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4歳の時 ホームスクールの動機と決断(3) 哲学の話

※画像は3歳の時、モロッコのマラケシュにて

私達夫婦は、息子が小学校に入学する2年ぐらい前から、幼稚園にも小学校にも入学せずに、ホームスクールでやっていこうと決めました。

学校で勉強することよりも大事なことが、たくさんあると思っているからです。

旅と音楽と哲学。これを教育の3本柱としてホームスクールでやっていこうと思いました。それぞれ具体的に話したいと思います。

私達のホームスクール3つの柱の1つ、哲学について。

忘れて、忘れて、思い出す話

私は大学生の時に哲学(と国際情勢)を専攻していました。かと言って息子に古代ギリシャ哲学から現代思想までの哲学を学問として息子に教えている、という事ではありません。

こどもとしての純粋な疑問、存在への不思議さ、自分とは何か、他人とは何か、そういった事柄を少しだけ意識して生きていく、そういう軽めの哲学を日常で話しています。

例えば、ソクラテスの「無知の知」を引き合いに出して、大人だって親だって知らないことはたくさんある。いや、むしろ知っていると思い込んでいる分だけ、こどもよりもタチが悪い、そう話しながら、息子と一緒に「知るとは何か?」「今、勉強していることの本質は何なのか?」を話し合ったりしています。

息子の勉強を見てても、息子の「何で勉強をするの?」という問いから、「勉強は将来の役に立つのか?」「役に立つから勉強をするのか?」「役に立つことは良いことなのか?」という話から、老壮思想の「無用の用」の話へ脱線していくなど、哲学というよりもおしゃべりに近いかもしれません。

ただ、こういう何気ない話を、私も妻も息子も、楽しんでいます。

幸い息子は哲学者の話も好きらしく、タレスの「万物の根源は水である」という話や、ヘライクレイトスの「同じ川に人は2度入れない」という話などに興味を持ってくれて、哲学大好きの私としては嬉しい限りです。ソクラテスが毒人参を飲んで死んでしまう話などは、「毒の人参があるんだ」という、違った意味で話が面白かったようです。

こういった話を、哲学だけでなく、旅も、音楽も、息子はすぐに忘れてしまいますが、「忘れる」ことこそが人間の本質、どんどん覚えて、どんどん忘れていけばよいと思っています。

「学校に通っているこども」と「学校に通ってないこども」の違いは、ほとんどないという話

人間という「種」の振り幅とは、どのようなものでしょうか?

人類最初の女性(通称エヴァ)は、アフリカ大陸の現在のエチオピアの地で生まれたそうで、そのたった一人の女性から現生人類は派生していったそうですので、人間という「種」の振り幅とは、アフリカ大陸から出ていく過程、「黒人→黄色人→白人」の順のような感じで、変化していったと私は思っていたのですが、どうやら完全に間違っていたようです。

文化、言語、宗教、身体的特徴、DNAなどなど、いろいろな材料で判断してみると、実際は、こうらしいです。

「黒人~黒人~黒人~黒人~黄色人~白人~黒人~黒人~黒人~黒人」

どういうことかと言うと、人間という「種」の振り幅というのは、一番左の黒人から一番右の黒人までが、その最大の振り幅であって、それを「100」としたら、黄色人と白人の違いなんか「0.01ぐらい」でその中にすっぽりと納まってしまい、それはもう同種と言ってもいいぐらいです。

そう考えれば、同じ日本人という中で、「学校に通っているこども」と「学校に通ってないこども(ホームスクーラー)」の違いというのは、もうそれこそ、取るに足りないほどの、小さな小さな小さな違いでしかないのです。

我々日本人というのは、世界でも類を見ないほどの圧倒的な同質性の中で暮らしているので、そのわずかな違いが物凄く大きな違いのように感じてしまうかもしれませんが、世界各地を旅してまわってみると、世界はあまりにも多種多様で、日本という小さな島国の中で、学校に行くとか行かないとか、そんなことはただの「選択肢」の問題であって、肝心なのは学校どうこうではなく、こどもが「どう生きるか」だと思うのです。

人は見ている世界が各々まるで違う、という話

さっきと真逆の話。

「人は自分の見たいことしか見れない」

よく聞く言葉ですよね。「見る」という言葉を、「聞く」とか「話す」とか、他の言葉に替えても同じことが言えるかと思います。

例えば、自分達はこどもをホームスクールで教育したいのに、学校や親族に説明しても話がいつまでも平行線だったり、話が噛み合わないなど、よくあることですよね。

ちょっと意味が違うかもしれませんが、哲学に「現象学」という学問があります。ヘーゲルやフッサールが有名ですが、確かこんな話です。

我々は外部世界を知覚するとき、単純に五感のみで、諸々の現象を判断するのではない。今見えている光景は、視覚だけをもってして、そう見えているのではない。見られる対象(客観)と、見る側(主観)の間には、視覚の他に「観念」や「経験」や「志向性」など、いろいろな要素が挟まれる。

例えば、森の中の木に首吊り用のロープがぶらさがっているとする。そのロープは自殺するために存在するロープなのだが、「ロープは自殺するためにぶらさがっている」という観念を持たない者、未開部族には、そのロープは森の中の1つの風景として見えて、ロープ自体は認識できない。

例えば、いつも通勤中に通る道がある。その景色は厳密に言えば毎日変わるはずなのだが、「その道はいつもこんな景色をしていた」という経験的な判断によって、我々はその道を見てしまっている。よほどの変化がないかぎり、いつもの景色は新たに再認識されることなく、いつもの景色として、視覚をほぼ通さずに処理されてしまっている。なので、そこに咲く花に興味がない人間には、毎回変わるその花が認識できない。

例えば、空腹のベジタリアンとノンベジの2人に、サバンナの景色を見させる。ベジタリアンは植物に意識を向け、ノンベジは動物を見るだろう。2人は同じ景色を見て、別々の存在を知覚している。

ようするに、「客観的な世界ではこうだ」と言うことには、何の意味もない。客観は主観によって変容するからである。無限の数の主観は存在すれども、誰もに共通する客観的な世界など存在しない。

「客観 ⇔ 主観」と、両者は別々に存在するのではなく、「客観 ←(働きかける)← 主観」として、客観は主観の能動の上に成り立ち、客観は主観によって変容し、主観は客観に内在してはじめて存在する。この働きを「現象」という。

こんな話は、あたりまえだと言えばそれまでですが、私は19歳の時に大学で「現象学」を学んで感動したのを覚えています。

話をホームスクールに戻します。

「人は自分の見たいことしか見れない」

ホームスクーラーと、学校派の人々とでは、ベジタリアンとノンベジくらい、互いが見ている世界が違うと思うのです。その差を埋めるのは容易ではありません。お互い、「観念」や「経験」や「志向性」がまるで違うのですから。

「人は自分の見たいことしか見れない」のなら、ホームスクーラーはホームスクーラー、学校派は学校派、互いが互いを尊重して、我が道を行けばいいと思うのです。

誰もが共通の「客観」なるものは、存在しないのですから。

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◆ 中学入学まで残り半年。親が表に出て友達を探すのは残り最後の半年のつもりで、noteで書くことによって息子のホームスクール友達を探しています。これから書くいくつかの記事を読んで、息子と遊んでみようと思った方は、是非ご連絡ください ◆

episteme-homeschool@yahoo.co.jp