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前々回感想書いた「惡の華」と、前回感想書いた「宮本から君へ」、そして、今回の「ジョーカー」と、じつはこの3本ほとんど同じ話なんですよね。どれも社会に受け入れられなかった男がキレるまでを描いている話で、「惡の華」は10代の思春期を、「宮本から君へ」は20代の青春期を描いていましたが、今回の主人公のアーサー・フレックは40代(? 30代かな?)の思春期も青春期も通り過ぎてしまったおっさんで、それでも上手く生きられない理由は何なのかっていう。前の2本にはまだ希望があるけど、さすがにおっさんになってこれだと希望がないぞというか、同じテーマとはいえ3本の中でも最も厄介な話なんですよね。アル中コメディ映画「ハングオーバー」シリーズのトッド・フィリップ監督で、ホアキン・フェニックスがジョーカーを演じるDC作品「ジョーカー」の感想です。

というわけで、世界中で話題になっていますが、そろそろR指定のついた作品での世界興収(が「デッドプール」を抜いて)第1位になる様なんですけど、ただ評判的にはかなり賛否両論らしく。しかも、それが作品の良し悪しというよりは倫理的にどうかとか、逆に悪役としてのジョーカーの描き方としてどうかっていう様なところで。面白いかどうかよりも、有りか無しかってところの判断基準になっているんですね(ちなみに僕は肯定派です。だって、映画としてめちゃくちゃ良く出来てるんですもん。単純に観やすくて面白い。)。で、それが観る人の倫理観によって大きく変わってくるという。つまり、この映画を許せるかどうかでそれぞれの倫理観が試されるみたいな感じになっていて。ジョーカーに共感した人は「共感出来ないやつは圧倒的な強者で差別される側のことなど分からないんだ。」って言うし、共感出来なかった人は「犯罪者に同調してしまうなんて危険思想だ。」って言うしで。あの、この揺さぶり方自体がジョーカーそのものなんじゃないかなって思うんですよね。

だから、映画はそのジョーカーという悪役がどうやって生まれたのかっていう体裁を取りながら映画自体が正にジョーカーじゃんて作りになっていて(これだけでも僕なんか凄いなと思ってしまうんですけど。)。しかも、観れば観るほど、考えれば考えるほど、ここで描かれてることがマジなのかギャグなのか、正しいのか間違ってるのか、現実なのか虚構なのか分からなくなっていくんです。あの、僕、初見時、この映画の結論の付け方に対して、自分が怒ってるのか喜んでるのか悲しんでるのかよく分からなくなって、そのまま同じ映画館で次の回も観たんですよ(まぁ、結局、2回目も同じ様な気持ちだったんですけど。)。で、ちゃんと俯瞰で見れば、この虚構と現実を行き来してる様な構成が計算なんだってことは分かるんです(要するに計算して分からない様にしてるってことです。)。なんですけど、それがあまりに見事で。その揺さぶりの掛け方と何重にもなってる虚構(原作はコミックだってこととか、ジョーカーっていうキャラクター自体がそもそも"純粋悪"として成立してしまっているとか)と現実(この映画がオマージュしている「タクシードライバー」や「キング・オブ・コメディ」の主役のロバート・デ・ニーロがマレーって役で出てるとか、そもそもホアキン・フェニックスのこれまでの行動がジョーカー的であるとか)の層が予想を超えて拡がっていくことになって。社会派ドラマとして観ていると、あ、でも、これジョーカーの話なんだよなって、悪人が生まれる話なんだよなってなって。正しさの基準がどこに置かれてるのかっていうのが全然分からなくなるんですね(ていうか、そもそも"正しさの基準なんてない"のがジョーカーですから。)。トッド・フィリップ監督、「ハングオーバー」シリーズしか観てないですけど、そうとうな策士ですよね。だって、こういうの全部ひっくるめた上でこの映画を作ってると思うんですよ(監督がこれまでコメディを撮って来た人だってことも見事にこの映画の見方に揺さぶりを掛けてきますしね。)。

で、策士と言えば、この人の方がはるかに皆が知ってる策士なわけで。今回のジョーカー役のホアキン・フェニックス。この人がこの虚構と現実を浮遊してる様な話をぐーっと映画内現実に引き寄せてる張本人だと思うんですけど。映画の冒頭、ジョーカーになる前のアーサーはコメディアンを目指しているんですね。でも、それでは食えないので普段はピエロの仕事をしているんです。で、その日も楽器屋の閉店セールの看板持ちをしていたんですけど、街の不良たちにいたずらされて看板を盗まれるんです。追いかけた末に看板を壊されてアーサー自身もボコボコにされるんですけど、うらぶれたおっさんが不良たちにボコられるなんてシチュエーションは映画では割とあるというか、分かりやすく可哀そう感と世界は酷い感を出せるのでディストピアな世界を描くにはあるシチュエーションなわけです(例えば、「時計仕掛けのオレンジ」にもホームレスのおっさんをドルーグたちが袋叩きにするシーンがありますし、全然違う映画ですけど、「その男、凶暴につき」にも同じ様なシーンがあります。どちらも世界の悲惨さを表しているわけです。つまり、この映画の主人公は、「時計仕掛けのオレンジ」や「その男、凶暴につき」でボコられてたあのホームレスみたいな役どころの人なんだってことが分かる様なシチュエーションてことです。)。だから、そう思って観てたんですね。割と分かりやすいことやるんだなって。そしたら、シーンが変わったところで、誰かの泣き声とも笑い声ともつかない声がしてきて、 なんだろうと思ってたら、アーサー(後のジョーカー)がカウンセラーと接見してるシーンで。その声はアーサーの笑い声だったんです。その声を聞いてたら、僕、ワケ分からないんですけど泣けて来たんですよね。後々、アーサーは脳に疾患があってシチュエーションに関わらず笑い出してしまう病気だったって分かるんですけど、その時はまだそうとは分かってなくて。それなのに、その笑い声を聞いてたらめちゃくちゃ泣けて来たんです。なんていうか、とにかく悲痛で。たぶん、看板壊されてボコられたことに泣いてたとしたらシラけてたと思うんですよ。いいおっさんが不良に殴られて泣くなよって。ただ、これが笑い声だったって気づいた時に、なんて言うんですかね、アーサーのそれまでの(恐らく惨めで報われなかった)人生を理解した様な気持ちになったんですよね。共感とも違う。この人のことを理解してあげられてるみたいな(ちょっと上からの優越感みたいな気分です。)。ああ、これがホアキン・フェニックスかと思いましたよ。ここでがっつり感情移入しちゃったから後はもうされるがままになっちゃったんですよね(ちなみに、ここが僕が最もアーサーに感情移入したところです。なんなら、アーサーの境遇が分かるにしたがって冷めて行ったくらいで。)。

で、このアーサーのことを理解出来ているって感じたのって、たぶん、同情なんですね。アーサーのことを分かった様な気になって勝手に同情しているんだと思うんです。これ、なんでそう思ったのかっていうと、アーサーの境遇って、これまたよくある境遇なんですよ(よくあるというか知ってる境遇なんですね。)。貧困に喘ぎながら病気の母親の介護をしつつ自分も精神疾患を抱えているなんて。例えば、息子が病気の母親の行く末を悲観して殺してしまい自分も自死したなんて事件、その犯人像を追っていくとこんな境遇だったりってことが実際にありますよね。そのことを僕らはニュースかなんかで見て知っているから、それをアーサーのことと混同して勘違いしちゃってるんだと思うんです。じつはこの映画、こういう現実のニュースとか過去の映画のオマージュなんかを切り張りした様な内容で構成されていて。そのコラージュ力とホアキン力でグイグイ観せられて行ってしまうんだと思うんです。ただ、僕が「ああ、これは圧倒的に共感してしまった。」っていうところがあって。それは、アーサーが表現者になろうとしていたってところなんです。(さっきも書きましたが、)アーサーはコメディアンを目指していたんですね。人々を笑わせたいと思っていたんです。もちろん最初は母親からハッピーちゃんと呼ばれ「あなたの笑顔は皆を幸せにする。」と言われたことがきっかけだったかもしれないんですけど、病気を苦にして引きこもったり、不公平な社会に対していじけたりはしていなかったんです。懸命に外へ出て自分を表現しようとしていたんです。ただ、圧倒的に才能がなかった。実際にアーサーが世間を信用しなくなった直接的な理由ってこれなんですよね。信じてたものに裏切られたっていう(そして、そんな自分の人生こそがお笑いじゃんてことに気づくという。)。

はい、ね、こうやって観ちゃうと非常にアーサーに肩入れしてしまうというか、闇落ちしてしまう気持ちも分からなくもないんですけど、ただ、この映画が怖いのはこういう話と平行して、アーサー自身のもともと持ってるヤバさも描いていて。養護施設の慰問に拳銃を持って行くとか(そして、それを半ばわざと落として持ってることを気づかせるとか)、自分の父親かもしれない男に会いに行くのにパーティーのウエイターの格好してビルに忍び込むとか。中でも、最もヤバイのは妄想癖で。これがあることによってアーサーどころかこの映画自体を信じられなくなるんです。この映画のどこまでが真実を描いていてどこまでがアーサーの妄想なのか。そう考えると映画自体が「ダークナイト」でジョーカーが自分の出自として語ってた人の同情を買おうとしてる様な嘘。あの嘘みたいな話なんですよね。純粋悪だったジョーカーが悪に堕ちた理由が明確になってしまうのはつまらないと僕も思っていたんですけど、この話どこまで信じていいのかほんと分からないんです。ここでまた虚構と現実が混沌としてくるんですよ。

で、ラストカット。ずっと現実か虚構か分からない世界を描いて来た映画が完全に虚構(妄想)に振られるんですよね。映画としては「これは映画っていう虚構だ。」っていう宣言なんだと思うんですけど、例えば、これがアーサーの妄想の行き着く先だとしたら、このシーンはアーサーにとっての希望の具現化ですよね。だから、思わず良かったなと思ってしまうんです。でも、それはもう一方で理解の及ばない悪(ジョーカー)の誕生をも示していて。で、それは純粋悪でも何でもなくてジョーカーになりうる可能性を秘めた人はいくらでも現実に存在するってことでもあるんです。でも、映画自体はそれを「いや、でも全部ジョークだから。」って言っているんです。何なんでしょう。めちゃくちゃ翻弄されるんですけど、それが心地良くもなる様な。いや、非常に美しくて魅力的なんですけど間違いなく危険な映画ですよ(この映画の中でジョーカーが誕生した瞬間がどこだったかと言われたら、髪を緑に染めてピエロのメイクをした時でも、自分の血を口に塗りたくって笑い顔を作った時でもなくて、精神病院のカウンセラーから思いついたジョークを聞かせてくれと言われた時に「理解出来ないと思う。」って断った時ですよね。あそこでアーサーは完全に世間に受け入れられることを拒絶したんだと思うんです。あそこ、個人的にもの凄くグッと来たんですよね。)。

http://wwws.warnerbros.co.jp/jokermovie/

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