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希望などない春

なんだなんだよく分らないことになっているぞ??

私は本当に 「出世」 的なことが嫌いである。
色んなことにおいて嫌いである。

ハンドメイド販売をしていた頃は、「マイクロ社長 (?)」 みたいな感じで何もかも自分の裁量で決められるし、やめるも続けるも自由だし、好きなようにできていたから 「責任がのしかかる」 ことが嫌いなのではない。


何かを間違って、私にない能力を発揮するように期待されるポジションに配置されることがめちゃくちゃ嫌いだ。

何らかのコンテストに出ろとか、みんなをまとめろだとか。

何か大幅に間違っていると思う。


小規模な話だが、中学時代の冬休みの宿題であった書き初めが、いざ教室の壁面に貼り出されたとき、「元気がある」 みたいな理由で (クラス内で) 金賞を取ってしまった。

この 「元気がある」 という、決して 「うまい」 とは言い換えられない言葉で形容された理由を当時の自分なりに分析したものが下記である。


小学生までは確か 「書き初め用の筆」を使ってみんな書き初めを書いていたが、中学の宿題となると、書き初め用の筆などどこかに行ってしまったのか、みんな普通の筆で書いてきていた。

だから 「書き初め用の筆」 で書いた私の書き初めだけ、ぶっとい文字で半紙からはみ出んばかりに何か書かれていた。


ああそう、「希望の春」 だ。


希望の春     希望の春     希望の春     希望の春
希望の春     希望の春     希望の春     希望の春
希望の春     希望の春     希望の春     希望の春

希望の春     


note のフォーマットの関係でうまく私の 「希望の春」 を紛れ込ませることができなかったけれど、イメージ的には上記のような感じである。

「元気がある」 という形容に自分でも納得するくらいの的を射た表現だ。決して 「うまい」 ではないのだろう。
自分の能力など人にハッキリ言われなくても大体分るではないか。
そう、私は字がうまくないのだ。書道教室に通っていた割に。


話を戻して、金賞を取ったまではよかったのだ。
なにぶん、当時はそこまで自分の字がうまくないことも気づいていなかったと思うし (さっきと言っていること違うけれども)。
結構得意だったのではないかと思う。

しかし、ここから話が狂うのだ。


なんと区役所だかなんだかに飾るから、違うサイズの半紙で提出用の 「希望の春」 をもう 1 枚書いてこいというのだ。

まったく意味が分らない。
金賞を与えたのは担任なのだから、普段から私の字がうまいのかどうか、まぐれで賞を取れたのか (というか書き初め用の筆の馬力) というのは見極めなくてはならないではないか。

ムラがあるタイプなのか、いつでもきちっとやってのける秀才タイプなのか、判断しなくてはいけないではないか。
そういう意味では私は 「ムラがあるタイプ」 ということは遺憾なく発揮してきたと思うのだが。

なんで金賞取った文字をわざわざ捨てて (区役所に提出せずに)、新しいものを書かないといけないの? みんな冬休みの宿題終ったのに、なんでまた私だけ書かないといけないの???


いやもう本当にこの手のことが昔から嫌いなのだと今書いていてもつくづく思った。
本当に意味が分らない。
当時はそんな考えにまで及ばなかったけれど、私のメリットってなんだよということしか思わない。

しかしやはり多少 (?) 見栄っ張りの性格が災いしたのか、書道教室で先生に相談してまたそれを練習することに。
先生も自分の生徒が選ばれたのは喜ばしいことだろうから、もともといい先生なのもあって必死に協力してくれた。


先生的にも多少のプレッシャーはあったのかもしれない。
何枚も何枚も書いたが、先生の納得のいくものはできあがらなかった。
いつもはそんなこと絶対しないのに、なぜか私の筆を (私が持ちながら) 先生も持って一緒に書く、という謎行動に出た。

当然、字はかなり 「先生が良いと思う」 形に寄っていった。
最終的に先生が 「じゃあこれ」 と選んだものを持ち帰ったが、私は全然納得がいかなかったのだ。

だってそれは私の字ではないのだ。私はその字を綺麗とも思っていないし、そんなものを私のものだと言って提出したくない (この頑固さが字がうまくならなかった 1 番の理由だと思う)。

しかし学校から配られた 「専用のサイズの半紙」 はもうほぼ残っていない。

では私は何をしたのか。


また家でひとりで書いたのである。
「希望の春」 を。

書き初め用の細長い半紙はもうないし、普通の半紙も何十枚も使ってはもったいないので、新聞紙にも書いていた。

さて、ひとりで書いていたところに (呼んでいないのに) 私の母親が登場した。


はばからずに言えば、私の母親は字がうまい。私とは違う。
母親は別に書道検定や書道の先生になれるような資格や実績があるわけではないけれど、まぁ自分でも自分の能力は認識していたのであろう。
私を書道教室に通わせたのも母親だった。「あなたには素質がある」 という、これまた 「私にない能力を発揮するように期待」 されたのだ。

きっとみんな、私の実力や内面ではなく、自分の願望をその目に映しているのだろう。

私は書道教室に行っていなかったら本当に 「習いごとを一切していない人」 になっていたので、それはまぁよい。友達も多く通っている、評判の先生だったし。


そう、その母親が来てあれこれ指南し始めたのだ。

何なのだ、私は一体いつ 「希望の春」 から解放されるのだ。
何人の大人が関わって、こんないたいけな (?) 中学生を翻弄するのだ。
今でもこんな思いをしている中学生がいるなら、今すぐやめてあげていただきたい。

「の」 の書き方に関して何十枚も何十枚も練習させられた。
母親の理想の 「の」 があったのだろう。
なるほど母親の 「の」 は確かに綺麗に見える。しかし書けない。
「どーっしても書きたい」 と多分私は思っていないのだろう。

望んでもないのに何十枚も (もしかしたら 100 枚以上?) 意味を聞かれても分らない 「希望の春」 を書かされて、ウンザリする以上にできることなどもう残っていない。
何やねん 「希望の春」 て。

練習を続ければ続けるほど消耗して、また別の理由で母親に怒られ、もう本当にしんどくて消耗しながら仕上げた。

当然、いいものはできなかった。

最後まで先生と書いたものと (一応) 迷ってみたが、自分の字の方を提出した。


それが飾れらたらしい区役所に、私は見に行っていない。母親さえ行っていない。最終的に学校に返ってきて、職員室の前に貼り出された。
なぜか掛け軸の下側の芯が私のものだけ抜けていて、だらしなく少し巻き上がっていた。職員室の前を通るたびに嫌な気分になった。


もう本当にウンザリした。
この先、一生 「希望の春」 を筆で書くことはないだろう。

きっと 「希望の春」 のお手本を書いた人より練習回数は少ないと思うが、あの中学では誰よりも私が多く書いたに違いない。

変に目立つと災いが起きるということを、ポンコツな私はここで認識することができなかった。


そして今も同じようなことで苦しんでいる。
事情が変ってしまったので詳しくは書けないのだが、私のメリットってなんだよとかなり不思議に思い、駆け込み寺的に note を開いて今これを書いている。

なんたらコンテストに出ろと言われたときも、目指したくもない賞を取るため練習させられたりダメ出しされたり、もう本当にしんどい。
そんなコンテストに出たがる人もいるので、「私はその資格がないのに…… (賞を取りたくないなんてワガママだ)」 みたいなことも言われたりした。

まったく本当にやめていただきたい。
私が立候補したことなど一度もないではないか。
勝手に 「この人には資質がある (あって欲しい!)」 と思い込み、在りもしないものを掘り起こそうとしているのだ。
だからお互いに出血する。


私は努力が嫌いなのではない。
資格を取得することによって手当が付いたりする場合は、俄然頑張る。
だってそれは確実に私のメリットになるではないか。
しかも 1 回取得したら更新する必要なく、ずーっと手当てが付くとか何その神システム、という印象しか抱かない。


しかし謎の 「入賞しました」 という事実や、インテリアにそぐわなさそうなゴミの分別もよく分らない (ひょっとしたら粗大ゴミで有料扱い?) 謎の細長いトロフィーなども欲しくない。

本当に 「謎」 という言葉を連発するくらい、私はそのへんのことがよく分らない。


つくづく、ひとりでいると幸せなことばかりだなぁと思う。
自分が魚で水槽に入れられるなら、

  • 自分以外誰もいない水槽

  • グッピーのような群れがいる水槽

とでは、断然前者を選ぶだろう。
群れと言わず、水槽の魚が全体で 4 ~ 5 匹だったとしても、誰もいない水槽を選ぶだろう。

他者の摩擦の中で消耗するくらいなら、淋しくてもひとり死ぬまで泳ぎ続ける方が、幸せではないか。



よく分らないけれど、あーもう本当に 「希望の春」 事件はウンザリだ。
忘れていたのに今詳細まで思い出してしまって後悔しているところである。
開けない方がいい扉は開けない方がいい (?)。 




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