろう。

特に深い理由も無くなんとなくでやっている行動が文豪などと言われるのだとしたら、世の中の大半は友達が多く恋人がいるらしい。文豪が少ないほうが世の中的には良い方向に進んでおり、自分自身も希少価値が上がるのだ。見方によってはwin-winだ。そう、見方によっては。



脳の中でぐちゃぐちゃと境界さえ分からないものを濾して、残ったものを捏ね繰り回し、形成された愛すべき排泄物。どこまでが自分を愛するための本音で、どこからが他人の目を気にした建前か分からなくなる。本音だだ漏れで書いているつもりでもnoteとして発信する以上、絶対に建前がついて回る。

そもそも書いてはいけないこと、発信してはいけないことは多い。言ってしまえば倫理的なことだ。匿名だからと強気になる奴も多いが、現代では匿名性など無いに等しい。夕方のワイドショーで、殺害予告をして捕まる阿呆の多さを実感する。

あいつを殺してやりたい。あれを壊してやりたい。あいつを犯してやりたい。欲を超えた衝動とは酷く暴力的。行動に移さなくとも精神的ダメージを与える。たとえ私が本音のみで書くことを目標にしても超えてはいけないラインはあるのだ。”人の尊厳は踏みにじるな” 影響力のあるなしに関わらず肝に銘じておくべき重要なことだ。

衝動ではない、理性的な本音をこれからも不定期でここに零れ落としていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?