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"Black Lives Matter"公民権運動から引き継がれる大行進

先日に続いて、本日もアメリカ黒人差別を題材にして書いてきます。

本日は、キング牧師が指導者となったアメリカ公民権運動を中心にまとめていきます。

かなり長文となりますが、黒人の公民権運動は本当に胸を打ち、今のBlack Lives Matter"潮流を知る上で知っておくべき内容となります。

是非、読んでみてください!!

先日のブログの続きになるので、読まれてない方は以下のブログから確認してみくてくださいね。

■KKKとジムクロウ

先日のブログで紹介した1896年最高裁判所がルイジアナ州での列車内における黒人隔離に関して下した判決(プレッシー対ファーガソン事件)で、

「隔離はしても平等」

という価値観と考え方は、各州の州法や条例において黒人に対する差別的な法制度を整備する精神的な支柱になったと述べました。

最高裁判所(国の司法トップ)の判断が隔離は合法としたからです。

この頃に誕生したのか、KKKとジム・クロウです。

KKK(クークラックスクラン):白人至上主義団体秘密結社

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この組織は、1865年にテネシー州の少数の旧南軍士官中心に黒人抑圧を目的に組織されたのが始まりです。

黒人の家や財産を破壊、黒人解放運動の抑圧、黒人投票の妨害、また黒人を支援する白人の命も奪いました。

特に、1890年代から20世紀初頭にかけてKKKの活動は猛威を振るい、1217件に及ぶ黒人リンチを引き起こし、黒人迫害の先導します。

実際の活動だけでなく、【白人優越=黒人蔑視】の人種的偏見の価値観を南部中心に煽動し、南部中心に今も根付く差別偏見の温床となります。

現在でも不法移民に対する抑圧に賛同する等、組織の活動は続いています。


ジム・クロウ=アメリカ黒人差別制度

ジム・クロウとは、黒人対する差別と隔離の一切を称した意味でもいちられます。合法・非合法あらゆる手法で黒人の地位を押し下げるものです。

語源は、ミンストレル(アメリカ演劇)の祖である白人のD・ライスが黒塗りメイクのおどけた姿で、自身をジム・クロウと名づけたこととされています。

余談ですが、このような黒人を模した演劇はブラック・フェイス(黒塗りメイク)と言われ、世界では黒人差別の侮辱的な風習とされています。

2017年の年末に放送された「がき使」でダウンタウンの浜田が黒塗りメイクで登場したことで各国から非難のコメントが寄せられました。

歴史を知らないと、思わぬことで足元をすくわれたり、世界の方々からの尊敬を失うことになります。

今は、簡単に世界中誰でも、どこでもつながれる時代です。歴史を学ぶことは、世界で仕事や活動するためのマナーと言えますね。

■戦争と統合

その後、世界は第1次、第2次世界大戦に突入していきます。

第2次世界大戦、日本軍による真珠湾攻撃により、本格参戦となったアメリカも国民を総動員して戦争に向かう臨戦態勢が必要になります。

そのため、アメリカ人同士の不和や対立を改善し、人種関係の改善に迫られます。戦争のために多種多様な人種、民族を統合する必要がありました。

そこで、1941年6月に大統領行政命令第880号が施行。

「防衛産業や政府機関において労働者を雇う場合、人種、信条、肌の色、出身国の違いによって差別してはならない。全労働者をこれらの産業に完全に参加させることは、雇用者および労働組合の義務である。」

非常事態の策として講じられた大統領令が、戦後の人種差別改善の道を開きました。戦争が人種差別抑制につながる、歴史は本当に奥が深い。

1948年7月には、大統領9981号として軍隊内部の人種差別を禁止。朝鮮戦争で初めて黒人白人の「隔離なき統合された軍隊」が組織されます。

この流れの中で、各州でもニューヨークやニュージャージー州において雇用における人種差別を禁止する法令が制定されるようになります。

司法でも、黒人隔離に関して下した判決(プレッシー対ファーガソン事件)の「隔離はしても平等」を覆す新しい原理が、半世紀以上の時を経て判決されます。

ブラウン対教育委員会事件

1951年、黒人少女の父親ブラウンは、近所の白人公立学校に転校したいという娘の希望を、州法の規定に基づいて拒否したトペカ市教育委員会を相手に訴訟を起こします。

当時は、南部を中心に20州以上で、人種によって隔離した別々の学校で教育することを州法にて定めていました。

この訴訟は連邦最高裁判所で審理されることになりますが、1954年ついに歴史を変える判決がなされます。

「公教育の分野においては、<隔離しても平等>の原理を受け入れる余地はない。隔離された教育施設は本質的に不平等である」

との判決を下し、公立学校における黒人と白人の隔離は憲法違反であるという画期的な裁定を下しました。

これにより半世紀に渡って黒人差別の法的、精神的な根拠となっていた、「隔離しても平等」の原理から、

「隔離したら不平等」

という人種差別撤廃にむけての新しい原理が打ち出されました。この判決は「第2の奴隷解放宣言」と呼ばれるほどの歴史的な判決とされています。

人種差別を撤廃し、黒人が公民権を獲得するための新しい時代の幕を開いたと言われています。

日本人にとっては、裁判(司法)が歴史を動かすというのは、馴染みがたいですが、他国の歴史を見ると、

司法の果たす役割

というのを再認識できますね。

■公民権運動の盛隆とキング牧師

上記、ブラウン対教育委員会事件の裁定に基づき、公民権運動が盛隆します。バス・ボイコット運動、シットイン運動の2つを紹介します。

①バス・ボイコット運動:1955年にアメリカ合衆国アラバマ州モンゴメリーで始まった人種差別への抗議運動。事件の原因は、モンゴメリーの公共交通機関での人種隔離政策にあり、公民権運動のきっかけの一つとなった。

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この時代でも、依然としてバス、駅の待合室などの公共機関では「黒人専用」と「白人専用」という隔離されたスペースが存在していました。

黒人は後方半分の席に隔離され、前方の白人のスペースにいくら空席があろうと座ることが許されていませんでした。

ここで、一人の黒人女性の行動がバス・ボイコット運動に火をつけます。

ローザー・パークス事件

写真の女性です。長時間たったままの仕事で疲れたローザー・パークスは、白人専用の前方座席に座ります。

しかし、バス運転手が3人の白人乗客のために他の黒人乗客と一緒に席を譲るように命令されます。

他の黒人乗客は席を譲ったものの、パークスは「No」と伝えこれを拒否。結果、彼女は逮捕されます。

彼女の勇気ある行動は、黒人一人一人が長い歴史の中で抱え続けた、人間の尊厳と自由に対する希求を訴えたものであり、多くの黒人の魂に火を付けます。

そして、全市の黒人挙げてのバス・ボイコット運動が展開される契機となるのです。

そして、このバス・ボイコット運動を遂行するために立ち上がった指導者が、弱冠26歳のキング牧師です。

キング牧師は非暴力主義抵抗に徹して黒人差別に立ち向かう姿勢を貫きます。この責任ある仕事でキング牧師は、

「もし、われわれが間違っているというなら、それは最高裁判所が間違っている。合衆国憲法も間違っている。」

と言い切り、黒人の尊厳にために戦う決意を表明しました。

バス・ボイコット運動は、KKKや反黒人団体とつながる警察権の激しい抵抗を受けたものの、1年間も非暴力による抵抗を継続。

結果として、バス会社を倒産寸前までに追い込みます。そして、1956年連邦最高裁判所にて、「バスの人種隔離は違憲である。」との判決を下します。

黒人側の全面勝利をもたらし、キング牧師はこう述べました。

「それは、黒人だけの勝利ではない。正義と良心の勝利である。」

白人たちにとってこの問題は人種の問題でしたが、黒人たちにとってこの問題は、人間の尊厳のための戦いでした。

憲法の理念に基いた、すべての国民が享受するべき自由、平等、正義のための戦い、つまり公民権運動だったのです。

②シット・イン(ランチ・カウンター座りこみ運動):座り込み(すわりこみ)またはシット・イン、シット・ダウン (sit-in 、sit-down ) は抗議のために非暴力で1人またはそれ以上でその場を占拠する直接行動。政治的、社会的、経済的変化を求めて行なわれる。

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シット・イン運動は、学生中心に展開された人種差別撤廃闘争です。事の発端は、1960年ノースカロライナ州の4人の黒人学生の活動です。

黒人学生、ジョゼフ・マックネイルはランチに軽食堂で例にならって「黒人注文お断り」の扱いを受け、仲間の3人と協議の上、行動を決意します。

全米各地にある大手雑貨店のチェーンストア内にある白人専用カウンターで、自分たちが飲食物を注文し、要求が受け入れるまで座りこみ続ける計画を実行します。

写真にあるように、白人から罵詈雑言、ツバ、暴行を加えられながらも耐え続け、閉店まで座り続ける非暴力運動を貫きます。

彼らが要求したのは、コーヒーとドーナツではなく、白人優越=黒人蔑視の歴史的価値観に対する変革と不服従でした。

彼らの勇気ある活動は瞬く間に白人学生も巻き込むかたちで発展し、他州にも広がります。

この活動は1961年までに残念ながら3600人の逮捕者を出したものの、7万人の黒人、白人学生を巻き込む非暴力の大運動に発展。

学生たち両親の不買運動によるサポートもあり、多くのランチカウンターが閉鎖に追い込まれます。

結果として、多くのランチカウンターで人種差別が撤廃されていきました。一人の勇気ある学生の決意が歴史を大きく動かした瞬間でした。

字数の関係で、ブログ紹介できませんが”フリーライダー運動””人種共学”など、黒人差別の撤廃の要求とそのための公民権運動には胸を打たれます。

キング牧師が述べるように、人間の尊厳と自由の獲得のために非暴力抵抗主義を貫きました。

その道中で多くの犠牲者を出したものの、彼らは諦めずに戦い続けました。

ローザ・パークスやジョゼフ・マックネイルように一人の人間の勇気ある行動が、

歴史・文化・価値観を変革する第一歩

になりうることを、公民権運動は物語っています。

■ワシントン大行進

上記のような公民権運動、そしてそれに抵抗する暴力的なKKKや警察官に対する対応、また国際社会からの批判を受けて、当時のケネディ大統領は、

「今こそ連邦会議、諸君の州および市の議会。なかでも、我々の日常生活にのすべてにおいて行動すべき時が到来したのです。」

と述べ、1963年の6月についに人種差別をなくすための公民権法案を議会に提出し、履行しました。

そして、1963年8月28日。リンカーンが奴隷解放宣言を公布してちょうど100年の節目の日。

おびただしい人がこの記念の日にワシントンに集合します。その数は約25万人(内6万人が白人)とされています。

ワシントン大行進

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ここに集うすべての人が、この記念すべき日に

1963年までに完全解放を!!

をスローガンに集まった人たちでした。この労働運動の指導者であったランドルフは、

「この国の歴史が始まって以来の最大のデモンストレーション。」


と述べたそうです。

この大集会のクライマックスはキング牧師の演説で締めくくられます。。

"I have a dream"(私には夢がある)

それは、アメリカの夢に深く根ざした夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。
今日、私には夢がある。
私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。
今日、私には夢がある。
私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。

全文リンクhttps://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2368/#jplist

こうして翌年1964年7月2日ジョンソン大統領の署名を受けて、公民権法が正式に連邦の法律として制定されます。

ついに公民権運動を通して、命を懸けて戦ってきた成果の集大成が結実した瞬間となりました。

南北戦争以来の活気的な黒人救済措置

といわれるこの法律の歴史的な意義は今も色褪せることはありません。


■アメリカにおける黒人の今と希望

公民権法が制定されてから、すぐに黒人の権利が回復されたわけではありません。

その後の「長く暑い夏」と呼ばれる白人の反動攻勢が始まり、継続して黒人の権利や尊厳はまだキング牧師の夢の実現には程遠い状況です。

また、1968年にキング牧師暗殺事件、黒人解放組織の分裂等により公民権運動はその活動をしぼませていくことになります。

現在のデータを見ても黒人の権利、生活環境が回復したとは言えません。

所得:白人男性所得に対して黒人所得は約70%
失業率:白人男性約5%に対し黒人男性は約12%
貧困家庭比率:黒人の全過家庭に対する比率は30%、白人の4倍
乳児死亡率:黒人1.82%、白人0.93%と約2倍

コロナの影響でアメリカの失業者数は4000万人といわれますが、その多くは黒人です。

また、先日のべたように南部の州では継続して黒人に対して不当な逮捕や殺害等が続いており、冤罪等も頻発しています。

黒人の権利と尊厳が回復したとはいえない状況であり、現在の”Black is Matter”でよく言われるスローガンは、

Enough is enough!!

もう、たくさんだ!!

キング牧師が先導したワシントン大行進は、未来に続く自由と尊厳にむけた大行進として現代の”Black is matter”に引き継がれています。

そして、その戦いは今もなお終わっていません。

とはいえ、希望はあります。

ニュージャージー州では2012年実際に警察組織を解体し、警察を戦闘員から住民を守る守護者にするための改革を実施。

8年が経った現在、犯罪の件数は50年間で最小になり、住民と警察官の間の信頼関係も徐々に育まれてきています。


必ず、希望はあります。


アメリカ社会に深く根ざした黒人差別、そしてアメリカ国民全員の尊厳と自由を獲得するための戦いは今も道半ばです。

それでも、1600年代に奴隷貿がスタートしてから一歩ずつ、一歩ずつ、歴史は歩みを進めてきました。

しかも、それは政府や国家という権力によってでななく、ローザ・パークやジョゼフ・マックネイル、一人の勇気ある行動により導かれました。

一人の人間の行動が歴史を動かすことがある。

人々自由と尊厳に対する行動の一つが、多くの人を巻き込み、社会を変える契機になる。

この歴史的事実が僕らに教えてくれる教訓が多いはずです。

そして、今の”Black is Matter”からも僕らが学ぶべきことは多くあります。


勇気ある行動をしてみよう。


それが、僕らの人生を変える大きな一歩になるかもれしません。


本日も、ありがとうございました。

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