「死にたい」と言っているうちは大丈夫、は本当にそうなのか

*個人的に感じること


 私は職業柄、精神疾患や発達障害のある方と関わることが多々あります。
 また同じように、そのような方を支援する仕事に就いている方とお話をする機会も多くあります。
 そのような中で、「決めつけ」で支援をするといった、支援者側の偏見を感じることがあります。

 例えば、これはあくまで一例ですが「死にたい」「今から死のうと思う」などと相談者から連絡があった場合、「死にたいと言っているうちは大丈夫」「精神障害の人がそうやって連絡をしてくるってことは、心配してほしいだけ」などのように、一つの見方や捉え方しかしない、あるいはできない支援者がいるのではないか、ということです。
 「精神障害者」などと一括りにして、本当に対象者の姿がみえるのでしょうか


 ソーシャルワークのアプローチ、モデルに、個人と環境は交互作用(円環的に相互作用)し、そのインターフェースにアプローチするという考え方があります。
 この考え方は対象者理解に有用と言われており、個人的にも、一部不十分なところがあるとは思っていますが(現在研究中)、非常に大切な考え方だと思っています。

 例えば、ひきこもりと精神障害、人格障害、発達障害は非常に関係が深い(もちろんすべての方がそうというわけではありません)と言われていますが、ひきこもりという現象を、個人の問題として捉えるのか、環境、例えば本人の背景にある精神疾患への理解がない家族、知人、友人、職場や学校、近所に住む地域の方などの問題としても同時に捉えるのか、ということです。

 もちろん、理解のない家族や地域が悪い!など誰かを責めるものではありません。
 個人の怠けだ!など、原因を本人の「性格や人柄」のみに焦点化しないことが大切なのではないでしょうか。
 問題、課題の捉え方が変われば、支援の方法も自ずと変わります。

 また、比較的軽度のAD/HDやアスペルガー(ASD)などは、ぱっと見ではわからないため、本人でさえも原因、理由がわからずに生活のしづらさを感じていることが多いのではないか、と言われています。
 成人で、発達障害のある方の半数はうつではないか、と言われることもある程です。

 ベースに発達障害があり、そこからうつや統合失調症、ひきこもりやPTSDなどが二次的に起こり、それによって対人関係に支障が出てくるのではないでしょうか。
 裏を返せば、周りの理解が進み、接し方など対人関係のあり方が変われば、ひきこもりやうつなどが軽減されるのではないか、ということです。

 繰り返しになりますが、病気や障害などと、その人自身の性格や人柄とは別で捉える必要があるのではないでしょうか。

 例えば、胃痛で苦しんで路上でうずくまっている方と、幻覚で苦しんで路上でうずくまっている統合失調症の方と、基本的には同じではないか、ということです。
 胃痛で苦しみ、顔がしかめっ面になっている人のことを、性格が悪くなった、人柄が変わってしまった、とは言わないかと思います。同じように、幻聴で苦しんでしかめっ面になっている人がいたとしても、その人の性格や人柄と病気とは別なのではないでしょうか。

 支援者が偏見を持たず本人の姿を捉えたり、周りの方の病気や障害に関する理解が少しでも進むことが、支援の一助になるのではないかということなのです。

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