デューク西郷

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最近の記事

邪馬台国の所在地についての教科書の記述③

今年の4月から高校で使用されている「日本史探究」の教科書を入手しましたので、邪馬台国の所在地についての記述がどのように変わったかを調べてみました。 上記史料1とは「魏志倭人伝」で、大倭や一大率などの倭国の政治制度、大人・下戸やあいさつの仕方など倭人社会の様子、卑弥呼の宮殿や墓についての口語訳で、 史料2は「魏志倭人伝」で、景初三年の朝貢、皇帝の詔書、金印や銅鏡などの下賜品についての口語訳です。 従来の教科書との比較では、山川出版社の教科書は、纒向遺跡についての説明が詳しく

    • 邪馬台国の場所を推理する⑧

      【オモシロ畿内説批判】今回はただのお遊びですが、畿内説に対する面白い批判を集めてみました。 畿内説に対する批判には様々なものがありますが、その中でトンデモ系は内容から4つのグループに分類できそうなのでまとめてみました。 ①魏志倭人伝を曲解したり独自解釈をして畿内説を批判するパターン ・奈良には海がないので、海洋民族のように書かれている点が魏志倭人伝と不一致になる。 ・3世紀の畿内に入れ墨の風習はないので、魏志倭人伝と不一致になる。 ・伊都国や奴国など魏志倭人伝に記述のある国

      • 邪馬台国の所在地についての教科書の記述②

        『もういちど読みとおす山川新日本史』という本が先日出版されましたので読んでみました。 この本は高校の教科書『新日本史』(山川出版社)をベースに書かれた社会人向けの日本史教科書という位置付けです。 また執筆者も高校の教科書『新日本史』と同じです。 この本では邪馬台国の所在地について以下のように記述されていました。 参考として現在の教科書での記述を再掲いたします。 2つの書籍でポイントとなる部分を抽出するとこうなります。 ・「ヤマト」を中心とするヤマト政権に邪馬台国連合が直接

        • 日本人のルーツについて②

          【現代日本人はいつ頃形成されたのか?】「日本人のルーツについて」というタイトルで続編を書いてみます。 それにともない、前回の記事を①に、今回の記事を②とします。 現代日本人の形成について従来広く支持されてきた仮説は、二重構造モデルと呼ばれるものです。 縄文時代には日本列島に縄文人だけがいたが、弥生時代になると大陸から渡来してたきた人々がいて、縄文人と弥生人が混血することで現代日本人が形成されたという説です。 様々な物的証拠も二重構造説と整合性があります。 縄文時代の日本列

        邪馬台国の所在地についての教科書の記述③

          邪馬台国の所在地についての教科書の記述①

          【邪馬台国の場所は日本史の教科書でどのように書かれているのか?】 現在、高校で使用されている日本史の教科書をいくつか調べてみました。 調べた中では、下記の教科書において、邪馬台国の場所はまだ判明していないが、畿内説が有力になっていることを示唆する記述になっています。 なお、教科書のシェアとしては、3つで75%くらいを占めます。 教科書はその性質上とてもコンサバなスタンスであり、専門家の間で説が固まってから教科書に反映されるまで何年も要すると言われてます。したがって、いずれの

          邪馬台国の所在地についての教科書の記述①

          日本人のルーツについて①

          【縄文人は本当に日本人の祖先なのか?】現代の日本人が縄文人と弥生人(渡来人)のミックスだということは、もう一般常識となってますが、縄文人と弥生人がどのくらいの割合で混ざってるのかは明確になっていません。 人骨の形状や考古学的アプローチに加えて、近年は遺伝子研究が進歩して、いろいろな方法で研究されています。 ■ Y染色体ハプログループ 父系ルーツを表す遺伝子です。 現代日本人の中で、縄文人ルーツとされるY染色体ハプログループD系統の割合は35%〜40%です。 韓国では南部に多

          日本人のルーツについて①

          邪馬台国の場所を推理する⑦

          【九州説はなぜ成り立たないのか?】 おまけになりますが、九州説がなぜ成り立たないのかを書いてみます。 なお、ここで想定してる九州説とは、糸島や福岡平野以外の九州のどこかに邪馬台国を比定するオーソドックスな九州説で、邪馬台国の中に伊都国や奴国があると主張するような特殊な九州説は想定していません。 九州王朝説のように日本古代史を全否定してる説も考慮に値しないので、ここでは想定してません。 九州説が成り立たない1つ目の理由は、魏志倭人伝の記述と不一致になるからです。 魏志倭人伝で

          邪馬台国の場所を推理する⑦

          邪馬台国の場所を推理する⑥

          【まとめ】 魏志倭人伝の行程記事から邪馬台国の位置を特定することは不可能なので、魏志倭人伝で最も重要で最も信頼性の高い皇帝の詔から 「邪馬台国はどこにあるか?」=「倭国を代表して魏と外交交渉をやっていたのはどの勢力か?」と置き換えて、3つの根拠を提示しました。 ・纒向遺跡 → 畿内を中心にした広域連合の証拠 ・北部九州で出土する畿内系土器と前方後円墳 → 3世紀前半には畿内勢力が北部九州に到達していた証拠 ・3世紀の中国鏡 → 畿内勢力が魏との交流で主導権を握っていた証拠

          邪馬台国の場所を推理する⑥

          邪馬台国の場所を推理する⑤

          【畿内説への反論(2/2)】 畿内説に対する反論の続きです。 反論7:九州の邪馬台国と畿内の初期ヤマト政権が並立していた可能性がある。邪馬台国が列島最大勢力だったとは限らず、魏志倭人伝に記載されたのはタイミングよく魏に朝貢したからだ。 九州の邪馬台国と畿内の初期ヤマト政権が並立していたという仮説を前提にすると、以下のように非現実的な状況を想定しなければならないか、あるいは矛盾だらけの状況になってしまいます。 ・郡使は伊都国まで頻繁に往来し、倭国の状況を細かく調査し、旁国2

          邪馬台国の場所を推理する⑤

          邪馬台国の場所を推理する④

          【畿内説への反論(1/2)】 畿内説に対するよくある批判や反論とその答えもまとめておきます。 反論1:魏志倭人伝に書かれている倭人の風習文化が畿内では合わないものが多い。 魏志倭人伝は魏志邪馬台国伝ではありません。 魏志倭人伝には倭人の風習文化や倭国の産物が書かれていますが、邪馬台国での風習文化が書かれているわけではありません。 例えば、倭人が漁労民のような生活をしている記述、倭人の葬制についての記述がありますが、これらは邪馬台国とは無関係なものです。 伊都国には郡使が頻

          邪馬台国の場所を推理する④

          邪馬台国の場所を推理する③

          【魏志倭人伝との整合性】 魏志倭人伝の記述と整合性がとれてるかを見てみます。 まず最初に注意すべき点ですが、魏志倭人伝は魏志邪馬台国伝でありませんし、邪馬台国旅行記でもありません。 魏志倭人伝には、倭人の風習文化や倭国の産物などが書かれていますが、それらは邪馬台国とは直接関係ありません。どの地域を観察したものか不明だからです。 魏志倭人伝と整合性があるかどうかは、邪馬台国について書かれた部分で検証しなければなりません。 邪馬台国についての主要な記述を列挙します。 ・30国

          邪馬台国の場所を推理する③

          邪馬台国の場所を推理する②

          【畿内説の主な根拠】 では、倭国を代表して魏と外交交渉をやっていたのはどの勢力だったのでしょうか? 畿内勢力だと考えてますので、その根拠を3つ挙げます。 ①纒向遺跡 ②北部九州で出土する畿内系土器と前方後円墳 ③3世紀に編年される中国鏡が畿内を中心に分布 ①纒向遺跡について 纒向遺跡の周辺は、ヤマト政権発祥の地とされ、前方後円墳もここから全国に展開されていきました。 纒向遺跡は日本初の人工都市でもあり、3世紀前半の日本列島で最大の大型建物があり、纒向型前方後円墳が築造され、

          邪馬台国の場所を推理する②

          邪馬台国の場所を推理する①

          【はじめに】邪馬台国の場所については古代史最大の謎でもあり、小学生から年配者まで楽しめる謎解きでもあります。 個人的には畿内説支持ですが、自分なりに根拠をまとめてみました。 とは言っても、いろいろな本から自分が納得したものを集めただけで、すべて受け売りです。 本題に入る前に、魏志倭人伝に出てくる国の中で、場所が判明しているいくつかの国を整理しておきます。 これらは専門家の間でもとくに異論はありません。 ・帯方郡 → 北朝鮮の黄海北道鳳山郡(沙里院市のとなり)が有力 ・狗邪韓

          邪馬台国の場所を推理する①