勉強の時間 人類史まとめ19
『帝国』アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート3
自主管理の拡大
一方、働き手もかつては工場や炭鉱、工事、運輸などの現場で働く肉体労働者が主体だったのが、技術の進歩で現場の仕事は機器の操作や調整が主体になりました。また、事業の形態も変わって、商品をいかに売るかが重要になり、セールス、宣伝、商品開発・技術開発など、知的な仕事が大きく増えました。
こうなると昔のような労働者が企業と対立する構図はあまり意味をなさなくなり、働き手も企業がいかに儲けるかを積極的に考え、責任ある仕事をすることで、収入を増やそうとするようになりました。
お金の使い方も変わりました。
かつて労働者は資本・企業と不利な契約を結んで働かされることで搾取され、稼いだお金で資本・企業が生産した商品を買うことで、もう一度搾取されるというのが、社会主義者の認識でしたが、今では消費者が市場の頂点に位置づけられ、資本・企業は消費者の支持を得るために最大限の努力をしています。
ということは、人間は働き手としての地位も上がり、消費者としての地位も上がったということでしょうか?
そうとも言えますし、そうでないとも言えます。
消費者の地位が上がったのは、19世紀から20世紀にかけて経済の牽引役だった製造業の地位が下がったからです。経済を牽引する主役はもう製造業ではなく、消費者と直接つながっている情報産業や流通業です。
技術や社会インフラ、ビジネスの運営方法などが進歩・発展して、世界中いろんなところで商品が消費しきれないほど大量に生産され、効率よく流通するようになったおかげで、モノ自体がふんだんにあるのはあたりまえになりました。
19世紀とか20世紀前半までの価値観でいえば、世界は豊かになったといえるでしょう。
消費者は商品を買うときも、モノ自体を買うのではなく、イメージや感覚的な体験、満足感を買います。その意味ではもう製造業という業種は存在しなくなったと言ってもいいでしょう。外食でも音楽や映画やゲームでも旅行でも、衣服や住まいでも、消費者が購入するのはすべてイメージや感覚的な体験なのです。
産業は製造業も情報産業も流通業も金融業も、消費者にサービスを提供するサービス業になったと言ってもいいでしょう。
消費経済の支配構造
それでは消費者は経済の王侯貴族なんでしょうか?
そうではないことは誰もが感じているでしょう。消費者は企業が生み出すイメージを消費しているだけです。ただし、消費者はそれがどういうことなのかを理解していません。
消費者はかつて企業が大量生産した商品を、企業のイメージ戦略による広告宣伝で価値があると感じて買っていたのですが、今では自ら積極的に熱烈に商品やサービスを支持するファン、サポーター、マニアになっています。
ディズニーランドやディズニーの映画にも、うどんチェーンや牛丼チェーンにも、イケアや無印良品にも、百円ショップにも熱烈なマニアがいて、それぞれの文化圏を構築しています。
実質的に商品やサービスを開発しているのは消費者です。つまり消費者は資本や企業と一体化して、産業や経済を回しているわけです。
それでも、経済から富の多くを得るのは起業家や資本家、大企業のプロ経営者などのビジネスエリート、金融エリートなどごく一部の人たちで、多くの人は産業の底辺で誰でもできる単純な仕事をしてわずかな稼ぎしか得られない一般人です。
テクノロジーの進化のおかげで、今まで人間が担ってきた仕事の多くをシステム、機械が担うようになり、多くの人が職を失うか、システムや機械を補助する仕事、まだ人間がやった方が機械やシステムより安上がりなつまらない仕事をやるようになっています。
今は人間しかできないとされている、サービス業や福祉の対人サービスも、科学と経済合理主義でガチガチに縛られた、ストレスフルで低収入な仕事になっています。
多くの人が、冷静に自分を見ればプライドも夢も持てない生き方をしていますが、そんな絶望とかストレスから束の間逃れることができる商品やサービスも世の中に溢れています。
だからみんなアニメや映画や音楽やファッションや、料理やインテリアや美容やスポーツなどに夢中になるんでしょう。夢中になっていれば自発的、意欲的に行動し、主体的に生きているような気になることができます。
このプレーヤーの自発的、意欲的な行動が自分たちを支配するという仕組みこそ、資本主義がこの200年のあいだに構築し、洗練させてきたものだと言えるでしょう。
プチ資本家になれる自由
マルクス主義者は「資本主義では人間は労働し、生産することで搾取され、生産されたものを買わされることでまた搾取される」と考えます。働くことで企業/資本に儲けさせ、企業/資本が売るものを買わされることで、また企業/資本を儲けさせるというわけです。
そういう見方をすればそう見ることもできるでしょう。
しかし、今や人間はもっと資本主義で積極的、意欲的に稼ぎ、もっとうまいお金の使い方をして、もっと得をしよう、いい思いをしようと努力するようになりました。
個人的な不満はいろいろあるかもしれませんが、自分たちが意欲的にせっせと稼いで、せっせと使うことで欲望を満たし、資本主義経済を回していることについて、何か政治的に、社会構造的におかしいと考える人は、あまりいなくなりました。
さらに、余裕のある人はお金をためて投資し、働かなくても得られる収入を増やそうとします。昔から投資する人はいましたが、一部の富裕層に限られていました。しかし、今は誰でも手軽に投資できる時代です。
日本では高齢化社会になって、公的年金で暮らせなくなりそうだから、老後のために資産運用しようといった投資が多いようですが、アメリカでは投資で稼いだお金をどんどん使う人がけっこういるようです。
働き、稼いだお金を使うことで資本主義を回すだけでなく、投資によっても資本主義に参加し、そこで儲けたお金を使うことでさらに資本主義に貢献する。
いい思いをしたい、得をしたいという意欲によって、社会の構成員である人間が自分から資本主義のゲームを運営しているわけです。
政治の自主管理
民主主義という政治の仕組みも同じです。
いろいろ不満はあるでしょうが、制度的に国家の主権は国民にあるわけですから、国民が政治を自分たちの望み通りにできるわけです。
不満があれば社会運動や政治活動をして不満を世間に知らせて、世論を、政治を動かすこともできます。自分で立候補して政治家になることもできます。現にそういう活動をしている人もたくさんいます。
資本主義経済も民主主義国家も、あまりに大きすぎて誰にとっても思い通りにいかないというのはありますが、経済や政治の仕組みを上から強制されて、ガチガチに固められて、自由がないという状態にあるわけではありません。
制度を強制されて従うのが古い時代の政治だとしたら、現代の政治や経済の仕組みは、構成員である人間が自分でルールを決めて、自分でそれを守りながら運営しているわけです。
バイオな支配構造
古い制度が固い規律だとしたら、今の制度はプレーヤーである人間によって運営されるソフトな仕組み、有機体、生命体のような政治である。これはフランスの思想家ミシェル・フーコーによって提唱された見方、考え方で、この政治形態をフランス語でビオポリティーク、「生政治」と呼ばれています。
『帝国』の基本的な考え方のひとつは、この生政治、フランス語でビオポリティーク、英語でバイオポリティクスから生まれています。
共著者のマイケル・ハートとアントニオ・ネグリのうち、ハートは1960年生まれのアメリカの哲学者で、ネグリは1933年生まれのイタリアの哲学者ですから、国も世代も違うんですが、ネグリはミシェル・フーコーなどフランスの思想家の考え方を現実の政治や社会問題に当てはめて展開している思想家とされています。
『帝国』のどの部分をネグリが書いて、どの部分をハートが書いたのか、どんな共同作業を経て一冊の本になったのかはわかりませんが、人や社会、政治のバイオポリティカルなあり方についての視点は、元々ネグリから出てきたものなのかもしれません。
とにかく、今の世界は人間が民主的で自由な仕組みの中で、自分たちを進んで縛り、教育し、欲求を満たすために活動しているというのが、このバイオポリティクスです。
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