見出し画像

はい、えー、欅坂46のファンを公言している限り義務として観に行かなくてはならない。そして、劇場で観た映画は全て感想を書くという(自分内)約束のもとにこのブログを書いている以上、率直な感想を述べねばならないという状況において、何の贔屓目もない正直な感想が書けるのか?という迷いはありますが、いや、というかですね、もともと自分が映画を観始めたのは、アイドル映画全盛の80年代であり、話題になったそれらの映画をワケも分からず見続けるうちに映画好きになったわけだし、「跳んだカップル」や「セーラー服と機関銃」で薬師丸ひろ子というとんでもないアイドルを世に送り出した相米慎二監督なんて好きな監督あげろと言われたら確実にベスト3には入るくらいですから。(「セーラー服と機関銃」のオープニング・シーン、今だにもっとも好きな映画オープニングのひとつです。)言ってみればアイドル映画というのは僕の映画人生の原点でもあるわけです。となれば、まずは最新型のアイドル映画として観て然るべき。ということで、行って参りました欅坂46平手友梨奈さん主演映画「響-HIBIKI-」の感想です。

えーと、まず、アイドル映画とはどういうものなのかってことなんですが。個人的な定義で言わせてもらえば、その人のその時にしかない輝きを、時代の空気と共に真空パックすると同時に、(アイドルを使うことによる)数々の制約の中でいかに監督のやりたいことをねじ込んで一本の映画に纏め上げるかってことだと思うんですね。ただ、これを両立しようと思うと(制約の中でやりたいことをねじ込むので)無理が生じるわけです。その無理を通す時に起こる軋轢のエネルギー、それが時として理屈を超えた傑作を産むことがあると。そういう混沌とした面白さのあるものだと思うんですよね。(「時をかける少女」なんかはそれだと思うんです。大林宣彦監督や、先にあげた相米慎二監督なんかはもともとの資質がそういう人たちでもあるわけですが。要するに自分が撮りたい題材ではない話をいかに面白いと思える作品に捻じ曲げるかってことで。アイドルを売りたい側と映画として成立させたい側の攻防、そのイビツさが映画を面白くするんだと思うんです。相米監督の「跳んだカップル」なんかは正にそういうイビツさを持った映画ですよね。)

で、その視点で観た時に、この「響-HIBIKI-」はどうかってことなんですが、そういういわゆるアイドル映画とはちょっと違うと思ったんですね。えーと、映画の成り立ち方が違うのでそこかなと思うんですけど。要するに、平手さんありきで映画製作がスタートしてないんです。いや、企画としては平手さんが主人公を演じることで映画化イケるってなったと思うんですけど、そもそも原作が人気のある漫画で、その漫画を映画化しようって話が先で、平手さんが主演に抜擢されたのは原作者の方の強い要望があったかららしいんです。主人公の響と平手さんの(ビジュアルが似てるというのもあるんですが、)置かれている境遇や、考え方とか姿勢に近いものがあって、僕も原作を読んでいて(原作のファンでもあるんですが、)これ当て書きしたんじゃないの?ってくらい平手さんなんですよね。主人公の響という娘が。例えば、出版社の小説の新人賞に応募して、響がその才能を見出されるのが15歳なんですが、平手さんが欅坂のオーディションに受かって、デビュー曲の「サイレント・マジョリティー」でそのカリスマ性を発揮するのは14歳なんです。そして、どちらも応募した理由が「自分の力を試してみたかった。」ってことで、ほんとにそれだけというか。響はのちに直木賞と芥川賞の両方を奪ることになるんですが、そのこと自体には全く興味ないんですね。で、平手さんの方も欅坂の圧倒的センターと言われてデビュー曲から最新の7枚目のシングルまで全ての曲でセンターのポジションを奪ることになるんですけど、そのことにはほんとに興味なさげなんです。(というか初期の頃は本気で嫌がってましたね。)で、僕が欅坂に興味を持ったことのひとつにこれがあるんですけど、じゃあ、何の為にやってんだよって言われれば、「やりたいから」ってだけなんですよ。賞とか名誉とか、つまり、人の為にはやってないってことなんです。(基本的にはこの精神性が徹底しているからこそ人から奇異な目で見られていろいろ厄介なことになって行くんですけどね。)それなら、ひっそりと人の目の触れないところでやってりゃいいじゃんて、意地の悪い人は言うと思いますが、ただ、天才なんですよね。ふたりとも。その才能を世間が放っておかないという境遇にいるわけなんです。だから、そういう他人から見たら理解不能な行動をとる天才を描くっていうのがこの物語のテーマのひとつになっているんですが、響を描くことがそのまま平手友梨奈を描くことにもなるので、つまり、必然的に"その人の今を封じ込める"というアイドル映画のフォーマットにハマってしまっているんですね。で、この、アイドル映画ではないのにアイドル映画になってしまう(どうしたってある種のキャッチーさが出てしまう)というのも、この物語の核心のひとつだと思うんです。(今回の映画化では、正しくここの部分をそうとう強調して描いてましたね。)

芸術的な天才を描く映画というとミロス・フォアマン監督の「アマデウス」がありますが、(とても好きな映画です。僕、基本的に天才を描く映画好きかもしれません。)原作の漫画を読んでる時は、圧倒的な天才をその才能と奇行の凄まじさに触れた人々を通して描くということで、「アマデウス」と同じ様な構造の話なんだと思っていたんですよ。でも、映画の方の印象は、これとも、またちょっと違っていて。「アマデウス」の場合は、天才とは、その奇行ぶりをも含めた誰も触れることの出来ない象徴(神の様でもあり、天才という概念の単なる入れ物、つまり虚構でもある。)であり、その才能の凄さを言葉に出来る一部の人間(サリエリ)により偶像化されるということになっていたんですね。(要するに神の言葉を人類に伝える神父的な役割がいたんです。)自分も作曲家であるサリエリがどれだけモーツアルトに憧れ、そして嫉妬していたか。(彼がモーツアルトの曲の素晴らしさを陶酔した様に語るシーンは本当に見事で観る度に涙が出ます。)つまり、モーツアルトを天才たらしめていたのはサリエリの言葉で。その言葉で天才とは一体何なのかというのを探る物語だったんです。だけど、「響」の場合は、語るのは響自身で、その内容は"天才(神)なんか存在しない。"ってことなんです。みんなが崇めたり祀り上げたりしている権威とか名声とか才能っていうあるのかないのか分からないものに対して天才自身が「そんなものない。(私とあなたは対等です。)」って言っちゃってるんですよね。(要するにキリスト自身が「私は人間です。」と言ってる様な話なんです。)で、これの面白いのは、アイドルって存在自体がじつはモーツアルトとサリエリの関係性で成立している部分があって、(普通の女の子を偶像として仕立て上げるのはプロデューサーの言葉であるってことです。)欅坂46というグループ(中でも特に平手さん)は、そういう今までのアイドルの概念とは違う思想を持って出て来たアイドルだということなんです。(だから"反抗するアイドル"なんて言われてるワケですが。)そこでもうひとつ、僕が欅坂を面白いと思ってるポイントなんですが、欅坂の多くのメンバーの子達って歌とダンス以外の芸能人として出来て然るべきこと(気の利いたコメント言ったり、人の話にリアクションしたりとか)がほとんど何にも出来ないんですね。(これ、逆に言えば歌とダンスの表現力だけで認められているってことで。そういうところがアーティストとか言われる要因だと思うんですが。)つまり、もの凄い普通の子達なんですよ。(ていうか、普通よりちょっとダメなくらい。)そういうのを全然出すんですね。テレビとかで。こういうところに偶像化させないというか、芸能人やスターに対するアンチ精神を感じるんですよね。(巨大化するロック産業のアンチとして出て来たパンク・ムーブメントとも被るわけです。)で、この世間の慣習やイメージに対するアンチというのも原作の「響」が持ってるメッセージのひとつなんです。

で、こういうところは「響」の原作と欅坂46の成り立ちの中から出て来るもので映画そのものが描いてるワケじゃないんですね。では、映画では一体何を描いているのかということなんですが、あの、原作には、文芸部を中心としたエピソードと文壇を中心としたエピソードの二つの柱があって、アイドル映画にするのであれば、学園物を中心として間に文壇の話を入れるってことも出来ますし、響と出会うことで何かを悟る人々を描くのであれば、文壇を中心にして響と出会った人たちの心情を語るって話にも出来たと思うんです。でも、結果的に映画はどっちにも寄ってないというか、どっちのエピソードもはっきり言って中途半端にしか出て来ないんですね。更に原作には、「アマデウス」と同じ様なミステリー要素があったんですよ。"響とは何者なのか?”っていう謎解き的な構造が。映画ではその構造さえも全部無くしていて。だから、正直映画前半は大事なとこ全部スルーしちゃってて何が言いたいのか全く分からないなと思っていたんです。(正直、これは失敗したなと思っていました。)ただ、あるシーンに来た時にもの凄く納得したことがあって。柳楽 優弥さんが演じた、響と一緒に新人賞に選ばれる田中康平っていうキャラクターがいるんですけど、その田中が駅のホームで響と対峙するってシーンがあるんですね。(あ、書き忘れてましたけど、響の天才ゆえの異常性として、気に入らないことがあるとすぐに手が出るというのがあるんです。この時も、田中から挑発的な態度をとられたことに怒り、新人賞受賞式中に田中をパイプ椅子で殴るという奇行があって、そのあとのシーンなんですね。)ホームで電車を待つ田中の背後に響が急に現れて声を掛けるんです。ここで田中が「お前怖いよ。」って言うんですね。響に対して。このセリフを聞いた時になんか凄く納得したんですよね。確かにそうだよ、こんな娘いたら憧れとか嫉妬とかの前に怖いよって。で、監督自身もその響の異常性の部分をより強調して描いてる様に見えたんです。画面奥からスッスッって歩いて来てノーモーションでダイレクトに顔蹴るとか。漫画だとそんなに違和感ないんですけど、実写でやるとよりクールというか、そのことに関して全く心が動いてない様に見えるんです。あと、響が学校の屋上から飛び降りるっていうエピソードがあるんですけど、原作だと落ちるつもりはなく落ちてしまったっていう説明が入るんですね。そこカットしてるんですよ。だから、恐らく響を原作よりも何か超越したものとして描いていると思うんです。で、こういう構造の映画観たことあるなと思っていたんですけど、あれですよね、「舐めてた相手が殺人マシーンでした」系の映画。

そう思ったら凄い腑に落ちて。実際、映画もここから俄然面白くなるんですね。「イコライザー」とか「ジョン・ウィック」とかのあの面白さなんです。だから、映画は「アマデウス」的な天才を描くというよりも、意図せず才能を持ってしまった人の哀しさというか哀愁の方を描いていて。それを暴力というエンターテイメントでコーティングしたみたいな作りになっているんです。状況説明が終わって、響は意図せず人から怖がられる存在なんですよってのが分かると急に感情移入出来る様になるんですよね。響に。(怪物響の哀しさに感情移入させるって意味では「フランケン・シュタイン」みたいな話ですね。)そう考えると、響の人間としてのダメな部分を強調したあのエピソードで終わるのも凄くいいし、(つまり、映画は殺人マシーンとしての悲しい性を持ってしまった女子高生が文壇ていう特殊なシチュエーションで何をするのかってことだけを描いていて、その他の精神的なメッセージとか人間味の部分とかは全部平手友梨奈さんに背負わせてるというね。そういうとこも潔くて良かったですね。)実写化で理屈っぽくなるかと思いきや意外にもエンターテイメントに振り切っていて。これはシリーズ化して、響の周りのヤバイ人たち(響の周りの人たちってじつはみんな結構ヤバイ人たちなんですよ。)を序所に描いていくとかして、原作にあった不穏な空気(既にこの映画も結構不穏ですが)を更に増殖する様に展開していくとかなり良いと思うんですよね。

http://www.hibiki-the-movie.jp/index.html

サポート頂けますと誰かの為に書いているという意識が芽生えますので、よりおもしろ度が増すかと。