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「参ったら」神社へ「参ろう」-日常の中にある非日常としての神社-

 行き詰ったら神社へ行ってみる。これは、物凄く良いことである。

 神社は基本的に、立派であればあるほど(格式が高いほど)、自然が多く、景色の良い場所に鎮座している。加えて、歴史的建築物として、非常に美しく荘厳で、価値が高い。

つまり、神社へ足を運べば、自然と建築の融合美と、風光明媚な景色とをゆっくりと味わうことができるのである。山の中に立地している神社からは、麓のまちを一望できることがあるが、徒歩や自転車で参拝した暁には、その苦労と運動後の心地良い疲労感も相俟って、感動はひとしおである。

 さらに、信じる者であれば、拝殿で手を合わせ祈ることで、気持ちが晴れて、今後の展開に少なからず期待を感じることが出来るはず。

まずは、氏神様へ参ってみてはいかがだろうか。そして、ご由緒をウェブサイトや現地のパネルなどで読んで勉強すると、思わぬ「地域の歴史や文化」と「神社の地域性」、「他社との歴史的な繋がり」が見えてきて、今後の神社巡りの新たな展望が見えるだけでなく、より居住地が好きになることであろう。
きっと、神社というのは、地域の自然と文化の中心的な存在であることが理解できると思う。

神社へお参りしたら、手水舎で手と口を清め、参道は真ん中を通らず(神様が真ん中を通られるので、私は左をいつも歩く)拝殿へと向かう。拝殿では、基本的にお賽銭をし、二拝し、鐘をならし、二拍手一拝。この順番で正しいのかいつも悩むのだが、そろそろきちっと勉強したい。柏手がパン!と神聖な空気を緊張させ、鳴り響くと気持ちが良いものである。

御祀神は、様々であるが、襟を正し、紳士的な参拝をすれば、きっと良いことがある。

信じるとは、「神社において、自然と文化と歴史を愛し、その全てを尊敬、感謝し、そして楽しむこと」であると、最近、神社を複数参っている中で確信した。

そのような、人間的に豊かな営みを通じて、「身も心も前向きに、豊かになる」と同時に「お祈りをしたことを、改めて強く自覚し」、そこにいくらか神様がお力添えをしてくださるからこそ、これまでの永い時間の中で、複数の人々が「その願いを成就させた」のではないだろうか。

最後になるが、あなたも、豊かな自然と歴史と文化の薫りを求めて「日常の中に神社」を位置付けてみてはどうだろうか。(運が良ければ、主猫ちゃんにも会えるかも…なぜか、神社では良く猫に会う…もしや、神様か?、あと、御先祖様のお墓参り等も忘れずに。私の家の近所でも彼岸花が綺麗に咲いております。)

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