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雲を四捨五入する

『君たちはどう生きるか』という深遠なタイトルに触れ、一家言ありそうな宮﨑駿がとうとう集大成ともいうべき作品を世に問うのか、と注目した。作品静止画が公開され、それを見た私のなかで減退するものがあり、今に至る。哲学的なテーマとアニメーションの手法。そこに大きな隔たりを感じ、阿呆らしくなってしまったのである。

否定するつもりなどまったくない。美術やアートについては門外漢であり、個人的な感受性の問題に過ぎない。違和感は輪郭線にある、ということはすぐに自覚した。眉や髭、瞳にまでしっかりと描き込まれている。想えば、ラスコーの壁画の時代にはすでに輪郭線を描いていたのだった。

渋谷のスクランブル交差点に、輪郭線をもつ人間はひとりもいない。「あなた、輪郭線がないから描いてあげますよ」という親切な人間もいない。おそらく、漠然と私が抱いていた疑問と宮﨑駿の作品が潜在意識下で交錯したのだろう。

ジェノサイドで300万人が犠牲になったというとき、相当な数の誤差がある。ふわっとした表現では説得力に欠ける。だから生命を切り上げたり切り捨てたりして数字を丸めて輪郭線を引き、人間は認識して安心する。

0と1でコンピューターをつくる。さらにスーパーコンピューターをつくる。台風の進路と発達を予想し、暴風域を確率論的に算出して円で囲む。存在しない数日後の円を見て、人間は安心する。

私たちは、四捨五入したりされたりして生きている。雲をつかむような話だ。どこまでが雲でどこからが雲ではないのか、わからない。四捨五入して輪郭を与える。

一冊の本を読んだ。『ある行旅死亡人の物語』(武田淳志/伊藤亜依著、毎日新聞出版)。

2020年4月。兵庫県尼崎市のとあるアパートで、女性が孤独死ーー
現金3400万円、星形マークのペンダント、数十枚の写真、珍しい姓を刻んだ印鑑......。記者二人が、残されたわずかな手がかりをもとに、警察も探偵も解明できなかった身元調査に乗り出す。舞台は尼崎から広島へ。たどり着いた地で記者たちが見つけた「チヅコさん」の真実とは?「行旅死亡人」が本当の名前と半生を取り戻すまでを描いた圧倒的ノンフィクション。

帯より

行旅こうりょ死亡人とは、身元も引受人も不明な死者を表す法律用語らしい。謎に満ちた話だった。そして切ない。年間の孤独死3万人という数字は、生命を取りこぼす。女性は(社会的な)輪郭を失い、または自ら消して生き、ひっそりと終わりを迎える。記者は女性の輪郭を求めて深く潜る。

もともと私たちに輪郭などなかったのではないか。だから、実存するために輪郭線を描くのではないか。なかでも、文章を書くという行為はその最たる典型だろう。

私の場合、輪郭を溶かそうとする力(捕まってたまるか)と鮮明にしようとする力(これが私だ)が同居して拮抗しているように思える。

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