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わたしの人生(1)

私は一度死んだ。いまは、二度目の人生を生きている。

小学生のころから「冒険好き」だった私は、学校で小学生が遠くまで自分たちだけで行けることのできる地区を「超える」ことを目指して、徒歩で、自転車で友達とまだ見たことのない街へ進んだ。

まだ子どもだけで行ったことのない地区に行ってきたという「達成感」。最後は自転車でも徒歩でもくたくたになって、5−6人のグループも2、3人ずつにばらばらになって、残りのメンバーが無事に家に辿り着いたのか分からないまま自分も家に帰るという始末であったが、月曜日に仲間を見ると、ふっと一安心した。

中学校では他の多くの学生のように、部活に明け暮れた。陸上部で朝から晩まで「走って」いた。短距離専門だったが、最後のほうで自分は長距離の方が向いていることに気づいた。気づいたのはちょっと、遅すぎた。

高校生では、新しい競技バドミントンに挑戦。いままで走ることしか知らなかったので、走りながら楽しめる球技の楽しさに感動。授業中もバドミントンのことを考えていた。本気でオリンピックを目指していたが、実際は部内でも最下位で、「こんなに練習しているのに。」と悔し泣きしながら長田川沿いを帰ったことが懐かしい。

何事にも全力投球。受験勉強だけは間に合わず、第一志望の大学に落ちて、地元の私立の大学へ進学。第一志望の大学ではなかったが、「学ぶこと」の楽しさを初めて知ったのはこの大学でだった。私は同じ学部の全ての教授の研究室の扉を叩いた。どんな分野にも興味を持った。

幼い頃から父がテレビで世界の様々な国々に関する番組を観ていた。それを横目で私も楽しんで見ていた。父は海外旅行に行ったことがあるのは数回だが、世界が大好きだった。趣味の無線で世界の人々と交信しては、毎年世界各国からハガキが送られてきた。英語で話すのは自己紹介だけで、無線の「コールサイン」を交換すれば、無線上で互いを呼んだり、ハガキを交換したりすることができるのだ。そんなこんなで、私も「世界」に関心を持ち出していた。そして、「国際文化学部」に入学した。

第二言語では友人が選んでいた「中国語」を選んだ。理由はこれに尽きる。なんとこのことがこれからの人生を大きく変えるきっかけになるとは知らず。

県内の国立大学が主催していた中国への10日間の海外研修へ募集し、行ってきた。生まれて初めての海外。そして、飛行機の中で自分が学んできた中国語が「通じた」ときの感動は、飛行機を降りてから上海の浦東空港までスキップしていったことからも思い出せる。嬉しかった。

一年足らず学んできた中国語は、十分に通じた。

海外旅行に目覚めてしまった私は、その後台湾に1ヶ月滞在。また中国語を学んだ。大学3年生になると交換留学生として1年間、中国の大連に滞在した。このころになると、タクシーに乗って話していても中国のどこからかきた人と思われていたほど、中国語は身についていた。

中国人の友人も多くできて、もう中国は私の第二の故郷と思っていた。そんなとき、事件は起こった。

政治と友情は

いわゆる「尖閣諸島問題」が勃発。9月18日、盧溝橋事件の日には、日本料理屋の日本語の文字が新聞紙で隠された。ニュースでは中国全土で日本産の車が攻撃されたり、日系スーパーに石が投げ込まれたりしていた。私の大学での中国語の授業の日だったにも関わらず、「日本人学生はこの日は安全のために寮にいなさい」と言われた。私は街を歩きに行った。美容室を通ると「日本人と犬は立ち入り禁止」という張り紙を見て、衝撃を受けた。これは本当に大変なことになっている、と初めて肌身で感じた。

私は大連日本人留学生社団の活動にたまに参加させていただいていたのだが、日中文化交流イベントは中止となり、そのほか中国全土で日本と中国に関する様々な交流イベント、学術交流、政治、経済交流が中止となった。

これは、まずい。日本と中国が戦争になっちゃうかもしれない。。。私は交換留学から帰国してから、「平和学」を真剣に学ぶようになった。平和学、戦争、紛争に関する本をたくさん読んだ。卒業論文は「21世紀の戦争と平和」と題して書いた。

大学は私に学ぶことの楽しさを教えてくれた。そして学ぶことに関する欲求は尽きることがなかった。

人生の「楽しさ」を初めて感じたのも大学生になってからである。「海外」は私の目を大きく開いた。これまで、窮屈さ、周りの目を見て生活する生きづらさというのをなんとなく感じていた。初めて海外の地に降りた時、それらをすべて脱ぎ去り、新しい自分として誰からも評価されずに生きていくことができる、そして思いっきり息を吸い込むことができた気がした。アルバイトでお金を貯めては、長期休暇には必ず海外へ飛んだ。大学1年の春には中国、2年の夏には台湾、3年生は大連で過ごし、4年の夏にはアメリカ西海岸をバックパックで縦断、冬は鹿児島市の交流事業でイタリアのナポリとイギリスを訪れた。

大学は卒業したものの、中国で目の当たりにした「反日」がわたしの心は落ち着かせなかった。私が平和を築かなければならないと勝手に責任感を負い、私は復旦大学歴史学部の修士課程に2014年9月から進学した。中国政府奨学金を頂き、ほぼ自分のお金を使うことなく、3年間中国人の学生と共に日中関係史を学んだ。中国人はどのような歴史を学んでいるのか。そこには大きな気づきと学びがあった。そして中国人学生も教授も私が日本人としてどのような歴史を学んできたのか興味を持っていた。

中国にいたものの、広く世界の平和に興味があったので、長期休暇には中国国内の他に東南アジアをバックパックで1ヶ月間回った。カンボジアでは地雷撤去をしている日本のNGOや平和活動を行っている当地の団体をインタビューした。復旦大学在学中も、なんせ中国の文系大学の修士は3年間あったもので、私は修士2年時次に南京大学に「交換留学?」した。なぜなら南京大学では、劉成教授による中国初となる平和学の授業が行われていたからである。復旦大学の留学生がまた南京大学に移動するという前代未聞のことをしでかしたのだが、当時は学部に一言仁義を切るだけで実現された。というか、だれも私を止めることができなかったのかもしれない。

1学期間、私はまるで南京大学の学生となり、平和学の授業をオブザーバーとして受けて、平和トレーニングというものにも参加させていただいた。私を受け入れてくださった劉成先生には感謝してもしきれない。

無事に復旦大学に帰ってからは、生まれて初めての学術会議での日中通訳を経験させていただいたが、自分の実力のなさを実感。そして卒業論文を中国語で書き、中国人のかけがえのない友人たちに支えられ、私は復旦大学歴史学部修士課程を卒業した。


Book:

日記:

2014 修士1年

2015 修士2年

修士3年



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