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【映画感想文】蛇の道

黒沢清監督が自身の1998年の作品をフランス×日本の共同制作でリメイクした『蛇の道』の感想です。

哀川翔さん主演の復讐シリーズの中の一本が今回の『蛇の道』なんですけど、そのセルフリメイクということで、1998年のオリジナル版(Vシネ)を初めて観たんです(U-NEXTで観れます。)。黒沢清監督の映画は大好きでほとんど観てるんですけど、この復讐シリーズはまだというか、完全に後回しにしておりまして。まぁ、頼まれ仕事感ビンビンだしなと舐めたことを考えていたんですが、いや、すいません、完全に間違ってました。黒沢映画にある混沌や不条理、無機質さ、理解を超えたところにある物語の牽引力、そして、圧倒的な空虚さ(これ、だいぶ脚本の高橋洋さんの持ってる部分でもあると思うんですけど、それと相まって)。つまり、黒沢映画の面白いところだけ煮詰めたような作品だったんです(もちろんストーリーは破堤してるし、設定にもだいぶ無理もあるんですけど、それを凌駕する黒沢ワンダーが全開なんです。)。

これは完全に個人的な推論であり暴論だと思うんですけど、これってやっぱり頼まれ仕事だと思うんですよ。だから、あまり考えずに脚本に書いてあることをファーストインプレッションで映像にしてるみたいな感じがあって(というか、原作や脚本を読んだときに感じた感覚をそのまま映画にするのが好きなんでしょうね。黒沢監督は。この初期衝動をそのまま映像に出来ちゃうというのが監督の凄さではあるんですが。)。例えば、拐ってきた人物を廃屋に鎖で繋いで監禁するって書いてあったら、それをそのまま映像化してる感じなんですけど。今の日本でそんなリアリティのない場所あるか?って思ってると、あ、ありそうっていう廃屋が現れるんです。で、納得してると、今度はそこに哀川翔さんが自転車で来るんですね。え、ここ自転車で来れるくらい街中にあるの?でも、さっき、拳銃バンバン撃ってたじゃんてなると、すかさず「ここは防音だからいくら叫んでも無駄だ。」ってことを言うんですよ。セリフで。なんというか、せっかく構築した虚構を自ら壊してそのいい感じにゆるゆるになった世界の中で再構築みたいなこと(虚と実が行ったり来たりするような。これって脱構築っていうんですかね?)をやるんです。で、まぁ、そういうことされると観てるこちら側でも、あ、ここは壁一枚隔てたら異次元なんだなっていうような(ぶっ飛んだ)理解の仕方をですね。せざるを得なくなるわけなんですよ。だって、上手くだまそうとしたらたぶん出来るんですよ。『回路』の幽霊とか、『クリーピー』の家とかほんとに実在するわって思えましたし、この作品の中でも理屈で説明しようとしたら出来るような設定ではあるんです。こういう理屈で”やる”ところと、あえて”やらない”ところの作劇の仕方というか、それも含めての世界の作り方っていうのがゾワゾワするというか恐ろしいんですよね(哀川翔さんが解いてる誰が見てもこの世に存在しない数式とか。理屈じゃないところの恐ろしさですよ。それと悪の代表がヤクザっていう妙に現実的なところとの対比とか。)。それと、黒沢監督特有の役者に状況やバックボーンなどを説明しないで撮るという演技の付け方が相まって衝動的なんだけど平熱というか、そういう不穏さに満ちた作品になっていると思うんです。

脚本の高橋洋さんは『リング』や『女優霊』など、いわゆるJホラーの創始者のおひとりで、理屈よりもパッションという感じの印象があるんですけど、その理屈がないがしろ(←いろいろ考えたんですけど、この言い方が一番しっくりきました。いい意味です。)にされたところを、そのまま、足しも引きもせずに描いてるみたいな感じがあって。ある理由(いや、これも理由があるのかないのかよく分からないんですけど)から復讐を請け負うことになる主人公の新島の、もう、キャラクターというより”復讐”という概念として存在しているんじゃないかっていうような空虚さも、これ、哀川翔さんが演じたからそうなってるんだと思うんですよ。だって、この新島に復讐を頼む香川照之さん演じる宮下というキャラクターも、こちらは狂気の概念のような人で(正しく『クリーピー』につながる香川照之さんでこその配役なんですけど)。このふたり、とても同じ世界線の登場人物とは思えないんですよ。まったく空洞の哀川翔さんとなんだかよく分からないけどいろんなもの盛り盛りの香川照之さんですから。だから、既に決められてたものを適当に配置していって、それを俯瞰で見たらおのずとこういう物語が出来るよね的な感じがするんです。なんですけど、その配置とそこから抽出する何かっていうのがめちゃくちゃ的確だと思うんです。空虚と狂気に魅入られた人たちが次々と人間としての尊厳を奪われていくっていう。ストーリーとか設定とかいろいろあるけど、この物語の怖さってそこだよねっていう。その根幹のところがダイレクトに伝わって来るんです(これが後年、また高橋洋さんとタッグを組むことになる『散歩する侵略者』のスピンオフ・ドラマ『予兆』での、からっぽのキャラクターが人々から”概念”を奪っていくっていうプロットにも繋がっているようで面白いんですよね。そういえば、このからっぽのキャラを演じる東出くんも哀川翔さん同様空虚さを感じさせる俳優さんでした。)。そして、こうやって実際の俳優の人のキャラクターと役のキャラクターが交じり合ってるような感じというのも虚と実が曖昧になる黒沢作品世界を象徴してるように感じるんです。

えー、で、いよいよ今回のリメイク版の『蛇の道』に入ります。今作では脚本は高橋洋さんではなく黒沢監督単独になっていて、舞台も日本からフランスへ。主人公の新島は女性ということで柴咲コウさんが演じているんですね。というのが決まっていたのか、黒沢監督ご本人が決めたのかは分からないんですけど(ご自身で決めたことを既に決まっていたことのように描くのが黒沢映画なので。)、ぶっちゃけこの変更以外はほとんどオリジナルと同じなんです。というか、この変更がなされた為に今回のリメイク版はこういう展開になったと言いますかね。まず、高橋洋さんの脚本にあったパッションで押し切ってる部分。そこにちゃんと(というかなんとなくというか)理屈がつく展開になっているんです。で、これもどちらが先かは謎なんですけど、その理屈が主人公を柴咲コウさんにしたからそうなったってふうに見えるんですよ。柴咲コウさんも割とミステリアスな役を演られますが、哀川翔さんに比べて、ああいう空虚さはないじゃないですか。内心何考えてるか分からないということはあっても、それは内に秘めた何かがあるからこその分からなさというか。で、そういう人に母親という役割を与えて『蛇の道』という物語世界内に落としたらどうなるかっていうストーリーになっているんだと思うんです。

だから、もちろん人を鎖で繋ぐコンクリート壁の廃屋は出て来るし、そこへ柴咲コウさんはチャリンコでやって来るし、鎖で繋がれた悪人が床に落とされた食事を直接口で食べてる横では、新島が新たな鎖を溶接して、そのまた横ではアルベール(=宮下)が拳銃撃ってるし、当然、この廃屋では大声出しても誰にも届かないし、もう、観念して一緒に行くって言ってる人をわざわざ寝袋に押し込んで(本人もいやいやながらも決まりごとかのように従って)引きずって行くんですよ(どう考えても歩かせた方が合理的だし楽なのに。)。これ、全部、オリジナルでなんだか変だなと思いながらも奇妙な良さがあって印象に残ってるシーンなんですけど、オリジナルでは理屈よりもパッションが優先されていたのでそれほど気になっていなかった点なんです(いや、気にはなってましたけどね。でも、そういう世界だからなで納得してたんです。)けど、今回はそこに理屈が付いてるんですよ(というか、監督が自ら付けてるんですよ。)。なので、(オリジナル)よりおかしなことになってるんです。いや、まぁ、上に挙げたシーンていうのは間違いなく『蛇の道』という物語(ひいては黒沢清監督の映画)の面白さを構成している要素なんですけど、それは何かがおかしいっていう不穏さを伴ったというか、ともすれば、物語全体を壊しかねない要素なんですね。監督はそういうこと分かってて今回も入れてるんです。この辺りが黒沢映画のスゴイところですよね。この分かってるのに分かってないふりしてるみたいな所業(監督のインタビューとかでも感じるんですよね。この分かってるのに分かってないふりみたいなの。)が、新島小夜子(柴咲コウさん)が理屈で動いてるようで、じつは『蛇の道』っていう物語自体に取り込まれてるんじゃないかって見えてくるんです。ね、分りますかね。このヤバさ。オリジナルでは、物語全体を通す虚無感に気づいたときに「ヤバ…」と思ったんですが、今回は、その物語自体が意志を持って登場人物たちを取り込もうとしてるように見えたときにゾッとしました(西島秀俊さんの役は、オリジナルでいうところのあの数式なんだと思うんですけど、数式っていう概念みたいなものの役を今作では人間の役にしてるのもこれまたヤバイですよね。)。

ということで、黒沢清監督のある種の真髄が見られる本作ですが、パラレルワールドのようになっているオリジナルとリメイク版、併せて観るのがよりヤバくてオススメです。


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