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明日をこっちのペースに巻き込むのさ

その先生との出会いは中一の秋だった

ある日突然、その夏に試合で見かけた、一つ年下の上手すぎる子が、うちのクラブに移籍してきた。そしてその数週間後には、前のクラブでその子を教えていた中国人の先生も、きた。

その子と年齢が近いというだけで、私と4人の仲間は、その先生の班にとりこまれた。

その先生は本当に厳しかった。
私たちはそれまで、つらい〜もうむり〜なんて言いながらも長くて1日4時間しか練習をしていなかったのに、その先生は練習の始まる時間とか何もかもおかまいなしだった。

それでもマックスで6時間とかだったし、他のクラブの子は
「朝の9時から夜の9時まで練習したことあるよ」
とか
「日付変わるまで練習してたよ」
なんて当たり前かのように言っていたから、あの時期の私たちにはあれくらいしても足りないくらいだったのかもしれない。

それにしても厳しかった。
何をするにも腰と足首に重りをつけてやった。
30キロあるかないかの体に1.5キロはなかなか負担だったし、それで跳んで回って、ちょっと無理がある。

そして何をするにしても、回数がえげつなかった。だいたいそれまでの5倍やった、すべてを。
そう、すべてを!
わかる人にわかってもらいたくてちょっとだけ例をあげると、

蹴上がり倒立10+振り上げ倒立20、を2セットとか
スタン宙10〜前宙10〜片足両足のV字腹筋背筋30〜ゆりかご腹筋背筋20〜側筋20〜伏せてジャンプ20、を3セットとか

もう内容をあんまり思い出せないのが残念だけど、まあなんかこう、吐くかと思ってた。

それでもその先生にしごかれ、時に個人的に中国に渡って合宿をして、そんな生活を3年以上も続けてきた一つ下のあの子は、涼しい顔とは言わなくともまあ、音をあげることはなかった。
当たり前に、正確に、やるべきことを淡々とこなしていた。

なんとな〜くしんど〜いなんてぬるい練習しかしたことのなかった私は毎日のように泣いたし、ふてくされたし、先生が休みになることを祈っていた。
この先生についていけば絶対に上手になる!なんて思う余裕もないほど、とにかくキツかった。

わりと、というかかなり贔屓をする先生だったので、まともにみてもらえない日もたくさんあって、それはそれでサボれる!って安堵していたけど、その安堵の3倍は寂しかった。
どうして教えてくれないの?私も頑張ってるよ、なんで他の子のことばっかりなの?って。メンヘラ彼女かよ

それでも当時、1ミリも辞めるだとか逃げるだとか考えなかったのは、仲間が好きだったからに尽きると思う。
「体操が好きなんじゃなくて体育館が好きなんだな」と何度も父親は言ったけれど、まああながち間違いではない。
私はあの体育館が好きだし、当時あそこにいたみんなが大好きだ。
(まあ悪口は言うけど)

つらい練習の日々は、いつしか終わっていた。
いつ終わったのかもまったく覚えていないが、その先生はお姉さんたちの練習をみるようになり、代わりに私たちには新しくきたロシア人の男の先生が割り当てられた。

そしてその頃にはもう、私は将来有望ではなくなっていたんだと思う。
どう言えばいいのかわからないけれど、2軍みたいな感じになって、それでもまあまあの結果は出してたんじゃないかなとは思うけど、もうあんまり上は目指せないなって内的にも外的にも感じていた。

一緒に練習していた中に、ただただ感覚のいい子がいた。
その子はスタイルもまあいいし顔もかわいいし、お姉さんたちからも先生からも、誰からもちやほやされるタイプだった。そう、好かれるではなく、ちやほやされるタイプ。

私はその子と一番仲が良かった。その子といると私も少しは天真爛漫になれる気がして、自由に振る舞ってもいいんだ、と感じられていたし、その子も「エンデといると楽」と言ってくれていた。
だからこそどこかで嫉妬していた。
この子には確かに才能があるけど、周りはそれ以上にちやほやしている、そう感じていた。

そのうちクラブのボスはその子に目をつけた。
中国人の先生とは別なベクトルで「いや馬鹿じゃん無理じゃん」って練習をさせられ、めちゃくちゃにブーたれながらも、その子はどんどんうまくなっていった。

そんな時、あの、一つ下のめちゃくちゃうまい子が、こう教えてくれた
「ボスはあの子を選んだけど、中国人の先生はエンデの方が絶対にいいって言ってたんだよ」

すごく、嬉しかった。
いつもいつも、私はその子に試合で負けていたから、誰も同じ土俵で見てくれてないと思っていた。比較の対象ではない気がしていた。
だけど、認めてくれている人がいた。しかもめちゃくちゃ優秀な先生が、実は目を向けて、気にかけてくれていた。

それでも、嬉しい以上に複雑だった。
どんなにその先生が私を推しても
代表合宿でうちにきた他のクラブの先生に「真面目だからうまくなるよ」と言われても
結局はボスに気に入られないと、わかりやすく結果を出せないと、これ以上は望めないのかもしれない。大器晩成なんて、夢物語かもしれない。

そんな気持ちを抱えたまま高校生になり、年を追うごとに腐っていき、17歳で完全に自分を諦め、18歳で思わぬ引退をした。

だんだん腐っていく私に、先生も仲間も呆れていたし、期待なんてしていなかったと思う。それでも他に行き場がなくて、頑張りたくて、何も目指すものなんてなくても昔みたいに今のことだけに泣きたくて、そんな私を誰も気にかけていない気がして、苦しかった。

その頃、中国人の先生は痛く正しく厳しいことを言った。正しすぎて、そっぽを向いた。

周りにどう思われようと頑張れば良かった、なんて思わない。だって私、オリンピックに出たいなんて、一度も思ったことなかったから。
試合も大嫌いで、試合のための練習も大嫌いで、ただただうまくなりたいとか、いろんな技ができるようになりたいとか、あんな風に体を操りたいとか、それだけだったから。

ただ、無駄に不貞腐れてばっかりで全てのエネルギーを持て余していたんだし、だったらもうちょっと、やりたいように頑張れば良かったかなとは思う。
やりたい技とかだけでも、どんどん遊び感覚で好きなように練習すれば良かったかなって。
全員がオリンピックを目指す(らしい)あの場で、そういう心持ちは許されない気がしてたけど、何もせずただただ死角に隠れてうずくまって泣いてるだけよりよっぽど良かったと思う。

自分のやり方で、自分の好きな体操をすれば良かったのに。

ちなみにその、ちやほやされるタイプの子は翌年にポッキリ折れた。
その姿を見かねた中国人の先生にその子と何人かがまとめてボスに突き出され、ほぼ辞めさせるような形で、辞めた。
それも私が腐る一因だった。大好きだった仲間がいなくなって、どうしていいかわからなかった。

あの先生に対しては、今思い出しても痛いほど複雑な気持ちを抱く。

死ぬ、吐く、無理、死ぬ、って思ってたけど、もっとみてほしかった。期待してほしかった。頑張らせてほしかった。買ってもらえて嬉しかった。

あの先生はいつも正しく厳しかったと思う。
激しくもないし、罵倒も暴力もなかった。
ただただ、「やれ」と言うだけ。

どんなに体がつらくても辞めたいなんて言いださなかったのはそれもあるかもしれない。
いい先生だったんだと思う。だからこそ、もっと関わりたかったな。

そういう思いもあって、去年オーストラリアで、その先生に会った。
なんとなく梅雨が無理でふらっとバケーションをとって、穏やかそうなオーストラリアに行くことにして。シンガポールを経て今はオーストラリアに住んでいるその先生に連絡をして、会った。

先生が今働いている体育館に行って、教えてる子たちをみて、相変わらずだなと安心して、食事をして、一泊させてもらって、車で送ってもらって、いろんな話をする中で、何度も何度も
「あの子より私を育てたほうがいいと言ってくれてたこと、嬉しかった」と伝えようとした。
それでも、恥ずかしくて、苦しくて、すこし悲しくて、言えなかった。

私、先生のこと好きなんだけどな、すごくきつかったけど、先生はとっても面白いし、めちゃくちゃ美人だし、先生の教える体操は本当に正しいし正確だし綺麗だし。
「エンデ頭いいねー!」って言ってくれたのも忘れられないし。

もしももしももしも、これから本気で体操を始めたいなんて言い出す小さな女の子がいたら、私はあの先生をつよく勧める。

なんだか暗い文章になってしまった気がするのですが、これはいい思い出だし、今の私は諸々落ち着いてきて終息とまではいかないけど押し潰されるような不安からは解放されました。
エナジーライトも届いたしね!情緒不安定がゆえの食欲で驚くほど太ったけどまあいっか!って感じですね!いやよくない、そろそろ重すぎて足腰がつらい。
おやすみなさい〜

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