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三十歳の備忘録 仏陀と旅とセックス

私はノルウェーのとある大学を卒業している。学士号は三年制で、その内の一年間は交換留学生としてドイツで過ごした。当時を思い返してみると色々と話の種はあるのだが、このように公開されたブログに書き綴る気持ちにはなかなかならなかった。その理由が、この三年間は放蕩そのものだったからである。

しかし数年を経てようやく今筆を走らせる決心がついたのは、これが今日まで心の支えとなっている仏教の教え、いや正確には仏陀の半生と深く関わりがあるためである。放蕩生活がなぜ仏陀と結びつくのか、そう思った貴方にはぜひ最後まで読んでいただきたい。

さて、仏教は「人生は苦なり」という考え方を基に語られる。"生老病死"はその代表である。そして苦の根源には、煩悩が挙げられるであろう。仏陀の教えとは、こういった煩悩を捨てる="解脱"への道が説かれているものである。ここで筆者は、この煩悩からの解脱に対するアプローチに独自の解釈を付け加えたのである。まずはその過程から述べていきたい。

私の仏教観は、ドイツの作家ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』読了後に大きく変化したことを覚えている。少しややこしいのだが、この作品の主人公は仏陀(本名:ゴータマ・シッダールタ)ではなく、仏陀と同時代を生きていたシッダールタという名の別の僧侶の人生が描かれている。作中では、この主人公が仏陀と出会う印象的な場面が存在する。なぜこうもややこしいのか。それこそが、私がこの作品に感銘を受けた理由に直結する。

私が推測するに、ヘッセは自身を仏陀に投影し一人の男を創り上げた。その人物こそが、この作品の主人公であるシッダールタである。作中でヘッセ自身と仏陀の問答を実現させた、ということである。

西洋人であるヘッセが、馴染みの浅い仏教そして仏陀の人生を理解するのに途方もない時間と労力を費やしたことは想像に難くない。その長い道のりでぶつかった最大の疑問点を、ヘッセは小説を通じて直接仏陀へ投げかけてしまったのである。そしてこのヘッセ/シッダールタが指摘した仏陀の「穴」こそが私の仏教観を大きく変えてしまったのである。

この「穴」とは端的に、仏陀自身は教えによらず悟りの境地に達したにも関わらず、仏陀は弟子を連れ教えを説き聞かせているというものである。作中では、シッダールタは仏陀についていくべきだという親友の説得に屈することもなく、ただ一人涅槃への旅を続ける決心をし、物語は進んでゆく。

この観点は、今日の庶民の仏教観がいかに慣習や経典、修行や戒律に重きを置き、"仏陀の半生"つまり悟りの境地に至るまでの過程が見落とされているか、改めて痛切に考えさせられるものである。

私が東南アジアを旅行している時に耳にした話では、幼いうちに子どもを出家させることは喜ばしいとされる地域もあるようだ。これを非難するつもりは全くない。しかし、果たしてこれは"仏陀の半生"と重なるものなのだろうか?その道は本当に悟りの境地に通じているのだろうか?そんな考えが頭をよぎった私は、まず仏陀が悟りの境地に至るまでの半生に立ち返ってみることにした。

ここでは仏陀が涅槃に至る前に遡るため、一旦呼び名を釈迦に変えて述べる。釈迦は紀元前五世紀頃に、現在のネパールの領土内に存在したルンビニーという土地で生を享けた。父は釈迦族の国王。釈迦は産声を上げた瞬間から、太子としてその後の人生のお膳立てが全て整っていたことになる。しかし、母は釈迦の出産直後に亡くなってしまった。国王は悲しみに暮れた。この悲劇は父にとって、忘れ形見として生まれてきた釈迦を一層愛でるきっかけになったであろう。その後父は釈迦に何ひとつ不自由なく、贅沢すぎる程の生活を送らせたのだった。そして釈迦は十九歳の時に妻を娶り、息子も授かった。このまま順風満帆の人生を歩み続けるかと思いきや、ある出来事が釈迦の運命を変える。

釈迦が宮殿の外へ出かけた時の話である。参列する大衆の中に、老いぼれた人間の姿があった。病におかされ床に伏した人間の姿があった。そして、葬列までもを目の当たりにしたのである。幾多の変わり果てた人間の姿に動揺する釈迦の問いかけに、侍従は答えた。これら老・病・死は全ての人間にーーあの父や妻や我が子にさえーー例外なく訪れるのだと。この事実に直面した釈迦はすっかり絶望してしまう。

しかしこの時、釈迦にはもう一つの運命的な出会いが待っていたのだ。それが修行僧である。苦しみに屈することなく我が道を歩み、旅を続ける出家者たちの姿は、暗雲に閉ざされた釈迦の心に一筋の希望の光を照らしたのであった。

そして釈迦自身も二十九歳にして、地位も家族も全てを捨て出家したのであった。ガンジス川に流れる死体に巻かれた布を頂戴し、それを継ぎ接ぎしたもののみを身に纏った。一日の食事は托鉢で得られる一鉢の飯のみであった。物への執着は徹底的に断ち切り、修行の日々を送った。いつしか瞑想を極めるも、未だ満足できなかった釈迦は遂に苦行に励むようになる。当時の釈迦の姿は次のように描写されている。

「足は枯葦のよう、臀は駱駝の背のよう、そして背骨は編んだ縄のように顕れ、肋骨は腐った古家の垂木のように突きいで、頭の皮膚は熟しきらない瓢箪が陽に晒されたように皺んで来、ただ瞳のみは落窪んで深い井戸に宿った星のように炯いて居る。腹の皮をさすれば背骨を摑み、背骨をさすれば腹の皮が掴める。立とうとすればよろめいて倒れ、根の腐った毛は、はらはらと抜け落ちる。」大法輪閣『仏教聖典』

苦痛ばかりが募り心身共に衰弱する一方で、未だに悟りの境地には達することができなかった。釈迦はついに苦行を断念するが、この時辛うじて地面を這いつくばるほどの体力しか残っていなかった。釈迦が力尽きるその寸前ーー一人の少女が釈迦の前を通りかかった。名はスジャータ。スジャータはすかさず乳粥を施し、釈迦を丁寧に介抱したのであった。これをきっかけに、釈迦はこの少女の村に少しばかり世話になる。

ある日スジャータの歌を聴きながら、「琴の弦はきつく締めすぎると切れてしまうが、緩く締めると音が悪い。琴の弦は、適度に締めるのが望ましい」ことを悟った釈迦。苦行を捨て、滋養のついた肉体で菩提樹の下に座禅を組み再び瞑想を始めた。この瞑想で釈迦はマーラと呼ばれる誘惑の悪魔に妨害されそうになるが、釈迦は心を乱すことなくこれを滅ぼした。

「悪魔よ、汝の第一の軍勢は快楽である。第二は不平不満である。第三は飢えである。第四はむさぼり、第五は怠ける心、第六は恐怖心、第七は疑いである。第八は虚栄心、第九は名誉欲、第十は傲慢な心である。悪魔よ、これが汝の武器である」『スッタニパータ』

出家から数年後、三十五歳にして釈迦はついに悟りの境地に至り、仏陀となる。その後も仏陀は瞑想を止めることなく、八十歳の入滅まで人々に法門を説いて歩き回ったのであった。

さて少し長くなってしまったが、仏陀の半生はいかがだろうか。私は釈迦の人間臭さが溢れているこの半生の物語が大のお気に入りである。実は上には詳細を省いた箇所があり、それこそがさらに釈迦の人間臭さ、そしてタイトルにある放蕩につながるのであるが、その個所を私の独断と偏見を交えて紹介したい。

一つ注意しておきたいのは、これから書く内容は上で述べられた釈迦のイメージを崩壊させるものであるということだ。我々は自分が支持する立場に都合の悪い事実に頬被したくなるものである。それが人の性であることは十分承知しているが、時にはそういった事実とも対峙しなけば、真実には辿り着けないのである。

それでは本記事、ようやく本題に入る。

実は当時の宮殿はハーレムで、多くの遊女たちが出入りしていたのだ。そして釈迦には瞿夷・耶輸陀羅・鹿野の三人の妻がおり、それぞれ子を一子ずつもうけていた。当時の宮殿内の描写に以下のものがある。

「ボーディサッタは目が覚めたので、臥床の上に両足を組み合わせてすわり、彼女たちが楽器を放り出して眠りこけているのを眺められた。ある者どもはよだれをたらして身体をぬらし、ある者どもは歯ぎしりをし、ある者どもはいびきをかき、ある者どもは寝言を言い、ある者どもは口を開け、ある者どもは着物をはだけてぞっととするほど秘所を露わにしていた。かれは彼女たちのその変った姿を見て、ますます欲情がなくなってしまった。かれには、飾り整えられたサッカの宮殿のようなその高楼も、突き刺されたいろいろな死骸が一面に転がっている新しい墓場のように見え、三つの生存の世界がまるで燃え盛る家のように思われた。『ああなんという哀れ、ああ、なんという悲惨なことか』と感嘆のことばが出て、ひたすら出家することい心が傾いていった。」中村元選集『ゴ―タマ・ブッダ I』

私は釈迦が出家からわずか数年で悟りの境地に至ることができた理由として、釈迦もかつては煩悩に溺れていた一人の人間であり、贅沢や放蕩は片っ端から済ませていたために、出家後に"実体験の不足から生じる煩悩"と向き合う必要がなかったことが大きく作用しているのではなかろうか。もし釈迦がごく一般的な家庭に生まれ育ち、贅沢や放蕩を経験せずに出家していたとすれば、これらに対する憧れや執着心や煩悩はなかなか拭えず、わずか数年で悟りの境地に辿り着くことは到底不可能だったように思える。

私は煩悩にはいくつかの種類が存在すると考える。大きく分けると、①瞑想や修行を用いて昇華させることができる煩悩と、②実体験を用いるほかに消えることのない煩悩である。ここでトリッキーなのは、①は誰しもが克服できうるものであるのに対し、②は非出家者にとっては容易に克服できるものに、出家者にとっては克服し難いものに姿を変える特徴があるということだ。

性欲を例に挙げてみる。幼くして出家した少年がいるとしよう。この少年が思春期を迎えると、寺に女性の来客がある度に股間が膨らむのである。しかしこの煩悩は、出家している以上は情事によって満たされることは決してない。五年が過ぎ、十年が過ぎ、まだ股間は膨らみ続ける。朝の座禅でも、どうにも女の事で頭がいっぱいで警策を食らう毎日である。

では、この少年に一人の友人がいたとする。出家はせず学業に専念していた彼は、思春期を迎え学校では女に色目を使うようになっていた。五年が経ち、数々の女に愛想を尽かしては尽かされ、女遊びも面倒になってきた。さらに五年が経ち、ようやく愛し合える女性と地に足をつける決心したところだった。

この二人にとって性欲という煩悩を容易く発散できたのは友人であろう。つまり私は、煩悩の性質によっては出家という一見煩悩からの解放へ続く近道が、逆に遠回りになりうると考えるのだ。煩悩に応じて対処法は異なる。ただ闇雲に出家すればよいというのは、あまりに非合理的で都合が良すぎるのではないだろうか。我々は出家こそが仏道のスタート地点と考えがちだがこれは大きな誤解で、私は釈迦の出家までの生い立ちこそが、仏陀を読み解く最大の鍵だと考えたのだ。

さてお察しのように、私にとっても性欲はすり減らさなければ消えぬ煩悩だった。また、外国に住みたい欲求もそうだった。それまで思いつくすべての煩悩を昇華できるよう励んできたのだが、どうしてもこれらの欲求だけはすり減らす以外に消える気がしなかった。情けないが、これが事実である。目を背けてはならない。こうして私は、二十代は世界中を飛び回り、遊び呆けると決心したのだった。特にドイツはあらゆる国籍や人種が入り混じっており、当時の私は学生で勉強以外にやることもないとなると、欲求を満たすには最適な環境だった。

気が付けば在学していたのはもう四年ほど前の出来事らしい。とうとう私は三十代に突入したわけだが、今自分の心境に大きな変化が現れたのが感じ取れる。まず、海外を転々とした生活に終止符を打ちたいと考えるようになったことだ。近年の世界規模の不安定な情勢の影響もあるが、改めて日本という国の良さに気が付かされた。そしてこんな私でも今では結婚願望もあれば子を持ちたい願望もある。放蕩の興奮なんぞとっくに冷め切り、虚無感ばかりが生まれるだけだ。

もし私が十年前に面子ばかりを気にして放蕩の決意をしていなければ、未だにこれらの煩悩に苛まれていたに違いない。これまで影響を受けてきた仏陀の半生は、自分自身が追いついてしまったことによって思い返す機会はうんと減るのだろう。しかしこれからの私の人生は、仏陀がまだ釈迦だった頃に修行に身を尽くしていた期間と重なる。私も出家とまではいかなくとも、常に襟を正して真っ当な生き方を心掛けるようにしたい。


近道は、遠回り。

急ぐほどに、足をとられる。

始まりと終わりを直線で結べない道が、この世にはあります。

"一生に何回後悔できるだろう。"

迷った道が、私の道です。

大分むぎ焼酎 二階堂 2008年『消えた足跡』篇

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