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中野剛志、山種美術館講演メモ

令和元年12月14日土曜日、評論家・中野剛志(敬称略)の山種美術館の講演に行ってきた。

録音や撮影は怒られが発生するとのことなので、受付で配られたレジュメにあれこれ走り書きした。レジュメは渋沢栄一の著作『論語と算盤』『青淵百話』などからの抜粋が羅列されているのみで、中野の主張は一切含まれていない。
本記事は中野が口頭で述べたものの断片を書き留めて、加筆添削のうえ箇条書きにしたものである。もちろん、聞き違いや誤解があるかもしれない。あくまで個人的な備忘録くらいに留めておいていただきたい。

〇講演のテーマは「日本のナショナリズム 渋沢栄一の『論語と算盤』」
フェイスブックの告知では「日本のナショナリズム」とだけ書いてあったはず。事前に渋沢栄一を明示すると参加者が限定されただろうし、結果的にはそこを伏せておいて正解だったのかもしれない。渋沢栄一を中心に扱った講演だと会場で初めて明かされて、「なんで渋沢栄一?聞いてないよ」となりつつも、次第に参加者が中野剛志の読み解いた渋沢栄一の面白さに飲み込まれていくのが見て取れた。
もっとも、講演中のメモを元に書いた本記事は、その面白さを伝えられる自信がまったくない。遠からず上梓されるであろう新刊を待ちたい。

〇講演の告知はフェイスブックのみでなされたために、一時は頭数が揃わず赤字が危ぶまれていたらしい。参加を呼びかけるブログがツイッターで拡散されたおかげか、当日はほとんどの席が埋まっていた。さすがの知名度である。

〇講演の背景。MMTに関しては一段落したので、そろそろ自分のやりたいことをやろうとして、思想(今回でいうならナショナリズム)の研究に立ち戻ったとのこと。
なぜいま渋沢栄一なのか? 新一万円札の肖像に採用されたから、というわけではないらしい。中野は現在、既刊『日本思想史新論』(ちくま新書)の続編の執筆に携わっており、渋沢栄一・高橋是清・岸信介・下村治の4人を扱う予定で、さっそく渋沢に取り掛かったらこれがあまりにも面白すぎた、そういうわけで渋沢栄一を個別に取り上げたこの講演を開催することにしたという。

〇渋沢の生前の女性関係に関して、「渋沢栄一を調べたら、存外偉大な人だった。下半身も偉大だったらしいけど(笑)」で序盤から会場に笑いが起こる。その偉大さは「一万円札ではなく百万円札ではないか!?」でまた聴衆を笑わせる。こんな感じでたびたびユーモアを挟んでくる。大学の講義で人気が出るタイプの人だと思った。

〇しばしばビジネス本で渋沢栄一が扱われるが、渋沢の真髄はそんなPHPの本とかに書いてあるものではないと中野は言う。むしろ調べれば調べるほど、ありきたりな渋沢像から乖離していく事態に発展したそうだ。通俗的なビジネス本で紹介できるような実業家ではないことは、次の渋沢の文からもよくわかる。確かに経団連の加盟企業やその経営者・株主たちがこのような考えを持ち合わせているはずがない。
「去り(※レジュメの原文ママ。然りの誤りか)乍ら実業家とても亦国家の一員、社会の一分子であるとして見れば、同じく政治家学者と共に之に連なつて、その経営に任ずる者であるから、今は独り学者政治家ばかりが吾儘に之を論ずべきに非ず、実業家も亦其の一班に列して、大に国家社会の為に計をなすの資格がある。同時に又責任もあることゝ思ふ」
『青淵百話 二〇』

〇たいてい渋沢を扱う際には前半生にフォーカスされる。農家出身だが侍として一橋家に仕えて渡仏して株式会社の仕組みを知り実業家となり日本資本主義の父となった、というストーリーで紹介されがち。そうした前半生がなぜ注目されるのか? ひとつ目の理由は、資本主義のなんたるかを理解して日本の近代化に貢献したため。ふたつ目の理由は、封建的な江戸時代にいたにも関わらずなぜ資本主義の仕組みに着目できたのかという疑問があるため。

〇しかし、渋沢の真髄は後半生に書かれた思想(ナショナリズム)や著作の方にある。渋沢にとって学問といえば論語。晩年、『論語と算盤』の他に論語の注釈書も書くほど、生涯を通して論語を愛読していた。論語を読み耽ったところでなぜ世界情勢や資本主義のなんたるかがわかったのか? 渋沢は大事なことは全部論語に書いてあるといった趣旨のことを述べたらしい。何でも孔子が言ったことにする。不都合な場合はケシカランという。

〇渋沢は若い頃に陽明学ではなく水戸学を学んでいた。渋沢の埼玉の故郷では水戸学が盛んだった。水戸学は近代日本につながるナショナリズムの発火点のようなもの。忠君愛国の精神。

〇鹿島茂による評伝では、渋沢は若気の至りでナショナリズム(水戸学)に陥っていたが歳をとり成熟するにつれて近代合理主義やリベラルに目覚め云々、などという書き方がなされているが、それは誤りだと中野は言う。
例えば、渋沢の著書『青淵百話 六五五』には「併し乍ら口に鎖港排貿易論は唱へたけれども、胸中に蔵せる忠君愛国の至情に至つては露ばかりも渝らなかつた」とある。年老いてからもナショナリズムは変わらなかった。
だいたい渋沢家の家訓は「忠君愛国」であり、根っからのナショナリストである。その証拠に、渋沢の家にはデカデカと「忠君愛国」の4文字が掲げられていた、と笑いをとる中野。

〇論語は理論体系ではない。「人間実際の生活」から離れない実践的なもの。何らかのドグマに囚われた「高遠な」学問ではない。
「いま論語の説く所は悉く人間実際の生活を離れず。名教と実用と一致合同してをるが、宗儒程子や朱子の解釈は高遠の理学に馳せ、やや実際の行事に遠ざかるに至れり」
『論語講義 一五』

〇理論体系というものは「一分の真理」を含んでいるが限界もある。実際にうまくいくのは、精緻なモデルではなく、曖昧さを含むものである。
「かの墨子の兼愛説、楊子の自愛説や、老荘の無為説のごとき、いかにも面白く感ぜられ、一分の真理を含んでをるに相違ないが、さてこれを掲げて実行せんとすれば、どこにかさしつかへを生じ、行き詰りとなるが、孔夫子の教は全くその趣を異にし、上は君王士大夫より、下は田夫野人に至るまで、すべての階級を通じて、実地に行施し得らるるように説かれたのである」
『論語講義 二〇』

〇中野曰く、数式ブワーッ!の主流派経済学は朱子学。
「孔子の教は何処迄も実行を重んじたもので、彼の老荘等他学派の人々の説の如き高遠迂闊な所がない。何人にもわかり、何人にも直ちに実行され得る真に実践的の教である。しかるに後世の学者は孔子を以て神か仏かの如く考へて、其の説いた教に対して種々に六ケ敷い説を附け加へ、註釈に註釈を重ねて遂に難解なものであるかの様にして仕舞つた。(中略)さて其の結果は学問と実行といふものとは、別々に分離して来たのであるが、彼の朱子学の如きは殊更この弊害に陥つて居る」
『青淵百話 四六二〜三』

〇渋沢は論語を民主化の武器とした。渋沢は論語を村で学んだ。商人も町人も農民も論語を手に取り、自分で考えた。学問が外国語のハードルで妨げられることがない。言語とナショナリズムの関係を知っていた。
「論語の教は広く世間に効能があるので、元来解り易いものであるのを、学者が六ケ敷くして了い、農工商などの與かり知るべきもので無いといふやうにして了つた、商人や農人は論語を手にすべきもので無いというやうにして了つた、之は大なる間違である」
『論語と算盤 二二』

〇渋沢は、日本に輸入された西洋の個人主義を警戒していた。個人主義は論語とは相容れない。社会は原子の集まりのような挙動ではなく個々が重なり合った協同であり、単なる個人の総和ではなく有機的なものであることを渋沢は見抜いていた。
「元来人は個々別々に存立すべきものでなく、多衆相集つて社会を為し国家を形くるものであるから、本来の性質として協同的生活を営むべきものである、故に如何なる時代に於ても協同一致といふ事は極めて緊要であります(略)人は世に立つに方り孤立にては生存が出来ぬものであるといふ事は言ひ換へれば協同が必要と云ふ意味である、如何に智恵や、富力など人生に必要なものを具へて居ても協同を欠いては完全に其等の真価を発揮することは出来ない、多数人の集団なる国家社会の幸福利益はその協同の力に依りて初めて獲らるゝものである、而して各人協同して国家社会の利益を図るといふ事は同時に個々の福利を保護する事になるのである」
『渋沢栄一伝記資料第四八巻 六一六』

〇エドマンド・バークは天賦人権説を批判した。イギリス人の権利はマグナ・カルタなどを含め歴史的に形成されたものである。普遍的人権は存在しない。現実には個々の国の歴史と制度によって人権が与えられる。

〇渋沢栄一の『青淵百話 九二』から抜粋。明らかにバークを読んだ形跡がある。
「総て人は自己の生れて生存しつゝある国に対し、自然と固有の権利義務がある筈である。例へば日本人ならば日本の国に対して自ら権利と義務を持つ。英国人なら英国に対して必ず国民たるの権利もあれば義務もある。此の権利と義務とは何人が附與し命令する訳でもないが、其の国民として生まるれば生れた其の非(※日の誤りか)から身辺に附随して居るものである」
中野曰く「やっぱこの人、論語だけではなくバーク読んでただろ!」と。

〇天賦人権説について中野曰く、学生のとき、所詮そんなものは昔の人が言ったことだろと思っていたら日本国憲法にも書いてあると言われてのけぞった、だから法学部に行くのをやめたと。

〇渋沢は「常識」や「平凡」といった言葉を良い意味で用いた。肯定的に、真理のように。
「政治の理想的に行はるゝも国民の常識に俟ち、産業の発達進歩も実業家の常識に負うところが多い。政治界でも実業界でも深奥なる学識といふよりは、寧ろ健全なる常識ある人に依つて支配され居るを見れば、常識の偉大なることは云ふまでもないことである」
『青淵百話 四七五』

〇MMTは経済の専門家のほうが理解が悪い。税理士のほうが理解がいい。例えば、MMTを支持する自民党の安藤裕議員や西田昌司議員も税理士の経験がある。
みんなが持っているコモン・センス、実務感覚、自分の常識の感覚に合わないと知識は入ってこない。

〇イギリスの哲学について。中野はイギリスの大学院の修士課程にいるとき、次のような課題を受けたという。知識を積み上げるのは禁止、参考文献の数があっても評価しない、ある分野の権威AとBの両方を理解して、正しいと思う方を選んで論文を書け。また、そこではグランドマザーテストといって、自分のおばあちゃんが読んでもわかるように書くのが望ましいとされた。おばあちゃんは実務感覚、日常の感覚を持っているものであるため。
日本の哲学はまるで密教、難解さをありがたがる傾向がある。それとは対照的に、イギリス哲学は日常言語で理解できるものがかっこいい、スマートであるとされる。

〇(女系天皇問題について質問されて)
皇統は維持すべき、共和国にはなりたくない、皇統を残すためなら女系もやむなし、と。

〇(Brexit について質問されて)
EUから強引に出ると被害がある。かといってEUに残っても被害がある。EUなんか最初からやらなければよかった。離脱すべきか残留すべきかではない。間違えて入ったから、そこに残ってもそこから出ても酷くなる。
国民投票で離脱を決めておきながらこんなに長引くのはおかしい。国民自決権と民主主義が制約されている。これがグローバリズムの本質。一回やると戻れない。戻りたくても移民が入ったらもう戻せない。
ボリス・ジョンソンは民主主義の人。国民主権の回復を図ろうとしているのだから左派は支持すべき。

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